永遠の0から考える、日本保守党と〈自己犠牲〉をめぐるナラティブ
はじめに
最初に断っておくと本稿は、私が『永遠の0』という一つの物語と、
日本保守党の言説や政策をかなり無理矢理につなぎ合わせて考えた
きわめてナラティブな内容である。
なお、私は百田尚樹氏や有本香氏を嫌っているわけではない。
特に有本香氏については、言論人として非常に優秀だと思っている。
ただ、それは政治家としての評価とは別の話である。
共感と投票は別
日本保守党の政策を一通り読んでみると、共感できる部分は少なくない。
主張の方向性は明快で、今の政治に対する問題意識にも、大きなズレは感じない。少なくとも、「何も考えずに言っている」とは思えなかった。
だからこそ、少し戸惑った。
政策としては理解できる。間違ったことを言っているとも思わない。
それでも、投票行動に結びつくかと問われると、答えはノーだ。
「嫌いだから入れない」のではない。
「危険だから拒否する」という感覚とも違う。
投票とは、政策の正誤を判定する行為ではない。
この先の社会を、この人たちの言葉と価値観に委ねられるかどうか、
という判断だと思う。
日本保守党の政策を読みながら、私はその問いに、どうしても即答できなかった。
その理由を考えているうちに、頭に浮かんだのが『永遠の0』だった。
『永遠の0』前半にあった価値観
『永遠の0』の前半で描かれる宮部久蔵は、当時の軍隊の価値観から見れば、かなり異質な存在だ。
彼は「必ず生きて帰れ」と部下に命じ、精神論や名誉のための無謀な戦いを、はっきりと拒否する。
それは臆病だからではなく、家族のもとへ帰る責任を、誰よりも重く受け止めていたからだ。
国家や大義よりも、目の前の命を優先する。
その姿勢は、戦争を扱った物語の中ではむしろ現代的ですらある。
多くの読者がこの前半部分に反戦性や人間的な誠実さを感じたのは
自然なことだと思う。
少なくともここでは、「何のために命を使うか」よりも
「どうすれば生きて帰れるか」が物語の中心にある。
私自身もこの前半の宮部久蔵に強く心を引かれた一人だ。
彼の価値観は特別に立派だからではなく、あまりにも生活に近い。
家族のもとへ帰りたい。
明日も生きていたい。
そのために無意味な死を拒む。
後半で引き受けられる「何のために命を使うか」
物語が後半に進むにつれ、宮部久蔵の選択は大きく変わっていく。
前半で一貫していたのは「生きて帰ること」だった。
だが最終的に彼は、特攻という行為を引き受ける。
それは上官に命じられた結果ではなく自ら選び取った決断として描かれる。
この転換によって『永遠の0』の問いは明確に変わる。
どう生き延びるか、ではなく
何のために命を使うのか。
この変化には確かに崇高さがある。
仲間を思い、次の世代を思い、自分の命を引き受ける姿は強い印象を残す。
家族のもとへ帰ることを誰よりも大切にしていたはずの人物が
最終的に「命を使う理由」を引き受ける。
その落差の大きさに私はどうしても自己犠牲の影を見てしまう。
この選択は自由意思として描かれているからこそより称賛されやすい。
だが本来それは追い詰められた時代と状況の中でしか成立しえなかった
例外的で取り返しのつかない決断だったはずだ。
自己犠牲が「物語」になるときの危うさ
宮部久蔵の選択が読む人の心を強く打つのは事実だ。
自ら選び、引き受け、誰かのために命を差し出す。
そこには確かに美しさがある。
けれど、その美しさが「物語」として切り取られた瞬間、
私は一つの危うさを感じてしまう。
それは、本来は極限状態でしか生まれないはずの選択が、
いつの間にか「理想像」や「あるべき姿」へと変換されてしまうことだ。
「自分で選んだのだから尊い」
「覚悟を決めたのだから称えられるべきだ」
こうした言葉は一見すると正しい。
だが同時に、選ばなかった人、選べなかった人の存在を
静かに押し流してしまう。
自己犠牲は尊い。
しかしそれは誰もが引き受けるべき価値ではない。
もし社会や政治の中で、自己犠牲が前提として語られるようになったとき、
そこには必ず「耐える役割」を担わされる人が生まれる。
声を上げられない人。
逃げ道を持たない人。
「覚悟が足りない」と切り捨てられる人。
このとき私が感じた違和感は、フィクションの中だけにとどまらなかった。
同じ構図を、現実の政治の中にも見出してしまったからだ。
日本保守党の政策に感じた共感と距離感
日本保守党の政策を読んでいて、まず感じたのは極端さではなかった。
日本の成り立ちや文化、先人たちの歩みを正しく学び、
国家や社会を支える意識を次世代に引き継ぐ。
この考え自体に文句をつける理由は見当たらない。
むしろ、多くの人が一度は頷く内容だと思う。
私自身、歴史教育や文化の継承が大切だという点では大いに共感している。
それでも、どこか引っかかりが残った。
それは政策の内容というより、そこから立ち上がってくる空気のようなものだ。
語られているのは、
「守るべきもの」
「引き継ぐべきもの」
「支えるべき国家」。
その言葉の積み重ねがいつの間にか個人よりも国家を前に出す構図を強めていないか、という感覚。
それは決して露骨な自己犠牲の要求ではない。
だが、「支える意識」を強調する語りは、状況次第で自己犠牲と親和的にもなりうる。
私が感じた違和感は、政策の是非ではなくその先にある物語の向きだった。
「守る」語りと「更新」の不足
日本保守党の言説では、「何を守るのか」は繰り返し語られる。
伝統、文化、国家、家族、誇り。
守るべき対象は明確で、言葉も強い。
一方で、「どう更新するのか」「どんな変化を前提にするのか」は見えにくい。
守るために何を変えるのか。
誰が変わることを引き受けるのか。
だが、これからの日本は変化を避けて通れない。
人口減少はすでに進行しており、労働力・社会保障・地域社会の前提そのものを揺さぶっている。
価値観は単一ではなくなり、「日本人像」を一枚岩として描くことは現実と乖離しつつある。
経済・安全保障・情報空間は、否応なくグローバルな前提の中に置かれている。
こうした条件のもとで必要なのは、「何を守るか」だけでなく、
「何を変え、どう折り合いをつけながら未来をつくるか」という設計図だ。
しかし日本保守党の語りからは、
「新しい日本」
「これからのグローバル社会における日本」
といった像が具体的には立ち上がってこない。
結果として提示される未来は、「変わらない日本」か、「失われた過去への回帰」に近いものになる。
それは安心感を与える一方で、現実の複雑さには応答しきれていない。
この「更新の不足」は、単なる政策の未成熟ではない。
むしろ私には、「変わること」よりも「耐えること」を価値として前に出す、ある種の物語構造の結果のように見えた。
ナラティブとして見る日本保守党
ナラティブとして日本保守党の言説を眺めていると、そこでは「日本」が、何かを奪われ、長く抑圧され、我慢を強いられてきた存在として語られているように、私には見える。
戦後の占領、グローバル化、リベラル、メディア、国際社会——挙げられる要因は様々だが、「本来あるべき日本が外部によって歪められてきた」という構図は、繰り返し立ち現れる。
この語りの中では、困難や負担が「誰の、どの生活に、どうのしかかっているのか」はあまり具体化されない。
犠牲の主体は「国民」「日本人」「我々」といった集合名詞に回収され、結果として、実際に負担を強いられている層や、削られていく生活の輪郭は見えにくくなる。
そのとき政治は、個別の痛みや制度設計の問題というよりも、「皆で引き受けるべきもの」という物語として語られていく。
しかし政治とは、本来「誰かの自己犠牲」によって成り立つものではない。
負担を分配し、制度として最小化し、異なる立場の声が可視化されるように設計する営みのはずだ。
耐えることを前提とした語りが強まるほど、政治が果たすべき役割そのものが、物語の背後に退いてしまうようにも感じられる。
おわりに|これは私個人のナラティブだ
ここまで書いてきたことは、事実の断定ではない。日本保守党の政策が正しいか、間違っているかを裁くつもりもない。
これは、私自身の経験や生活感覚から立ち上がってきた、一つのナラティブにすぎない。
お風呂でぼーっと考えているうちに、
なぜか日本保守党と百田尚樹と『永遠の0』が頭の中で結びついてしまい、そこからほどけずに残った違和感を、言葉にしてみただけだ。
政策分析としてどこまで意味があるかは分からない。
けれど、政治を「制度」や「正解」だけで捉えるのではなく、自分の生活感覚や価値観と照らし合わせて考えること自体は、無意味だとは思っていない。
こういう、結論の出ないことを大真面目に考えてしまう。その過程で、自分がどんな物語に居心地の良さや息苦しさを感じるのかを確かめる。
私にとって政治とは、そういう距離感で向き合うものでもある。
それだけの話だ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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