【KADOKAWA受賞作】「闇の中に差す光──辻村深月『闇祓』を読んで」
辻村深月の『闇祓』は、単なるホラー小説ではない。
それは「人の心に棲む闇とは何か」という問いを、静かな恐怖とともに突きつけてくる、極めて現代的な心理小説である。読むほどに、怪異の恐ろしさよりも、人間そのものの不気味さが際立ってくる。辻村深月がこれまで描いてきた「人の内面を覗き込む物語」が、ホラーという形式を借りて、より直接的に読者へと迫ってくる一冊だ。
物語は、高校のクラス委員長・原野澪と、転校生の白石要の出会いから始まる。
要はどこか不穏で、最初から澪に強い関心を示す。笑わない瞳、唐突な発言、距離を詰めてくるような空気。澪は恐怖を感じながらも、要の存在から目を離せない。最初は“ストーカーのような不気味な少年”という印象で始まる物語は、ページを進めるごとに反転していく。澪の周囲で、徐々に説明のつかない出来事が起こり、やがて要の存在が「闇を祓う者」であることが示唆されていく。タイトルの「闇祓(やみはら)」とは、“闇を祓う者たち”のこと。だがその「闇」は怪異でも妖怪でもない。人間の心に棲みつく、悪意・嫉妬・無関心といった、名のない感情の集合体である。
辻村は、これを「闇ハラスメント(闇ハラ)」という言葉で定義する。
それは、目に見えない圧力、悪意の伝染、誰かを傷つける空気のような存在だ。暴言や暴力のように明確な加害ではない。だが、確かに人の心を蝕む。たとえば、SNSでの無言の無視、学校での微妙な排除、家庭内の沈黙。そうした“誰にも責任がない暴力”が、澪の周囲をじわじわと蝕んでいく。
読んでいるうちに、私はこの“闇ハラ”という概念が、現代社会そのものを象徴しているように思えてきた。私たちは毎日、目に見えない圧力の中で生きている。誰もが被害者であり、加害者にもなり得る。その構造を、辻村はホラーという形で視覚化してみせたのだ。
澪は当初、自分が「被害者」であると思っている。要に怯え、逃げようとする。だが、物語が進むにつれて、彼女自身が他人を傷つける側であった可能性が浮かび上がる。人間の心は単純に善悪で分けられない。誰もが何らかの“闇”を抱え、それを知らず知らずのうちに他人へ伝染させている。
「闇を祓う」という行為は、単に他人の闇を取り除くことではない。自分の中の闇と向き合い、それを認めることでもある。だからこそこの作品は、ホラーであると同時に、内省の物語でもある。澪が要と出会い、自分の心の影と向き合う過程は、読者自身の“自己認識の旅”でもあるのだ。
辻村深月の筆致は、相変わらず繊細で緊張感に満ちている。
校舎の廊下、放課後の教室、スマートフォンの光――どれも見慣れた風景であるはずなのに、そこに漂う空気が次第に濁っていく。何かがおかしい。でも、その“何か”が説明できない。そんな不安が、静かに読者を包み込む。恐怖の源泉は、怪異そのものではなく、“理解できない他者”に対する恐れである。要という人物はまさにその象徴であり、彼の存在を通じて、澪は「理解の及ばない他者とどう関わるか」という問題に直面する。
物語の中盤、澪が信じていた人間関係が崩れていく場面がある。友人や先輩が見せる、無邪気な残酷さ。そこにこそ、辻村の描く“闇”の本質がある。善意の顔をした悪意、悪意を自覚しないままの加害。人間の恐ろしさは、怪物ではなく日常の中に潜んでいる。誰もが少しずつ他人を蝕み、同時に自分も蝕まれている。その恐怖を、辻村は一切の誇張なく描いてみせる。
興味深いのは、この作品が「祓い」の物語でありながら、最終的には“完全な祓い”を描かない点である。闇は消えない。むしろ、人の存在とともにある。
ただ、それを見ようとする勇気、名前を与えようとする意志――それこそが「闇を祓う」ということなのだ。澪は要との出会いを通して、恐怖の中に「共感」という光を見出す。彼女はもう逃げない。闇を抱えたまま、前を向いて生きようとする。その姿に、辻村深月の人間観が凝縮されている。人は闇を消すことはできないが、それと共に生きることはできる。祓うとは、拒絶することではなく、受け入れることなのだ。
辻村深月の過去作――『ツナグ』『かがみの孤城』『冷たい校舎の時は止まる』など――には、常に「他者とのつながり」と「孤独」のテーマが通奏低音のように流れていた。『闇祓』は、そのテーマをさらに深化させた作品だ。孤独の中で他者を求めること。その過程で必ず傷つき、傷つけること。だが、それでも人は他者と関わらずには生きていけない。
闇を祓うとは、他者とつながることの痛みを引き受けることでもある。
だからこそ、ラストに残るのは恐怖ではなく、どこか穏やかな静けさだ。
祓いきれない闇を抱えながらも、澪は確かに一歩を踏み出している。その小さな光が、読者の胸にも灯る。
読み終えて感じたのは、この物語が“現代の心のホラー”であるということだった。SNSの匿名性、学校の同調圧力、家庭内の孤立――そうした構造の中で、私たちは日々、目に見えない「闇ハラ」を受け、また誰かに放っている。
『闇祓』は、そうした時代の空気そのものを写し取った鏡のような作品だ。
読者は澪の恐怖を追体験しながら、いつのまにか自分の中の闇と向き合うことになる。誰かを理解しようとすること。誰かの痛みに気づくこと。小さな“祓い”の連鎖が、この世界をかろうじて保っているのかもしれない。
辻村深月は、人の弱さを描くのが本当にうまい作家だと思う。
彼女の作品には、いつも“人を信じたい”という祈りがある。『闇祓』でも、恐怖の底に流れているのは、やはりその祈りだ。闇はどこにでもある。だけど、人の中にも光がある。どんなに小さくても、その光を見つけようとする意志を、辻村は信じている。だからこそ、読後に残るのは絶望ではなく、静かな希望なのだ。
この作品を読んでから、私はふとした瞬間に考えるようになった。
誰かの目線が怖く感じたとき、もしかしたらそれは「闇」ではなく、「誰かの助けを求めるサイン」なのかもしれないと。
そして、もし自分の中に暗い感情が芽生えたとき、それを“悪”として切り捨てるのではなく、ただ「そこにある」と認めること。それもまた、一つの“祓い”なのだろう。
『闇祓』は、ホラーの形をしたヒューマンドラマであり、同時に哲学的な物語でもある。
人が人を理解することの難しさと、それでも理解しようとする意志の尊さ。
この二つを、辻村は見事に両立させている。
最後のページを閉じたとき、私の心には一つの言葉が静かに浮かんだ。
――祓うとは、愛することだ。
その気づきをくれたことこそ、『闇祓』という物語の最大の光である。
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