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ヨロモタひとり旅 大分編

 中津・宇佐・豊後高田の旅

 今回は、ヨロヨロモタモタしながら、ひとりで大分を旅することにしました。大分県は、海を挟んでお隣の県でもあることから、今までに何度も訪れています。
 でも、行くところは別府周辺ばかりで、大分イコール別府温泉というイメージでした。今回は、大分県でも北のエリアにある、中津、宇佐、豊後高田を旅します。
 この地域への旅を思い立ったのには、理由がふたつあります。
 ひとつは、以前から、「青の洞門」を訪れてみたかったこと。小学校の教科書で習った話が、ずっと頭に残っていて、いつか行ってみたいと思っていたのです。
 江戸時代の話だったと思うのですが、街道の途中に、子供たちが命を落とすような危険な崖があり、旅のお坊さんが、これを憂いて、安全な道を作ろうと思い立ちました。何年もかけて、一人でコツコツと掘り進め、最後には洞窟のトンネルが開通。皆が安全に通行できるようになったとのこと。この手彫りのトンネルが「青の洞門」と呼ばれている。このような、あらすじだったと思います。
 ふと思い立って調べてみると、この場所は、大分県の中津市だったのです。話のもととなった小説も読んでみました。菊池寛著「恩讐の彼方に」です。この本を読んで、訪れたい気持ちが、より深まりました。
 もう一つのきっかけは、奈良時代の歴史を勉強していて、宇佐神宮の話が何回も出てきたことです。調べてみると、これも大分県宇佐市で、中津市のお隣でした。また、中津市や宇佐市のホームページで詳細に調べてみると、興味深い場所がたくさん見つかり、私の重くない腰が上がったということです。このような訳で、今回の旅の行先と目的が決まった次第です。
 年と共に、ヨロヨロ モタモタしている自分。そんな自分に不安や転倒のリスクを感じながらも、旅の感動と驚きを求めて、またまた、ひとり旅に出かけます。今回は、船中二泊、ホテル三泊での大分の旅です。

大分の旅 一日目 小倉行フェリー

 松山から小倉までフェリーで移動。夜九時五十五分松山観光港を出港し、翌朝五時に小倉港に入港。
 この松山・小倉航路は、歴史ある航路です。一九六九年、私が小学六年生の夏休み、ひとりで小倉の叔母夫婦の所に遊びに行った時に乗った記憶が最初でしょうか。
 その後、一九七三年 関西汽船が、阪神・四国・小倉の旅客船航路から松山・小倉航路を分離。二〇一三年石崎汽船が、松山・小倉航路を引き継ぎ、現在に至っています。
 石崎汽船は、同航路の重要性、必要性、利用者からの強い航路存続への訴えに対応するため、航路を引き継いだとのことでした。
 私は、小学生と高校生の時、ひとりで乗って旅をしましたが、その時は、二等客室は、ほぼ満員でした。夜、松山港を出港し、早朝、小倉港に入港する、今と同じパターンでしたが、現在は、利用者数が大きく減少しています。
 高速道路を無料化してから特に、利用者が急速に減少し、大阪、神戸、別府などを結ぶ航路が無くなってしまったと聞いています。車での移動は便利でいいのですが、船でのゆったりした旅もいいものですよ。
 近年、人手不足の対策として、トラック輸送の際、フェリーを利用することを計画している運送会社も出てきたようです。ぜひフェリー航路を以前のように充実させて欲しいものですね。フェリー航路を守ってくれている石崎汽船の努力に感謝、感謝です。
 とはいえ、フェリーは、老朽船なので、最近の新造船と比較すると、正直言ってあまり乗り心地は良くないかも。でも内装はリニューアルされていてきれいです。
 特に一等客室は、以前は四人部屋で、二段ベッドが、室内に二つ設置されているタイプでした。ですから夫婦で入室しても、最悪、知らない人たちと同室になる可能性がありました。これが、リニューアル後は、きれいな、ふたり部屋になったので、次回は私も妻と利用してみたいなと楽しみにしています。より多くの方がフェリーを利用し、快適な船旅を楽しめるようになってほしいものですね。

 さあ、時間がきたので乗船しましょう。
 松山観光港の待合室から、エレベーターで二階に上がり、長い廊下をひたすら歩く。これが結構長い。本当にこの連絡通路でいいのだろうかと、不安になってきた頃、乗船用のタラップが見えてきました。
 私は、ひとり旅の時は、いつも二等寝台を利用するので、指定された部屋までヨロヨロモタモタ……
 タラップを渡り、船内に入っても迷いながら、矢印を探し、階段を上って、やっとのこと客室デッキに到着。
ーーやっと着いたぞ~。ふーっ、とため息。
 客室デッキに入ると、売店やレストランがあり、左右二本の廊下が奥に向かって伸びています。
 廊下と船の外側との間は、二等寝台の客室、廊下と廊下の間は、洗面所やトイレ、浴室となっています。
 廊下を進み、乗船券に記載された番号の客室に入ります。中に入ると、奥の窓に向かった通路の両側に。上下二段ベッドが二台ずつ配置されており、定員は八名です。
 自分の居場所にたどり着いたところで、早速、巣作りといきましょう。
 窓に向かって左下のベッドが私の指定席です。マットレスの上に、用意されたシーツを敷き、掛布団にもシーツを掛けます。私は背が高いこともあり、背中をのばすと、頭が天井に衝突するので要注意。体を少しかがめた状態で動くのがコツかな? 
 足元上部には棚があり、荷物を置くことができるし、枕元には蛍光灯とコンセントがあり、スマホ等を充電することができます。結構機能的な構造となっていますね。
 最後に、各スペースを仕切っているカーテンを閉じ、個室空間にして準備完了!
 後は、明日のことを考えて、爆睡しましょう。おやすみなさい。

大分の旅 二日目 青の洞門 中津城

 早朝、五時小倉港着。六時半まで船内休憩し、歩いてJR小倉駅まで移動。そこから日豊本線の普通列車に揺られて約一時間。八時過ぎにJR中津駅に到着。
 南口から駅の外に出て、JR中津駅を振り返ります。こうして、旅先で初めて訪れた町の駅舎を見るのも、旅の楽しみのひとつです。
 JR中津駅で印象的なのは、駅舎前面上部に描かれた駅名と、その下にあるストライプでしょうか。「中津駅 NAKATSU STATION 」と書かれた、鮮やかな朱色の文字、そして、その下の左右に広がった真っ赤なストライプ。
「ほう~っ!」と、心の中で、感嘆の声が漏れます。
 南口の駅前には、ホテルやスーパーのビルが立ち並んでいて、人口八万人の中心地らしい景色です。 
 まずは、今回の旅の第一目標である青の洞門を目指しましょう。早速、青の洞門行きのバス乗り場を確認し、三十分程待ってバスに乗り込みます。
 私は、公共交通機関と徒歩で、ひとり旅をしています。ひとりという適度な緊張感によって、感覚が研ぎ澄まされ、通常なら見過ごしてしまうような小さな出会いに、感動をもたらすのです
 また、自らの足で、見知らぬ街を歩き回ることで、その街の位置的感覚が身体と同化し、あたかも住み慣れた町を歩いているような、親しみを感じます。これらが合わさって、さまざまな「おどろき」となって心に深く刻まれていくのでしょうか。ひとり歩き旅でしか味わえない感覚かな? 
 そのような旅では、バスの時刻やのりばの確認は特に重要です。何故かというと、近年、利用者の減少により、便数が削減されていることが多いからです。一便乗り遅れると、次は二時間後なんてことも少なくありません。ですから、私は旅に出る前に、必ず乗り場と時刻をネットでチェックするようにしています。
 今回は、大分交通・大交北部バスのホームページで、中津駅前の乗り場と時刻表を確認し、スマホのメモ帳に張り付けていました。
 また、乗換案内のアプリでも確認し「え~! どうしよう……」てなことがないようにしています。
 中津駅前から乗ったバスは、小刻みに停留所に停車しながら、市街地を抜けていきます。中津駅前から青の洞門までは、約十三キロ、歩いたら二時間半というところでしょうか?
 窓から見える景色は、いつの間にか田園地帯へと変わり、しばらく進むと右手に山国川が見えてきました。川沿いを上流にさかのぼると険しい山肌が見えてきます。
 青の洞門は、思ったより近くにあり、中津駅を出発してから、約二十五分程度で到着しました。バス停に降りたら、まず帰りの便をチェック。約二時間後か……
 洞門に入る前に、青の洞門について、整理しておきましょう。

青の洞門

 江戸時代になって、新たに堰が造られたことによって、山国川の水がせき止められ、川の水位が上昇してしまいました。
 そのため今までの道が通行不能となってしまったのです。村の通行人は、しかたなく川沿いに屹立している競秀峰という名前の高い岩壁に作られた、危険な道を、鉄の鎖を命綱にしながら通っていました。しばしば、足を滑らせて滑落し、命を落とす旅人もいたということです。
 諸国を巡礼をしながら修行をしていた禅海和尚が、この地を訪れた時、危険な岸壁につけられた道で、多くの人や馬が命を落としていることを知り心を痛めました。
 禅海和尚は、心を定め、自らがノミと鎚を使って岩肌を彫り始めたのでした。(一七三五年)
 その後、禅海和尚は、托鉢によって資金を集め、仲間の石工たちと共に、三十年掘り続けました。そして、一七六四年ついに貫通したのでした。全長三四二メートル(トンネル部分は、一四四メートル)
 当時の通行料として、人は四文、牛馬は八文を徴収し、それを工事の費用にあてていたとのことです。
 明治三十九年に大改修が行われ、江戸時代の洞門の様子は、かなり変わってしまいましたが、トンネル内の一部や明かり採り窓などに、当時の面影を残す手掘り部分が残っています。
 青の洞門という、分かり易いバス停で降りたのは、私一人。バスの過ぎ去る方向を見ると、五十メートル程先に、大きな岩壁をぶち抜いたようなトンネルが見えました。
ーーあのトンネルが青の洞門かな? とにかく行ってみるか。
 山と川に挟まれた、車がやっと二台離合出来るくらいの車道が、トンネルに向かって続いていました。向かって右は崖で、かなり下の方に川が流れています。左側には、すぐ山が迫ってきていて、見上げると急峻な崖が見渡せます。
ーーこの岸壁はすごいなぁ。奇岩が連なっているよ。これが耶馬渓を代表する難所、競秀峰やな。
 トンネルの手前には、休憩所らしき建物があるが、人はいない様子。建物の手前には、「競秀峰めぐり入口」とあり、登山道がつづいているようです。大きな案内図もあり、ここから頂上を目指すのでしょう。
 今でも、江戸時代の旅人が歩いた、この競秀峰を通る道が残されており、そこを目指す登山者も多いとのこと。その日も、駐車場に車を置き、登山道を登って行った数組の登山者を見かけました。
 実は、私も山登りが好きだったので、この競秀峰に登ってみたいなと思い、計画していたのですが、登山動画を見て、そのあまりの恐ろしさに断念してしまいました。興味のある方は、ネット動画を見てみてください。ヨロモタの私は、絶対無理ですよね。君子危うきに近寄らずです。
 青の洞門は、車の通るトンネルの横、川のある側に掘られていました。当時の手彫りの跡が残っているのは、明り取りの場所や、川の上流側の一部でしたが、ノミで掘った跡に指を這わせ、当時の禅海和尚が岩を刻んでいる様子を思い浮かべ、感動しました。
ーー よくぞ、この固い岩盤を手で掘ろうと思い立ったものだなぁ。この岩はすごく堅そうやな。
 川の上流側の洞門出口付近は、当時の洞窟内部の様子が、三十メートルほど残っていて、当時の人々が、薄暗い洞窟の中を後ろから、歩いて来ているような気配と共に、江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を感じました。
 青の洞門については、小学校の教科書で学んだと記憶しています。教科書のさし絵には、お坊さんがムシロの上に正座し、岩壁に向かって一人でノミと鎚で岩を砕いている情景が描かれていました。その頃、私は岩石や化石に興味があり、休みの日には、近くにある崖に行き、化石採取をしていました。アンモナイトや植物の化石がいろいろ出土していたのです。化石がある地層ですから、砂岩や泥岩で、そんなに硬い岩ではなかったと思いますが、小学生には大変な作業でした。一人でタガネと鎚でコツコツと岩を削って化石を探していたのを覚えています。
 そのようなことから、青の洞門の岩を刻んでいる和尚の姿が印象に残ったのだろうと思います。「僕も、一人で岩を刻んで洞窟を掘ってみたいな!」とドキドキしながら想像に胸を膨らませたことでしょうね。懐かしい記憶です。
 洞窟を抜けると、広い駐車場があり、そこには、善海和尚の銅像や、菊池寛のモニュメントが設置されていました。
 菊池寛は、文藝春秋、芥川賞、直木賞などを設立したことで有名ですが、短編小説「恩讐の彼方に」は、この善海和尚をモデルとした作品です。この青の洞門を訪れる前には、ぜひ

菊池寛(著)小説「恩讐の彼方に」

 をお読みいただきたいと思います。

 駐車場の下には、おだやかな流れの、気持ちのいい河原があり、その河原に座って、しばらく競秀峰の奇岩の連なる岸壁を眺めていました。
ーーあ~気持ちがいいなぁ~! 深山緑水の中で心おだやかに過ごす時間はいいなぁ~!
 単眼鏡で、目の前に聳える垂直の岸壁を観察していると、上部に、横に連なる岩の境目が見えます。よく見ると、それは、岩をくり抜いた道でした。岸壁をカタカナの「コの字型」にくり抜き、そこを人が通るようになっているのです。柵も手すりもありません。脚を滑らせたら、そのまま垂直の崖から転落し、おそらく命はないでしょう。
ーーこれだな、動画で見た恐怖のルートは。
 私は、この道を通るとしたら、背が高いので、中腰でここを歩かなければ無理みたい。そんなことは、とてもできそうにありません。腰を曲げて歩いていると、背中のザックが、岩壁に引っかかって、「あれ~っ!」と、下まで一気に空中移動。改めて恐怖が背中を走りました。
ーークワバラ クワバラ。行かなくて正解やったな。行ったら死んでたわ。
 私は、旅に出る前に下調べはしっかりするのですが、動画は見ないようにしています。一度、動画をしっかり見て予習して行ったところ、「あっ、ここだ! ここだ!」とか、「そうそう、こんな感じだったな」のように確認作業となり、感動が薄れてしまったのでした。それ以来、動画は、事前に見ないようにしていたのです。
 ところが、この競秀峰については、いやな予感がしたというか、虫が知らせたというか、動画を見てしまったのでした。そして、その画面には、世にも恐ろしい風景が映し出されていたのです。
ーーこれはいかん。最近、足元も見えにくくなったのに、こんなとこに行ったら最後や!
 と、今回だけは予習動画が功を奏したのでした。
 バスの時刻まで、まだたっぷり時間があります。河原の大きな石に腰を下ろし、クッキーを食べながら、川のせせらぎの、爽やかな音色に耳を傾けます。
 周囲の木々は、紅葉に美しく色づき、いつまでも、この場所にいたいなと思いました。ここから、さらに奥に行くと耶馬渓です。
 今回、旅の計画を立てている時に、ぜひ耶馬渓を歩きたいと考えていたのですが、残念ながら、公共の交通機関が、ほとんどなく断念しました。
 コミュニティバスは、運行しているのですが、極端に便数が少なかったのです。
ーーう~ん、残念やな。車がなくても行けるように公共の交通機関を整備していただけるとありがたいんやけどね。
 チョコクッキーで空腹を慰めた後、駐車場から対岸にかかっている歩行者専用の小橋を渡ります。対岸には、日田住環中津街道があり、交通量が多そうです。
 川沿いの小道を下流に向かって歩くと、「青の洞門対岸のネモフィラ」という場所がありました。
ーー青の洞門対岸のネモフィラって何かいな?
 四月中旬から五月上旬にかけて、青の洞門沿いの山国川対岸に広がる田んぼ一面に、青いネモフィラが咲き誇るとのこと。
 ちなみに、ネモフィラは、森の妖精のような、澄んだブルーの花が咲くそうですよ。今回は時期外れでしたが、次回は、ぜひこの時期に訪れたいものですね。
 さらに下流に向かって歩くと、耶馬渓橋が見えてきました。

耶馬渓橋(オランダ橋:重要文化財)
 一九二三年に竣工した橋で、日本唯一の八連石造アーチ橋、日本最長の石造アーチ橋、日本百名橋の一つで、上流の馬渓橋、羅漢寺橋とともに耶馬渓三橋と呼ばれています。
 地元では、オランダ橋と呼ばれているそうですが、これは、長崎に多い水平な石積みを採用しているためとのこと。
 橋の袂には、「むかえる、さかえる、ぶじかえる」と台座に刻まれたカエルの親子の像がありました。
 青の洞門周囲を一周したところで、ちょうど予定の時刻となり、バスで中津駅に戻ります。

 今度は反対側の北口から出ます。北口駅前のロータリー中央には、「福沢諭吉ゆかりの地 中津市」と説明板があり、ドーンと福沢諭吉像が設置されていました。
 さて、ここからは歩いて巡ることにします。まずは、中津城を目指しましょう。
 いつものように、スマホを取り出し、アプリのジオグラフィカとグーグルマップを起動。
 JR中津駅北口を出ると、すぐ左に日ノ出町商店街のアーケードがあります。残念ながら閉まっているお店が多いためでしょうか、やや暗いアーケードを西方向に歩きます。
 話は、変わりますが、各地のアーケード街を歩いていて、元気がないなと寂しく思います。 私は、地方の特色がある、これらのアーケード街を歩くのが大好きなのですが、シャッターが下りている店が多く残念に思っています。
 大手のショッピングモールは、繁盛していて、人やお店も多く、活気があっていいのですが、どこの地方に行っても同じで、わざわざ行ってみようとは思いません。
 街はずれの広大な敷地に、駐車場と巨大なショッピングモール。できれば、大手企業と古くからの商店が両立するような、それぞれの地域の特色を生かした、街の計画が増えてくることを願っています。さて、話を戻しましょう。
 中津といえば、「中津からあげ」ですよね。市内にたくさんのからあげ店があって、食べ比べができる、と思って楽しみにしているのですが、今のところ、商店街には、からあげ店が見当たらないようです。帰りに、いくつかお店を廻って買って帰ろうかなと思っているのですが、見つからないのですよ。おかしいな?
 アーケード街を最後まで歩き、北方向に伸びる大きな道を進むと、中津城が見えてきます。中津駅から、約千五百メートル、歩いて十七分くらいなので近いですね。 

中津城

 中津城のみどころは?
 中津城は、黒田官兵衛によって築かれた城で、日本三大水城のひとつです。(他の二つは、今治城と高松城)
 中津川に沿って城を建設しており、川から直接、堀の水を引き込んでいます。そのため、河口近くの堀には、海水が流れ込んでいるようです。
 また、築城当時に築かれた貴重な石垣が一部残っており、残存している部分は、石垣としては、九州の城では最も古いものとのこと。
 江戸時代になると、奥平昌成が中津藩主となり、明治維新まで続きました。(場内は、奥平家の資料館となっています)
 城の東側の堀に沿って歩いていると、「黒田時代の石垣」と書かれた標識があります。城の北側の石垣を見ると、黒田孝高の築いた本丸跡と細川忠興の増築跡の石垣が混在しているのを見ることができました。右側の黒田が戦国時代に築いた堅固な石垣と、左側の細川が自然石を使って積み上げた石垣がはっきり分かれているのが良く分かります。
ーーこの北東から見た中津城天守閣は、かっこいいね。どーんと聳えていて、ものすごく迫力があるな。中津のシンボルやね。
 残念ながら、中津城の天守閣は、模擬天守閣とのことで、萩城をモデルにして作られたそうなんです。でも、とてもかっこいいですよ。
 現在の模擬天守閣は、昭和三九年に市民らの寄付で鉄筋コンクリートの奥平家歴史資料館として建築されたとのことです。
 天守閣の中に入り、展示を見学しながら階段を上ります。資料館には、徳川家康から拝領した「白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)」や「長篠の戦い」で使用された法螺貝などが展示されていました。
 天守閣最上階からの、見晴らしは素晴らしく、河口に位置しているため中津市内だけでなく、海まで見渡せる絶景でした。
 中津城というと、黒田官兵衛が、関ヶ原の戦いの最中、座敷に、ありったけのお金を山済みにして、傭兵を募集し、自ら賃金を手渡した話が有名ですが、模擬天守閣の資料館には、奥平家の資料のみで、黒田官兵衛に関する展示はありませんでした。
ーー黒田官兵衛に関する資料の展示がないのはどうしてかな? 中津の歴史としては重要な気がするがな~?
 不思議に思いながら、天守閣の外に出ると、敷地内に、小さな展示室があり、NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」などの資料が展示されていました。
 模擬天守閣を建築する際、旧藩主である奥平家の援助があったとのこと、また、この中津城は、全国の城で唯一株式会社の所有、運営であることなど、珍しいお城でした。
 市民が心を合わせて、中津市のシンボルともいうべきこの天守閣を築いた努力に対して、感謝、感謝です。
 城の北側にある武家屋敷跡を見学し、中津城を後にしました。

村上医家史料館

 次に、来る途中にあった村上医家資料館に向かいます。中津駅から中津城まで歩いている途中に、村上医家資料館があるのをチェックしていました。
 外観は、町並み保存地区によくある江戸時代の商家という感じで、現在の病院とはまったく異なる様相です。中に入ると、商家の和室に、たくさんの展示ケースが置かれていて、ちょっとビックリ。。
 受付には 係りの男性が二名おられましたが、見学者は、なんと私ひとり。
ーーこれは、じっくり説明をきけるぞ! ラッキー!
 説明によると、村上医家は、一六四〇年に初代の宗伯が医院を開き、以来、中津藩の御典医を務めた家だそうです。
 中津藩は、前野良沢や福澤諭吉を生み出したことでも知られていますが、村上医家史料館では、江戸時代に建てられた屋敷を利用し、医家の史料及び人体解剖に至るまでの医学の流れを展示しています。
 村上玄水は、一八一九年に中津藩の許可を得て、九州で初めて人体解剖を実施したとのこと。おどろいたことに、現在に至るまで医家として継続していて、村上記念病院として、この近くで病院を開業されているとのことでした。
 江戸時代から、継続して中津市民の健康維持に努力されてきたことに感動しました。感謝、感謝です。
 江戸時代に実際に使われていた、医院を見学するのは初めて。医療と和室という、なんとも不思議な環境を目の前にして、その当時の様子を想像してみましょう。
 江戸時代の患者さんが、この商家の玄関の扉を開けて来院し、この八畳くらいの広さの待合室に座って待ちます。受付では、どのような人が対応していたのでしょうか? 
 そして、隣のベッドもない普通の和室で、どのように診察し、治療が行われていたのでしょうか? 時代劇などで、漢方医が脈をとって診察する場面は見たことがありますが、蘭方医が実際にどのように治療していたのか、とても興味深いですね。
 医院に入ると、すぐ奥に八畳くらいの診察室と思われる和室があるのですが、その部屋のふすまに、古い書が表装されていました。係りの方が、
「これは、頼山陽の書です」
 と説明してくれました。
「えっ! こんなところに…… いいんですか?」
 複製でもない、正真正銘の、本物の頼山陽が書いた「書」が、普通に、部屋と部屋を仕切っているふすまに、貼られていたのでした。
 誰でも、簡単に触れることができる環境で、頼山陽の書を見たのは初めてでした。
「すごい!」
 私には、何と書かれているかはわかりませんでしたが、じ~くり拝見させていただきました(もちろん、触れたりはしてませんよ)
 次に、上の方を指さして、
「あれは、錦の御旗です。中津藩が、戊辰戦争の時に使ったものです」
「え~っ! こんなところに、普通に置いていていいんですか?」
 本物の「錦の御旗」を見たのは、二回目です。初めて見たのは、何年か前、東京の靖国神社の宝物館である「遊就館」でした。手の届かない高いところに厳重に展示されていました。
 このように、手を伸ばせば触れることができるところで見たのは初めてでした。貴重な史料を身近に感じることができ、思わず感動のため息がもれました。
 多くの博物館や資料館では、展示品と見学者との距離があり、身近に接する機会は少ないのですが、ここでは、至近距離から見せていただくことができたのです。史料館を管理している皆様に感謝、感謝です。
 その他にも、江戸時代に使用されていた、外科治療器具や種痘に使用していた機器などが、数多く展示されており、貴重な資料の数々に感動。恐るべし、村上医家史料館。
ーーそれぞれの器具が、何という名称で、どのような目的に使われていたのか、詳細な解説とともに展示されていたら、最高にうれしいのだがな。
(医療関係者以外は、あまり興味ないかもしれませんね)
 貴重な資料を目にし、思わず長時間滞在してしまいました。見学者は、私一人でしたので、係りの方が、付きっきりで熱心に説明してくれました。
 私も、職業柄、医学史には、興味があったので、前野良沢についても、いろいろ質問させていただきました。
 すると、なんということでしょう。「解体新書」の本物があるとのこと。
 この史料館ではなく、一キロほど北にある大江医家史料館に本物の「解体新書」を展示しているとのことでした。
ーーこれは、絶対行かんといかんな!
 と決意する私でした。
 係りの方と意気投合して、長話をしてしまいました。こういった史料館では、ついつい話が盛り上がって、長居をしてしまうことが度々あります。妻が横にいる時は、あきれられることが多いのですが、今日は一人なのでセーフ。外に出ると、すでに薄暗くなっていました。
ーーこれはいかん! ぼちぼちホテルに行かねば……
 アーケードを通って、中津駅み戻ります。今回も宿泊は、全国チェーンのビジネスホテル。中津駅を出て、すぐ右にあることを確認します。なんと、その途中にスーパーがある。やはり、いいところに建てているなと感心しました。
 私は、コンビニではなく、ご当地のスーパーで買い物をします。ご当地ならではの、メーカーのものや、この地方にしかない食材に巡り合うことがあるからです。スーパーで、いつもの食材を購入し、ホテルに向います。今日は、感動の旅の幕開けでした。明日に備えて、超早寝します。

大分の旅 三日目 宇佐神宮/歴史博物館

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