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3.3.4 唐の動揺 世界史の教科書を最初から最後まで

イケイケドンドンだった唐がグラグラしてくるのは、8世紀(今から1300年ほど前)に入ってからのこと。

そのきっかけとなったのは、皇帝周辺のゴタゴタだ。


3代目の皇帝の高宗(こうそう;ガオディ)はもともと病気がちで、政治の実権は外戚(皇后の一族)に握られていた。

それに対し、高宗の后となった照(ぶしょう)という女性の一族は、外戚を追放。

皇后の一族先代の父の”側近”らは次々にクビにされ、しだいに武照は、高宗の代わりに政治の実権を握るようになっていった。彼女はこのとき”大物貴族”ではなく、低い身分の出身者を積極的に採用している。

高宗が亡くなると、息子の中宗が皇帝に即位したものの、武照(ぶしょう)は中宗をクビに。
中宗の弟である睿宗(えいそう;ルイヅォン)を、代わりに皇帝に据え、言いなりにした。

しばらくして彼女は、なんと自分自身が皇帝に即位。

唐ではなく、新たな王朝である「」(しゅう;ヂォウ)をはじめた。
のちに「則天武后」(武則天(ぶそくてん;ウーツーティエン))と呼ばれることになる、中国史上唯一の女帝だ。

うるさい大物貴族たちではなく、科挙によって選ばれた実力のある部下たちを積極的に役人に任用。
さらに、唐の皇帝が重んじていた道教ではなく仏教を保護し、大仏を建立。仏教の力を利用して国を治めようとしたのだ。

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日本にで奈良の大仏が建てられたのも、同じような「護国仏教」の考え方に基づいている。

女帝は晩年になると体調を崩し、705年に中宗がふたたび即位すると、王朝が復活。そのすぐ後に彼女は亡くなった。

その後、中宗の皇后が再び実権をにぎろうとしたものの失敗。

こうしたゴタゴタをようやくおさめた玄宗(げんそう;シュェンヅォン、在位712~756)は、政治の引き締めにつとめようと張り切った(開元の治)。

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しかし、次第に玄宗は楊貴妃(ようきひ;ヤングイフェイ)を寵愛するようになり、次第に政治に対する熱意を低下させていってしまう。




しかし、玄宗個人のみに原因があるとも言いがたい。
支配のシステム自体が、壊れつつあったからだ。

もともと唐は、国が土地を農民に支給し、そこから税や働き手、兵士をとるという設定だったよね。
しかし、負担を逃れて逃亡する農民が増え、税も働き手も兵士もとれなくなってしまっていた。

そんな状態じゃ、国境の警備は手薄になってしまうよね。
そこで玄宗は、不足する農民兵を補うために傭兵(ようへい)を用いることにした。これを募兵制という。また、指揮官として「節度使」(せつどし;ジェドゥーシー)を任命し、辺境の防備に当たらせることにした。

節度使には、北方の騎馬遊牧民があてられることも多く、755年にソグド人と突厥の両親をもつ節度使の安禄山(あんろくざん;アンルーシャン)が、その武将の史思明(ししめい;シースーミン)とともに大反乱を起こす結果を招いてしまう。

史料 唐から見た「安史の乱」

(都落ちした皇帝のもとに)ウイグル・チベットの使者が次々と到着し、和親を請い願って、唐を助けて反乱軍を討つことを願い出た。

『旧唐書』より要約、『新詳世界史探究』帝国書院、47頁。

史料 ウイグルから見た「安史の乱」
(ウイグルの可汗のもとに)…「この苦難から救って下さい。援助して下さい」という(唐の天子の)言葉(=請願書)が来た。神である王(*ウイグルの可汗)がこの言葉を聞いた時、自ら強力な軍隊とともに天子の居所(*中国)にお進みになられた。

森保孝夫『シルクロードと唐帝国』一部改変、『新詳世界史探究』帝国書院、47頁。



これにより長安は荒廃。
都を脱出した皇帝の玄宗と、彼がぞっこんだった楊貴妃(ようきひ、719~756)の逃避行は、詩人 白居易(はくきょい;ベイジーイー)の『長恨歌』(ちょうごんか)にうたわれている。

唐はもはや自力で反乱をおさめることはできず、騎馬遊牧民国家を築いていたウイグルに援軍を要請。ウイグルの君主(葛勒可汗)は援軍要請に応じた。

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史料 唐とウイグルの関係
元来ウイグルは功名をたのみ、乾元(けんげん、安史の乱の時期にあたる元号)の後より、しばしば使節を派遣して、馬をもって絹と交易した。そこで毎年、交易しに来て、馬一頭で絹四十匹を交換し、ややもすると数万頭の馬をもたらしてきた。

『旧唐書』より要約、『新詳世界史探究』帝国書院、47頁。


763年にようやく鎮圧したころには、ほかの節度使も唐のコントロールできる状態ではなくなっていった。唐の支配から自立し、その地の行政・財政をにぎった節度使のことを「藩鎮」(はんちん)という。

そんな中、ウイグルや吐蕃(チベット人の国)も唐に侵入するようになり、みるみるうちに唐の領土は縮小。泣きっ面に蜂とはまさにこのことだ。

史料 吐蕃と唐のあいだに823年に結ばれた会盟

チベットの大王聖神ツェンポと、中国の大王中国王皇帝の外孫と外祖父2人は政事を合議なさり、大和解をなさって、誓いを立てた。[…]すなわち、チベットと中国の双方は、現状の通りに、支配している国と境を守り、その東方すべては大中国の国、西方すべてはまさしく大チベットの国であって、以後、互いに敵として争わず、兵を率いず、国を攻め取らない。[…]

*ツェンポというのは皇帝のこと。チベットの君主も「皇帝」名乗っているのだ。その後の「中国の大王中国王皇帝の外孫と外祖父2人」は、チベットと中国(唐)の君主の間で、後者に優位な形で親族関係がむすばれているという意味。
なお、これ以前にも唐は吐蕃との間に何度も会盟を結んでいる(参照:菅沼愛語
「唐・吐蕃会盟の歴史的背景とその意義 : 安史の乱以前の二度の会盟を中心に」、『日本西蔵学会々報』56、2010年

歴史学研究会編『世界史史料3』岩波書店

唐の徳宗は財政を立て直そうと、780年に両税法(りょうぜいほう;リァンシュェイファ)を導入した。
これは、国が与えた土地以外からも、土地の資産に応じて年2回(夏・秋)に税をとれるようにしたもので、税収アップをねらったもの。同時に塩を売ることができるのは国だけという規制をもうけた(塩の専売制)。

しかし、唐の国家組織には、すでに塩の密売商人を規制することができるほどの余裕はすでにない。
塩の密売商人の黄巣(こうそう;ファンチャオ)らが当局に対して反乱を起こすと、農民や都市民もこれに加わり、中国全土を巻き込む大反乱となったんだ。

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黄巣は長安を占領し、一時皇帝を宣言するけど、節度使の活躍でなんとか乗り切った。

しかし、乱の後の唐は長安周辺を支配する一勢力にまで落ちぶれてしまう。
安史の乱により焼け野原となった長安と、それでも変わりなく残る山や川を見て、詩人の杜甫(とほ)は「国敗れて山河あり」と読んでいる。なんとも切ないね。




こうして中国は、各地で独立勢力となった節度使による乱世に突入。

黄巣軍から寝返った節度使 朱全忠(しゅぜんちゅう;ヂューチュェンヂォン)が、ライバルたちを蹴落とした上、長安の高級官僚や貴族たちを徹底的に叩きのめした。

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そして唐最後の皇帝(哀帝)に位を譲らせる形で、新たな王朝である「」(りょう;リァン)を建国。

南北朝時代に存在した「梁」と区別するため、これを「後梁」と呼ぶ。


こうして、約300年続いた唐の支配は幕を閉じ、再び分裂の時代を迎えることとなるんだ。




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