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14年前。 #わたしの3月11日

あなたの体験した3月11日を、文章に残しておきませんか。殴り書きでも、文章として体裁が整っていなくても、残しておくことが大切だと思います。当日から現在まで、見たもの、感じたもの、考えたものを、思い出した順に書き出してみたいと思います。 #わたしの3月11日

14年前。2011年の3月11日。

あなたはどこで、何を見て、何を感じ、何を考えただろうか。

それは忘れもしない、金曜日だった。わたしは友人と映画館で戦争の映画を観ていた。「太平洋の奇跡」という映画だった。

いいところだった。密林に潜む日本兵のところに、敵兵が襲ってきたところだったと記憶している。あれ?揺れてるか?ゆらゆら。ゆらゆら。

そのうち収まると思われた揺れは、収まるどころか次第に大きくなっていった。映画の内容はその時点で頭に入らなくなっていた。

周囲の人間もざわつき始める。こんな揺れは初めてだ。そのうちスマホもブーブー振動し始めた。当時、周囲はみんなガラケーだったが、私はiPhone3GSを持っていて、高度利用者向けの緊急地震速報を受信できるアプリを入れていた。ここに至っても、上映中の真っ暗闇でスマホの画面をつけて良いものか私は少し迷ったが、そんなことは気にもしていられない。通知画面を見ると、震源地は三陸沖とあった。

私がいた場所は震度4だった。震源から遠く離れたここで震度4なら、三陸沖、宮城や岩手の沿岸地域は相当揺れているだろう。津波の危険性もあるかも。一気にそこまで想像した。

私は、翌月の4月から地震学の研究室で研究を進める予定だった。専門家には程遠いが、一般の人よりは地震に関する知識があった。停電になり映画も上映中止となったため、とりあえず映画館を出た私は、iPhone3GSで気象庁のホームページにアクセスを試みた。速報で何か情報が出ているかもしれない。今だったらX(旧Twitter)で情報収集するところだが、当時、Twitter自体はあったものの、私はアカウントを持っていなかったし、利用していなかった。

iPhons3GSの、今はなきホームボタンを押して、Safariを開いた。気象庁、と入力したものの、なかなか通信が終わらない。平時でも、今の感覚からすると通信速度は遅かったが、それにしてもこの時は遅かった。それもそのはず。日本で類を見ない超巨大地震だったため、日本中から気象庁のホームページにアクセスが殺到していたことだろうし、キャリアの通信網のキャパ自体がギリギリの状態だっただろうから。

バスで映画館にきたのだが、バスは動いていなかった。仕方がないので歩いて帰る。町中の信号機が止まっていたが、交通事故も起きずに、みんなが順番を守って車を運転していた。

スーパーに寄ってみると、中は人で溢れかえっていた。万引きされても分からない混雑ぶりだったが、いちおうみんな、レジに並んでいた。レジが動かないのか、店員さんが手書きと電卓で会計していたのが、混雑の原因だったようだが、怒ったり苛立ったりする人は不思議といなかった。みんなが並んでいると、私も何か買った方がいいような気がして、とは言っても特に何を買うとも思いつかず、とりあえずポテトチップスを買った。

帰宅してみると、やはり停電で電気は使えない。テレビも見れないので情報はラジオか携帯から得るしかなかったが、ラジオは「大地震発生、津波の危険性」についてしかほぼ話していなかったように記憶している。充電できない以上、スマホも手放しで情報収集に使うのは躊躇われた。こういう時のためにと、単三電池3本でiPhoneを充電できるバッテリを持っていたのだが、間抜けなことに電池のストックがあまりなかった。iPhoneを1/3程度は充電できるだろうか。未曾有の超巨大地震に対しては心許なかったが、仕方ない。

ラジオと、時々開くスマホは、地震規模であるマグニチュードがだんだん大きくなっていることを伝えていた。Mw8.8と聞いたときは、本当かと思った。歴史に残る超巨大地震だ。死者も少しは出るんだろうな。何百人かな、何千人かな。阪神淡路大震災の死者数が確か、何千人か。それと同程度にはなるかも、なんてぼんやり思っていた。

無常にも、その日は国立大学の二次試験受験日の前日だった。弟は翌日の受験がどうなるか、不安な時間を過ごすことになる。

未曾有の大地震が起きても、腹は減る。ガスは使えたので、母が温かいそうめんを作ってくれた。家族でそれを食べ、その日はみんな、同じ部屋で寝た。夜中に一発、大きな地震が起きて、家族みんなで飛び起きたが、昼間の地震とは違ってすぐ収まったので、そのまま再び布団に入った。

翌朝、朝刊が届いた。ずいぶん大きな津波が三陸の沿岸を襲ったこと、膨大な人数がそれに飲み込まれたであろうこと、東京タワーの上の部分が曲がったこと、などがニュースになっていた。どこか非現実的な感じがあり、うわぁ、すごいことになった、などとぼんやり思っていた。日本という国が、どこか正常に機能しなくなったような、そんな漠然とした不安感のようなものがあった。

昼過ぎに電気が回復して、遠慮なくスマホを充電し始め、同時にノートPCをつけて情報収集にあたった。すると、想像していたよりはるかに大ごとだと気づいた。津波の高さは40mにも及び、内陸数kmにまで入り込んできたとか。とてもイメージできない。今でこそわかるが、死者数、行方不明者数は合わせて2万人にも及ぶ。桁がひとつ違っていた。そんな津波があるものなのか。

福島の原発もどうやら危ないらしい。東北の地震計は一部不調なものがあったようで、緊急地震速報が不安定になっていた。M9の地震があったからには、余震でM8クラスの地震が起こる可能性がいまだに残っていた。長野県や、福島・茨城県境では地震が多発していた。震源域とは異なる場所でも、プレートが押し合う力のバランスが崩れて、日本全国で地震が多発していた。首都直下地震の発生確率が上がったと、東大地震研究所が発表し、その直後に京都大学が数値を修正するなどという事態が起きた。もう何が何だかわからない。

東京電力、東北電力の社員を装って女性宅に押し入り、乱暴を働く者がいるらしい。放射性物質を含んだ雨が降っているらしい。放射性物質が水に混ざっているが、沸かして飲めば弱毒化できるらしい。今ほどSNSのネットリテラシーが広がっていなかった時期である。何が正しく何が間違っているのか、様々な情報が拡散され、いちいち真に受ける人間が多くいた。

3月16日には静岡で震度6強の地震が起こった。今度は富士山が噴火するんじゃないかと、南海トラフだって怪しいぞと、これもまた多くの噂が出た。

数ヶ月後には、高校の時の同級生からメールがあり、飲食店で久しぶりに会った。すると隣に何やら知らない大人が付いてきていて、「実はね、この前の東北の地震は、神様がお怒りだから起こったんだ」などと言われた。カッとなった私は、周囲の目も気にせず怒鳴った。亡くなった2万人の前で、「神様が怒ったからあなたは死んだ」なんて言えるか、と。

世界が壊れていく感じがして、みんなとても不安なのだろうとは思った。私も不安だった。いっそ、予測が一向に当たらない地震学なんかより、神様に全てを委ねられるなら、それも一つの考え方なのかな、なんて思ったこともある。

自然現象を科学的に扱うという方法は、メカニズムを明らかにして数値や式で考えることで、まだ見ぬ将来の現象を予測可能であることが、一つの目標であるはずだった。天気予報のように。

天気予報だって当たらない時はある。台風の進路予想が外れることもある。それはそう。だが、著名な地震学者が雁首揃えて、テレビカメラの前で「想定できませんでした」と首を垂れる姿は、まさにこれから地震学の世界に入ろうとする身にとってとても衝撃的だった。

地震学に何ができるのか。そもそも何ができたのか。できたと思っていただけではないか。これから勉強することは本当に正しいことなのか。

その年の夏、私は大学院進学の試験を受け、合格した。地震学を勉強している目の前で未曾有の超巨大地震を目撃した。その地震と津波で2万人もの方が亡くなっている。地震と無関係な生き方はしたくないと思った。その後、私は大学院を卒業し、地盤調査会社に就職し、地盤や地震動の評価を仕事にしている。研究者ではないが、実務を通して、少しでも地震による被害を減らす道を歩みたかった。

今年で、東日本大震災から14年が経過する。早いものである。その間、2014年には長野県で地震があり、2016年には熊本で地震があり、2018年には北海道胆振で地震があり、2024年には能登半島で地震があった。その度に、現地に住む方は「まさかここでこんな地震が起こるなんて」と驚き、悲しんでいる。

果たして、私には何ができたのだろうか。研究者として最前線で地震防災に携わる勇気も持てず、かといって被災地で汗に塗れてボランティアに携わる熱量も持てなかった。そのくせ、地震による被害を減らすことには貢献したいなどと思ってはいた。

私は震災で誰も失っていないし、何も失っていない。ただのらりくらりと、日常を生きてきただけだった。ニュースで見聞きする被災者の方の、生きる力はなんとも逞しく、心から尊敬の念を抱かざるを得ない。大切な方を失い、大切なものを失い、そのうえ、逞しく生きていこうと考えることのできる強さには、私なんかはとても及ばないと思う。

私にできることは、日々の仕事で、可能な限り真摯に、真剣に、目の前のデータに向き合い、少しでも地震に強い、安全な建物ができるように努めることだけだった。それは、私なりの闘いでもある。意地みたいなものかもしれない。

わたしなんかにも、やれることはある。そう信じている。信じたいだけかもしれないが、とにかくそう思うようにしている。

あの時、3月11日には、私は地震学を勉強し始めただけの学生で、私にやれることはほとんどなかった。今なら、少しくらいは自信を持って、何かしらに貢献していると信じられるかもしれない。

当時、2万人の方が突然命を奪われたのと同じ世界線で地震学を学んでいた私には、その現実に思いを馳せる義務があると思う。そして、どこかの誰かの役に少しでも立てたならば、それは技術者として最高に幸せなことだと思う。

それが、あの日の経験から生まれた、ささやかな願いである。

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