「頑張りたい」という気持ちとの、やさしい付き合い方。
最近、「もっと頑張らなきゃ」と思う夜が続いています。
特に何かに躓いたわけじゃない。仕事も、生活も、なんとか回っている。ただ、寝る前にスマートフォンを眺めていると、誰かが新しいプロジェクトを立ち上げていたり、勉強を続けていたり、副業を始めたりしている。そのたびに、じわっとした焦りが胸の中で育っていくのを感じます。
頑張りたいのに、日常で精一杯。そのくせ、周りの「頑張り」が眩しくて。そういう気持ちを抱えながら、うまく言葉にできずにいました。
今日は、その話をしようと思います。
さて、ここから本題に移っていきましょう。
▶︎ 「頑張りたい自分」と「日常で精一杯の自分」の間で
皆さんは、「頑張りたい」と「頑張れない」が同時に存在していると感じたことはありませんか。
厄介なのは、この二つが矛盾しているように見えて、実は同じ人間の中にちゃんと共存しているということです。頑張りたい気持ちは本物。でも、日常をこなすだけでもう十分に消耗している、というのも本物。どちらかが嘘をついているわけじゃない。
私にも、そういう時期があります。詳細は伏せますが、仕事の中でやりたいことが山積みになってきたとき、それとは裏腹に一日の終わりには何もできなかった、という夜が何度もありました。「今日こそ勉強しよう」「今日こそあの本を読もう」と思って帰宅して、気がついたらソファで横になっている。
その自分が情けないとか、だらしないとか、そういう言葉で片付けていた時期もあります。
でも今は少し違う見方をしています。
▶︎ 日常を生きることは、すでにコストがかかっている
心理学に「自我消耗(ego depletion)」という概念があります。人間の意志力や自制心には限りがあって、一日の中でさまざまな判断や感情処理を行うたびに、その「残量」が減っていくという考え方です。研究の詳細には諸説あるものの、「使えるエネルギーには上限がある」という感覚には、多くの人が直感的に同意するのではないかと思います。
朝起きて、今日何を食べるか選んで、どの順番で仕事を片付けるか判断して、誰かとのやりとりで気を遣って、夕食の買い出しをして。それだけで、もうかなりのリソースを使っている。
「日常で精一杯」というのは、意志が弱いということではなく、日常そのものがすでに相当なコストを要求しているということかもしれません。
▶︎ 比べる、ということの残酷さ
問題をもう少し複雑にしているのが、「比較」というやつです。
社会比較理論という概念があります。人は自分を評価するとき、絶対的な基準ではなく「他者との比較」に頼りやすい、という心理学上の知見です。提唱したのはレオン・フェスティンガー。1954年のことですが、SNSが発達した今の時代ほどこの理論が残酷に機能する時代もなかったのではないかと思います。
SNSで見える他者の「頑張り」は、その人の一日全体ではなく、その人が「発信しようと思った瞬間」だけです。起きられなかった朝も、先延ばしした夜も、スマートフォンをぼんやり眺めていた時間も、そこには映っていない。
でも私たちは、他者の「ハイライト」と自分の「全部」を比べてしまいます。
それは最初から、フェアではない戦いです。
▶︎ 「頑張り」の総量は、外からは見えない
もうひとつ、気になっていることがあります。
「あの人は頑張っている」「自分は頑張っていない」という感覚の裏側に、「頑張り」には客観的な量がある、という前提が隠れているような気がするんです。でも、本当にそうでしょうか。
たとえば、慢性的な睡眠不足の中で毎日出社している人と、十分に休みながら副業をしている人と、どちらが「頑張っている」かを量ることはできるでしょうか。三人の子どもを育てながら仕事をしている人の「精一杯」と、一人暮らしで副業を三つ掛け持ちしている人の「精一杯」は、同じ単位で測れるものではないはずです。
それぞれの人が、それぞれの地面の上に立っている。その地面の硬さも、傾きも、高さも、外からは見えない。
プロダクト制作をしていると、似たような問題に直面します。ユーザーがどういう状況でプロダクトを使っているかは、こちらからは見えない。疲れているとき、忙しいとき、気分が優れないとき、そういう文脈の中でも機能するものを作ろうとするとき、「平均的なユーザー」への過度な想定がいかに危ういかを感じます。人は、常にベストな状態でいるわけではない。それはプロダクトのユーザーも、SNSで「頑張り」を発信している誰かも、そして自分も、同じことです。
▶︎ 「頑張れない日」を責めることの、もったいなさ
話を少し変えます。
「頑張りたいけど頑張れない」という夜を、自己嫌悪で終わらせてしまうのは、ちょっともったいないと思うようになりました。
その夜の自分には、その夜なりの理由がある。うまく言語化できなくても、身体が「今日はここまで」と言っているなら、それはひとつの信号です。そこで無理やりエンジンをかけようとすることより、「なぜ今日はここまでだったのか」を静かに観察する方が、長い目で見ると自分のことをよく知れる気がします。
行動変容の研究では、長期的な習慣を作るのに重要なのは「強い意志」よりも「小さな成功体験の積み重ね」だということが繰り返し示されています。頑張れた日を「すごい自分」と感じるより、頑張れなかった日に「まあ、そういう日もある」と流せる自分の方が、結果的に長続きするという側面もある。
完全に休んだ日が、翌日の動き出しを助けることも、わりとあります。
▶︎ 「頑張りたい」という気持ちは、資源だと思う
最後にひとつだけ。
「頑張りたい」という気持ちを持っていること自体は、悪いことではないと思うんです。むしろそれは、何かに向かおうとしている自分のエネルギーの証みたいなものだと、私は感じています。
ただそのエネルギーは、無限じゃない。だから使いどころを選ぶことが、長く持続させることにつながる気がします。
日常を整えることも、ゆっくり眠ることも、回復に時間を使うことも、広い意味では「頑張りの準備」です。「頑張れていない」ではなく、「次に備えている」と捉えるだけで、少し夜が柔らかくなるような気がしています。
頑張りたいのに、今日も精一杯で終わった。そういう夜は、自分を責めるより先に、今日の自分がどれだけのものを抱えていたかを、一度数えてみてほしいなと思います。
見えていないコストが、きっとたくさんある。
あなたの今夜が、少しでも柔らかくありますように。
