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八海山・超全史――越後三山の麓に生まれた「飲み飽きない酒」の百年

霊峰・八海山の伏流水と豪雪の風土、そして「普通の酒を最高品質に」という一筋の思想。新潟・南魚沼の一蔵が、地酒の代名詞となり、やがて「米・麹・発酵」を掲げる総合醸造企業へと変貌するまでを、創業から百年余の軌跡として通覧する。



序――一本の酒が背負うもの

新潟県南魚沼市。越後三山のひとつ、霊峰として古くから信仰を集める八海山の麓に、その酒蔵はある。銘柄「八海山」は、今日では地酒の代名詞として全国に知られ、淡麗辛口を旨とする新潟清酒の象徴的存在として語られることが多い。だが、その名声の内実は、しばしば誤解されたまま流通している。

「八海山」は、いわゆる吟醸至上主義の産物ではない。むしろその核心は、ふだん飲みのための普通酒を、吟醸並みの手間と技術で磨き上げるという、地味で愚直な発想にある。希少性を煽る「幻の酒」として消費されることをよしとせず、安定した供給を企業の責務と捉え、価格と品質の均衡を守り続けてきた。その姿勢は、一時の熱狂が支配した時代の清酒業界においては、むしろ異端と呼ぶべきものであった。

百年の歴史といっても、清酒業界全体のなかでは決して長い部類ではない。創業は一九二二年、大正の世である。江戸期から続く老舗の多い酒造業のなかで、八海醸造は明らかに後発であり、その自覚こそが、同社を常に挑戦者の側へ立たせてきた。本稿では、この蔵が背負ってきた思想と、それを支えた風土・人物・技術・事業展開を、創業前史から現在に至るまで丹念にたどる。一本の酒が、いかにして一個の思想となり、その思想が、いかにして総合醸造企業の文化を形づくっていったのか。その全史を、ここに記す。

ひとつの企業の歴史をたどることは、その企業が下してきた無数の選択を、一本の筋として読み解く作業である。なぜ八海醸造は値引きを撤廃したのか。なぜ「幻の酒」になることを拒んだのか。なぜ清酒以外の事業へと踏み出しながら、その看板を清酒だけに限定し続けたのか。一見ばらばらに見えるこれらの選択は、たどってみれば、ひとつの一貫した思想によって貫かれている。その思想とは何であったのか。それを明らかにすることが、本稿の目的である。


第一章 霊峰――八海山という名の重み

酒は土地の産物である。とりわけ清酒は、米と水と気候という、動かしがたい自然条件のうえに成立する。八海山を理解するには、まずその名の由来となった山と、南魚沼という土地を理解しなければならない。

八海山は、新潟県南魚沼市にそびえる岩峰群である。最高峰は標高千七百七十八メートルの入道岳。越後駒ヶ岳(二千三メートル)、中ノ岳(二千八十五メートル)とともに越後三山、あるいは魚沼三山と総称され、その全域が越後三山只見国定公園に指定されている。標高こそ日本アルプスの高峰には及ばないものの、頂稜部の八ッ峰と呼ばれる岩稜帯は、垂直に近い鎖場が連続する険しい姿を見せ、古くから登山者を惹きつけてきた。

この山は、単なる景観の対象ではなかった。八海山は、古来より霊山として崇められてきた、修験の山である。四方を山に囲まれた南魚沼は、山岳信仰の霊場たる条件をそなえた土地であり、山伏に象徴される修験道が早くから浸透した地域であった。八海山に対する原初の信仰は、農作を守る水分神(みくまりのかみ)や作神が山に鎮まるという素朴な山岳崇拝に始まると考えられている。麓に住む人々は、あえて山には入らず、里に鳥居や祠を設けて山を遥拝し、祭祀してきた。やがてそこに、吉野・熊野の修験山伏や北陸・関東の霊山信仰が重なり、南魚沼の山岳信仰は豊かな広がりをみせていく。里宮として八海山尊神社が祀られ、その信仰は今日まで受け継がれている。

霊峰の名を冠するということは、その土地の恵みと畏れの双方を引き受けることを意味する。八海醸造が銘柄に「八海山」の名を選んだとき、そこには、この地の自然そのものに対する敬意が込められていた。水分神が司るのは、農作の根幹をなす水である。そして酒もまた、水と米の恵みから生まれる。山の信仰と酒造りは、この土地においては地続きの営みであった。八海山という名は、単なる商標ではなく、土地の自然と信仰を背負った名であったのである。


第二章 風土――神が酒のために設えた土地

南魚沼市は、新潟県の南東部に位置し、国内でも有数の豪雪地帯として知られる。冬には数メートルの積雪に覆われ、低温多湿の状態が長く続く。この環境は、雑菌の繁殖を抑え、もろみをゆっくりと低温で発酵させるのに適しており、きめ細やかで雑味の少ない酒質を生む条件となる。雪国の不便と引き換えに、自然は酒造りに理想的な舞台を用意した。かつてこの地を訪れたある酒造家が、神がまるで酒を造るために設えたかのような土地だと評したという逸話は、同社自身がしばしば引用するところである。

仕込み水には、八海山の中腹から湧き出る伏流水「雷電様の清水」が用いられる。これは極めて軟らかい超軟水であり、発酵が穏やかに進むことで、やわらかく滑らかな口当たりの酒となる。軟水は発酵力が弱く、酒造りの難度を上げる一方、丁寧に扱えば淡麗で繊細な味わいをもたらす。一九八五年、この清水は新潟県の名水に指定された。八海醸造の酒質を語るうえで、この水の存在は決定的である。

米もまた、この地の恵みである。魚沼は、日本でも屈指の米どころとして全国に名高く、その風土は酒米の栽培にも通じる。豪雪がもたらす豊富な雪解け水と、昼夜の寒暖差が、良質なコメを育む。さらに、酒造りを担う人の系譜として、越後杜氏の伝統がある。越後杜氏は、丹波杜氏・南部杜氏と並び称される日本三大杜氏のひとつであり、雪深い農村から冬季の出稼ぎとして各地の蔵に技を伝えてきた集団である。農閑期の生業として磨かれたこの杜氏文化は、雪国の暮らしと不可分のものであった。

水、米、気候、人。生真面目で粘り強い魚沼人の気質と、これらの恵みが結びついたところに、八海山の酒造りの土台がある。八海醸造はこの四つの恵みを、自らの最大の資産として一貫して語り続けてきた。風土を所与の条件として受け入れ、それに恥じない酒を造る――この謙虚な姿勢が、同社の酒造り思想の根底に流れている。


第三章 創業――「地域に産業を」という志

八海醸造の創業は、一九二二年(大正十一年)である。初代・南雲浩一が、現在の南魚沼市にあたる六日町城内村長森の地で、日本酒造りを始めた。これが「八海山」の歴史の起点となる。

注目すべきは、浩一が単なる酒造家ではなかったという点である。彼の関心は、一蔵の経営にとどまらず、南魚沼一帯の地域振興にあった。酒蔵のほかにも製糸工場などを相次いで建設し、雪深く産業に乏しいこの地に雇用と経済の基盤を築こうとした。八海醸造はその志のなかから生まれた事業のひとつであった。「地域に産業を」という創業の動機は、のちの八海山が、観光施設の運営や食文化の発信、雇用の創出といった地域貢献へと事業を広げていく、遠い伏線でもあった。

ただし、創業からしばらくの間、八海醸造は決して順風満帆ではなかった。昭和三十年代の前半に至るまで、同社はごくわずかな量の酒を醸す、無名に近い小さな蔵にすぎなかった。霊峰の名を冠したこの酒が、全国にその名を轟かせるまでには、なお長い苦闘の時間を要したのである。後発であり、規模も小さく、知名度も乏しい――その出発点の厳しさこそが、八海醸造の企業文化を形づくる原点となった。地酒の頂点に立つことになる蔵の物語は、けっして恵まれた条件から始まったわけではなかった。


第四章 五人衆――マイナスからの再建

八海醸造の歴史において、最初の決定的な転換点は一九五三年(昭和二十八年)に訪れる。この年、創業者・南雲浩一が世を去り、その四男であった南雲和雄が、わずか二十五歳で事業を引き継ぐこととなった。

和雄が背負わされた経営状況は、苛烈であった。当時の製造量は三百石にも満たず、帳簿の上では資産よりも借金のほうが多い、実質的なマイナスからの出発であった。いつ蔵が潰れてもおかしくない――そう評されるほどの危うい局面で、二十代半ばの若き経営者は、再建に乗り出さなければならなかった。

このとき和雄を支えたのが、後年「五人衆」と称される少数の同志たちである。経理と資金調達で辣腕を振るった富所義五郎。瓶詰めをはじめ製造部門を支えた丸山孝男。そして一九五八年に杜氏として蔵に加わり、八海山の基本的な酒質を確立した高浜春男。さらに和雄の妻である仁(あい)は、和島村島崎の豪農の家から嫁ぎ、自らの手料理で取引先をもてなす役目を担って、商いの人間関係を温めた。みな当時二十代の若さであった。

この五人衆が共有していたのは、淡麗でバランスのとれた、飲み飽きしない良い酒を造り、それによって会社を発展させていくという一点の志であった。彼らは食事に寄り添う食中酒としての清酒の役割を信じ、その理想の実現にひたすら尽力した。資本も知名度もない蔵が、ただ酒質への執念だけを頼りに這い上がっていく――八海山という銘柄の人格は、この再建期の苦闘のなかで鋳造されたといってよい。後年、同社が掲げることになる品質至上の思想は、この時代の経験から血肉として受け継がれたものである。マイナスからの出発であったからこそ、奇をてらわず、ただ酒質に賭けるという覚悟が、組織の遺伝子に刻まれた。


第五章 研醸会と田中哲郎――吟醸の思想を普通酒に注ぐ

八海醸造の酒造り思想を理解するうえで、避けて通れないのが「研醸会」という研鑽の場と、その指導者であった田中哲郎の存在である。

一九五三年、国税局を退職した田中哲郎を指導員として、新潟の蔵元による研醸会が結成された。創業からまだ三十年ほど、初代蔵元であった南雲浩一もまた、この会に名を連ねていた。田中の指導は、恐ろしいほど厳しいと評されるものであった。杜氏たちへの技術指導にとどまらず、蔵ごとの年間計画の策定、酒造家としての経営方針や精神のあり方にまで及び、受講する者に容赦なく高い水準を求めた。

この指導の核心にあったのが、吟醸造りの思想であった。米が乏しかった時代に、あえて米を磨くことを提唱し、手間とコストのかかる吟醸の技法を徹底的に叩き込む。八海醸造は、この厳しい薫陶を草創期に正面から受けた。だが、ここに八海山の独自性がある。同社は、叩き込まれた吟醸の技術を、高級酒の特別な一本を造るためではなく、ふだん飲みの普通酒の品質を底上げするために用いる道を選んだのである。

吟醸造りで培った精緻な管理技術を、生産量の大半を占める普通酒や本醸造に注ぎ込む。これが八海醸造の一貫した方針となった。実際、同社の生産量のうち、普通酒から特別本醸造までのいわゆるレギュラー酒が八割前後を占める。高級酒で名声を得て普通酒で量を稼ぐという一般的な構図とは逆に、八海山はふだん飲みの酒そのものを、吟醸に迫る水準へと引き上げることを使命とした。「特別な日のための高い酒」ではなく、「毎日の食卓を支える、確かな品質の酒」を目指す――この発想の転換こそが、八海山を地酒の頂点へと押し上げる原動力となった。学びの場では吟醸を極め、実践の場では普通酒中心の方針を貫く。この二重性が、八海醸造の技術哲学の根幹をなしている。


第六章 米を組み合わせる――八海醸造の技法

八海山の酒造りには、新潟の蔵のなかでも際立った技術的特徴がある。それは、使用する米を単一の品種にとどめず、ほぼすべての酒で二種類以上の米を組み合わせて用いるという点である。

新潟の酒は、軟水から極軟水で仕込まれることが多く、必然的にさっぱりとした軽い味わい、柔らかく滑らかな口当たりの酒となる。それは新潟の食によく合う美点である一方、淡麗であることのみを追求すれば、日本酒本来の旨みやふくらみが薄れてしまう危うさもはらむ。この問題に対する八海醸造の解答が、米の組み合わせであった。

同社は、酒造好適米として、五百万石を主軸に据えつつ、高級酒には美山錦、山田錦、越淡麗などを用いる。一般米では、トドロキ早生を中心に、こしいぶき、ゆきの精といった品種を使う。これらを、造る酒の品質設計に合わせて巧みに組み合わせる。淡麗ななかに米の旨みを引き出すために一般米を使い、柔らかさと含み香を醸すために山田錦を用いる、といった具合である。

しかも、その組み合わせ方は緻密をきわめる。麹米と掛け米で米を使い分けるのは清酒造りの常道だが、八海醸造はそれにとどまらない。酒母造り、そして醪を仕込む三段仕込みの初回・二回目・三回目においても、それぞれ使う米を変えているという。米を組み合わせるということは、そこで起こるさまざまな反応を知り尽くし、制御しなければならないということを意味する。なぜそこまでするのか。淡麗であることのみを追い求めるのではなく、淡麗のなかに確かな旨みと奥行きを宿す――そこにこそ日本酒の奥深さがあるという信念が、この手間を支えている。

この技法は、機械化された近代的な蔵にあっても、人の手の介在を不可欠とする。洗米や浸漬の工程では、米の品種、その年の水分量、前回造ったときの状況などから杜氏が必要な数値を割り出し、機械の傍らで担当者が要所要所に手を添えて微調整を行う。とりわけ麹造りは酒造りの工程で最も重要な部署とされ、蔵内で一日に必要な労力の三分の一が、この麹造りだけに費やされる。米を識り、水を識り、麹を識る。八海醸造の淡麗辛口は、こうした地道な技術の集積の上に成り立っているのである。

この技術思想は、清酒の製品体系にもそのまま反映されている。八海醸造の清酒は、生産量の大半を占める普通酒を土台とし、その上に特別本醸造、吟醸、純米吟醸、大吟醸と段階を重ねる構成をとる。一般的な蔵では、最上級の大吟醸が技術の到達点として位置づけられ、普通酒はあくまで量を支える廉価品とされることが多い。だが八海醸造の発想は逆である。最上級の酒で培った技術を、最も多く飲まれる普通酒へと還流させ、ふだん飲みの酒の水準を底上げする。大吟醸は到達点であると同時に、普通酒を高めるための実験場でもある。年に一度、冬季にだけ搾られるしぼりたて原酒「越後で候」のような限定酒も、希少性そのものを売りにするのではなく、季節の恵みを届ける便りとして位置づけられている。製品の階層は、序列ではなく、技術が循環する一つの体系として設計されているのである。

精米についても、八海醸造の姿勢は徹底している。米を磨くことは、雑味の原因となる米の外層を削り、清らかな酒質を得るための基本工程である。研醸会の時代に田中哲郎から叩き込まれた「磨く」という思想は、自社精米への投資と高性能精米機の導入を通じて、設備として受け継がれた。米が乏しかった時代に、あえて米を削るという贅沢を選んだ草創期の覚悟が、今日の清らかな酒質の源流にある。


第七章 関東進出と値引き撤廃――流通改革の決断

優れた酒を造ることと、その酒を世に届けることは、別の課題である。二代目・和雄の時代、八海醸造は流通と販売の領域においても、いくつかの大胆な決断を下した。

まず取り組まれたのが、販路の拡大である。新潟の地酒が地元の消費だけで成り立つ時代ではないと見た和雄は、伝手を頼って群馬や神奈川の問屋に取引を依頼し、関東への進出を図った。他の蔵元以上に営業活動に力を入れたことで、八海醸造の製品を扱う店は徐々に増え、「八海山」の名は次第に消費者の知るところとなっていった。多くの人にこの酒の品質を認知してもらうことこそが、蔵が長く存続するための道筋である――その確信が、積極的な市場開拓を支えていた。先代たちもまた、品質の認知の積み重ねこそが企業存続の道であると考えていたのである。

そして、八海醸造の理念を象徴するもうひとつの決断が、一九七九年(昭和五十四年)の値引きの撤廃である。安売り競争に背を向け、価格を維持する代わりに、その原資を原料費と人件費へと振り向ける。良い米を使い、人に正当な報酬を払い、その積み重ねによって品質を担保する。目先の安さを追わず、酒そのものの価値で勝負するというこの方針は、当時の業界慣行に照らせば容易ならざる選択であった。だが、この決断こそが、八海山を価格競争の泥沼から守り、品質を持続的に高めていく経営基盤となった。

設備面でも、この時期から先進的な投資が続いた。一九六七年には、より合理的な精米を実現するため、地域の蔵元数社が共同で精米所を設立。一九八三年には、全国に先駆けて地下貯蔵用タンクの埋蔵を完成させ、低温で安定した熟成環境を確保した。一九八五年には大手ビール会社との特約店契約を結び、流通網をさらに広げた。一九八六年には販売会社として株式会社八海山を設立し、製造と販売の体制を整える。一九八九年には一升瓶の瓶詰施設と地下貯蔵庫を完成させた。酒質への執着と、それを支える経営・流通・設備の三位一体の改革が、八海醸造の躍進を準備していった。


第八章 地酒ブームと「淡麗辛口」――幻の酒という栄光と桎梏

一九八〇年代、日本の清酒市場に地酒ブームが訪れる。それまで大手メーカーの大量生産品が市場を覆っていたなかで、地方の小規模な蔵が醸す個性的な酒に光が当たり、消費者の関心が一気に高まった。とりわけ新潟の酒が体現した「淡麗辛口」という味わいの方向性は、この時代の嗜好を決定づけるものとなった。

濃厚で甘い酒が主流であった時代に対し、すっきりと淡麗で、後味の切れる辛口の酒。料理の味を邪魔せず、いくら飲んでも飲み飽きない。この食中酒としての清酒像は、新潟の蔵が軟水と良質な米、そして越後杜氏の技によって磨き上げてきたものであった。新潟では県の醸造試験研究機関を核に、蔵を超えて技術が共有され、淡麗辛口という共通の方向性が地域ぐるみで洗練されていった。八海醸造の三代目となる南雲二郎自身も、若き日に新潟県の醸造試験場で研鑽を積んでいる。八海山は、この淡麗辛口の代表格として全国的な評価を獲得し、地酒ブームを牽引する存在のひとつとなった。

この時代、新潟の酒は、個々の銘柄の力であると同時に、「新潟清酒」という集団的なブランドとしても認知されていった。豪雪、軟水、良質な米、越後杜氏という共通の風土条件を持つ新潟の蔵は、淡麗辛口という一つの様式のもとに緩やかに結びつき、消費者の心のなかに「新潟の酒はきれいで飲みやすい」という強固な像を結んだ。八海山は、その集団的な像を代表する顔のひとつであった。地域全体の評価が個々の蔵を押し上げ、個々の蔵の質が地域の評価を高める――この相互作用のなかで、八海山は地酒の代名詞としての地位を確立していったのである。

しかし、人気は思わぬ歪みを生む。需要が供給を上回ると、市場では入手困難な「幻の酒」としてもてはやされ、定価をはるかに超える価格で取引されるようになった。希少性そのものが価値として消費される状況である。多くの蔵がこの熱狂を歓迎したのに対し、八海醸造はむしろこれを危ういものと受け止めた。

同社が掲げたのは「供給責任」という考え方である。良い酒を、求める人に、適正な価格で、安定して届ける。これこそが酒蔵の果たすべき責務であり、希少性を演出して投機の対象とすることは、ふだん飲みの食中酒という八海山の本質に反する。プレミアム化による短期的な利益ではなく、品質と供給の両立による長期的な信頼を選ぶ――この姿勢は、ブームの熱が冷めたのちも八海醸造のぶれない軸として残り、同社の社会的信用を支える礎となった。栄光と桎梏が表裏一体であった地酒ブームの時代を、八海山は思想の力で乗り越えたのである。希少性に酔うことなく、日常の酒であり続けることを選んだ――この選択の意味は、ブームが去ったのちにこそ、より鮮明になった。


第九章 蔵と設備――浩和蔵という思想の結晶

八海醸造の酒造りを象徴する施設に、「浩和蔵(こうわぐら)」がある。その名は、創業者・浩一の「浩」と、二代目・和雄の「和」を組み合わせたものであり、二代にわたる蔵元の理念を継ぐという意志がこめられている。

浩和蔵の建設は一九五五年(昭和三十年)の一号蔵に始まり、一九六四年に二号蔵、一九七五年に三号蔵と、段階的に拡張されていった。酒質の向上と製造量の増加に応じて、同社は精米や貯蔵の設備を着実に整備していく。年々高まる高品質米への需要に対応するため、自社精米にも乗り出し、高性能の精米機を導入して精白度の向上を実現した。米を磨くという吟醸思想を、設備のレベルから支える体制を築いたのである。

二〇〇四年には、レギュラー酒用の蔵として第二浩和蔵が完成した。これは、ふだん飲みの酒の品質をさらに高めるための投資であり、普通酒を吟醸並みに造るという同社の哲学を、最新の設備として具現化したものであった。広々として清潔な、工場のように機械化された蔵でありながら、機械化そのものが目的とされたわけではない。機械であろうと手造りであろうと、美味い酒のために必要なものを揃える――その合理性こそが、八海醸造の設備思想の核心である。四季醸造が可能な設備をそなえながら、あえてそれを行わず、酒造りを十月から五月までとし、機械と人のメンテナンスのためのオフシーズンを設けているのも、長く良い酒を造り続けるための見識である。

近年、南雲二郎は、量産による供給責任を果たしてきた流れのなかで、あえて浩和蔵での少数精鋭の酒造りを強化する方針を語っている。わずか数名で最高品質の酒に取り組むこの蔵には、量産体制では得難い、技を徹底的に「叩き込む」文化があるという。研醸会で田中哲郎に叩き込まれた精神を、次の世代へ継承する場として、浩和蔵は今なお同社の精神的な中心であり続けている。量を担う蔵と、質と技を継承する蔵。この二つを併せ持つことが、八海醸造の強靱さの源泉である。


第十章 三代目・南雲二郎――挑戦者としての継承

八海醸造の現在を語るうえで、三代目の南雲二郎の存在は欠かせない。一九五九年、新潟県に生まれた二郎は、創業者・浩一の孫にあたる。一九八〇年に東京農業大学短期大学部の醸造科を卒業し、新潟県の醸造試験場に研修生として学んだのち、一九八三年(昭和五十八年)、営業社員として八海醸造に入社した。

二郎自身は、当初から清酒業界に進むつもりであったわけではないと、いくぶん自嘲を交えて回想している。だが入社後、彼の手によって同社の経営体制は着実に整備されていった。会計数値を根拠に予算や販売計画を立てる計数管理の意識が高く、感覚や慣行に頼りがちであった酒造経営に、近代的な数字の規律を持ち込んだ点は特筆される。業績をタイムリーに把握する体制を整え、データに基づいて商品戦略を立てる手法は、勘と経験に依存しがちな伝統産業にあって、異彩を放つものであった。そして一九九七年(平成九年)、二郎は代表取締役を引き継ぎ、三代目の蔵元として八海醸造を率いることとなった。

三代目が掲げたモットーは、明快であった。「レギュラー酒の高品質化」である。ふだん飲む酒の品質を高めていくことこそが、清酒全体の価値を高めることにつながる――この信念は、五人衆の時代から受け継がれてきた思想を、現代の経営言語で言い直したものであった。少子高齢化や娯楽の多様化により、普通酒や本醸造の消費が今以上に増えることは難しいと冷静に見据えつつ、二郎は伝統から学ぶべきものの多さを強調し、品質本位の酒造りに徹することと、消費者の生活のなかで日本酒をより豊かに楽しんでもらうことを、自らの役割と位置づけた。

二郎の経営姿勢には、後発の蔵としての自覚が一貫して流れている。歴史の浅い蔵だからこそ、常に挑戦者の気持ちで酒造りに向き合う。この謙虚さと進取の精神の同居こそが、のちに同社を清酒の枠を超えた多角的な事業へと導いていく原動力となった。二〇一七年には、同社の経営が「第五十一回グッドカンパニー大賞」のグランプリに選ばれ、その堅実かつ革新的な企業経営が広く評価されることとなった。

この受賞が象徴するのは、八海醸造が単に良い酒を造る蔵であるだけでなく、優れた経営体を備えた企業であるという事実である。酒造業は、しばしば杜氏の勘と職人の経験に依存する伝統産業として語られる。だが二郎は、その伝統の価値を否定することなく、そこに近代的な経営の規律を接ぎ木した。売上高や利益を会計数値として正確に把握し、それを根拠に予算を組み、商品の販売計画を立てる。職人の世界に数字の言語を導入したことで、八海醸造は、感覚と論理、伝統と近代を架橋する稀有な経営を実現した。多角化や海外展開といった大胆な事業判断が、無謀な賭けではなく、計算された挑戦として成立したのも、この数字に裏打ちされた経営基盤があってのことであった。挑戦者の精神と、堅実な計数管理。一見相反するこの二つの資質の同居こそが、三代目・南雲二郎の経営者としての真骨頂であったといえる。


第十一章 「米・麹・発酵」――多角化の思想

二十一世紀に入り、八海醸造は清酒の蔵という枠を大きく超えて変貌していく。だが、その多角化は無秩序な事業拡張ではなく、明確な思想に貫かれていた。それが「米・麹・発酵」という三語に集約される企業アイデンティティである。

南雲二郎は、自社がいきなり畑違いの事業、たとえば自動車を造るようなことはできないと率直に語る。だが、長年の酒造りで培ってきた米を扱う技術、麹をコントロールする技術、発酵を制御する技術は、清酒以外の数多くの製品へと応用できる。これらの技術資産を軸に、自社を「米と麹と発酵の企業」として再定義する。それが多角化の根本にある発想であった。

この思想を語るうえで象徴的なのが、看板商品である清酒との距離の取り方である。八海醸造は、毛筆で書かれた「八海山」のロゴを、清酒以外の製品にはあえて冠さない方針をとってきた。たとえば大ヒット商品となったあまさけのパッケージを見ても、それが八海醸造の製品であるとは一見してわかりにくい。これは意図的な選択である。「八海山」の冠を清酒だけに限定し、その他の製品は独立したブランドとして発展させていく。看板に頼らず、それぞれの商品が自らの価値で立つことで、企業全体としての裾野を広げる――この成長戦略が、同社の多角化を支える設計思想となっている。

清酒という単一の柱に依存する経営の脆さを、二郎は早くから見抜いていた。国内の清酒市場が長期的に縮小していくなかで、技術という共通の資産を核に複数の事業へと展開し、企業として永く存続していく。長期的な時間軸で会社の永続を構想するこの姿勢は、酒造りそのものが長い時間を要する営みであることと、深く呼応している。事業の多角化は、伝統からの逸脱ではなく、伝統の延命のための必然であった。

ここで見落としてはならないのは、八海醸造の多角化が、決して清酒の軽視を意味しないという点である。むしろ逆である。あまさけや焼酎、ウイスキー、ビールといった新事業が安定した収益の柱となることで、清酒部門は短期的な採算の重圧から解放され、浩和蔵での少数精鋭による最高品質の酒造りといった、効率だけでは正当化しがたい挑戦に資源を割くことができる。多角化は、清酒という本業の純度を守るための、いわば防波堤としての役割を担っているのである。複数の発酵事業が互いを支え合い、その総体として「米と麹と発酵の企業」という一個の有機体を形づくる。各事業を独立したブランドとして育てる方針も、この有機的な構造を健全に保つための知恵であった。一つの看板にすべてをぶら下げるのではなく、それぞれが自立しながら根を共有する。八海醸造の事業構造は、そうした樹木にも似た設計思想のもとにある。


第十二章 魚沼の里――郷愁とやすらぎの発信地

八海醸造の多角化が、単なる商品ラインの拡張にとどまらず、地域文化の発信という次元にまで及んでいることを示すのが、複合施設「魚沼の里」である。

霊峰・八海山の麓、南魚沼市長森の一角、のどかな田園風景の広がる里山に展開するこの施設は、雪国の暮らしや文化を通じて、訪れる人に郷愁とやすらぎを感じてもらいたいという想いから生まれた。製造設備である第二浩和蔵、米焼酎やウイスキーを仕込む深沢原蒸溜所、クラフトビールを醸す猿倉山ビール醸造所、「米・麹・発酵」を研究する研究棟といった生産の現場に加え、カフェや売店、菓子処、そば屋、ベーカリー、社員食堂などが点在し、訪れる人が魚沼の食と文化に触れられるよう設計されている。

その展開は段階的であった。二〇一一年には菓子と喫茶の店「さとや」が開業し、観光と食の拠点としての性格を強めていく。社員食堂までもが一般に開放されているのは、地域に開かれた企業でありたいという創業以来の志のあらわれである。同社が「地域に産業を」という理念のもとに始まったことを思えば、魚沼の里は、その理念の現代的な結実といえる。

施設の中核のひとつが「八海山雪室(ゆきむろ)」である。雪室とは、豪雪地帯の知恵を活かし、冬の雪を巨大な貯蔵庫に詰め込んで天然の冷蔵設備とする仕組みである。八海山雪室には千トンにも及ぶ雪が貯えられ、その自然の冷気のなかで純米大吟醸酒などが低温で静かに熟成される。電力に頼らず、雪国の自然そのものを醸造資源として活用するこの試みは、八海醸造の風土への敬意を最も鮮やかに体現するものといえる。雪室には売店やキッチン雑貨の店も併設され、雪国の文化を体感できる空間となっている。

さらに同社は、二〇〇三年に季刊誌『魚沼へ』を創刊し、魚沼の魅力を継続的に発信してきた。二〇一二年には東京・麻布十番に「千年こうじや」を開き、米・麹・発酵をテーマに、魚沼の豊かな食と文化を首都圏へ届ける拠点とした。同年には、八海山の麹を用いた塩こうじを発売するなど、麹の食文化そのものを商品として提案する試みも始めている。発酵という日本の食の根幹を、現代の暮らしのなかに位置づけ直す――千年こうじやという名には、麹がもたらす豊かさを千年の先まで伝えたいという願いがこめられている。酒を売るだけでなく、その酒を生んだ土地と食文化そのものの価値を伝える。「地域に産業を」という創業の志は、こうして一世紀を経て、地域文化の発信という新たな形に結実している。

魚沼の里を訪れる体験そのものが、八海醸造の思想を語っている。雪解けの春、緑あふれる夏、稲穂の実る秋、そして一面の雪に覆われる冬。里山に点在する施設は、四季の彩りのなかで異なる表情を見せ、訪れる人に素顔の魚沼との出会いを差し出す。そば屋では地元の蕎麦が、菓子処では雪国の素材を生かした菓子が供され、ベーカリーやカフェが日常の楽しみを添える。酒を製造し、販売する場であると同時に、酒を生んだ土地の暮らしそのものを味わう場として、魚沼の里は設計されている。観光地としての賑わいを追うのではなく、郷愁とやすらぎという、静かな価値を提供することに主眼が置かれている点に、この施設の独自性がある。酒造りで培った技術と精神が、食、観光、文化のすべてに通底し、訪れる人はそこで、八海醸造という企業の人格に触れることになる。


第十三章 あまさけ・スパークリング――雪国の知恵の商品化

八海醸造の「米・麹・発酵」戦略を、最も大きな事業として体現したのが、あまさけである。

同社は二〇〇九年にあまさけ市場へ参入した。酒造りで磨いた麹のコントロール技術を応用し、すっきりとした上品な味わいに仕上げた「麹だけでつくったあまさけ」は、砂糖を加えず米と麹の力だけで自然な甘みを引き出すノンアルコール飲料である。これが大きな支持を集め、清酒に次ぐ同社の第二の柱へと成長していった。二〇一七年に増設した最新の製造所がフル稼働すれば、その生産量は日本酒の製造石数の約半分に達する見込みとされ、あまさけは八海醸造の事業構造を大きく変える存在となった。前述のとおり、この商品にあえて「八海山」のロゴを大きく掲げないのは、独立したブランドとして育てるという同社の一貫した思想による。健康志向の高まりと甘酒への再評価という時流を、酒蔵の技術で的確に捉えた事例である。

雪国の知恵を活かした挑戦も続いている。雪室で貯蔵した純米大吟醸酒のように、豪雪という一見の不利を醸造資源へと転換する発想は、八海醸造の真骨頂である。また、瓶内で二次発酵させるスパークリング清酒の開発にも積極的に取り組み、清酒の新たな飲用シーンを切り開いてきた。泡から始め、純米酒へ、そして本醸造へと移ろう飲み方の流れを提案するなど、消費者に清酒の楽しみ方そのものを差し出す試みも、同社の特徴である。

冬季限定の製品にも、この蔵らしさがあらわれている。酒づくりの最盛期にだけ搾られるしぼりたて原酒「越後で候」は、その代表である。純米吟醸の赤いラベルと、本醸造の青いラベルという二つの顔を持ち、フレッシュで力強い原酒ならではの飲みごたえと、淡麗でさわやかな後味を、季節の便りのように届ける。これらの商品開発の根底には、自社の製品を一方的に肯定するのではなく、消費者の声に耳を傾け、ともに問題点を探っていくという姿勢がある。多種類の製品を世に問い、アルコールのある生活、ひいては発酵食品のある暮らしを提案していく。八海醸造が掲げる「米・麹・発酵」は、単なる製造技術の標語ではなく、人々の食卓と暮らしへの提案として展開されているのである。


第十四章 焼酎からウイスキーへ――蒸溜酒という長い時間への挑戦

醸造酒の蔵が蒸溜酒へと踏み出すことは、技術的にも経営的にも容易な決断ではない。だが八海醸造は、この領域においても着実に歩を進め、やがて世界の評価を得るに至った。

蒸溜酒への挑戦は二〇〇五年、魚沼の里にある深沢原蒸溜所での米焼酎の製造に始まる。日本酒の副産物である新鮮な酒粕を原料とした本格粕取り焼酎や、米焼酎、米焼酎・日本酒の原酒を用いた梅酒など、酒造りで培った資源を活かした製品が生み出されていった。「宜有千萬(よろしくせんまんあるべし)」と名づけられた焼酎は、その代表的な銘柄である。

この焼酎を木樽で貯蔵するなかから、次の挑戦が芽生える。二〇一六年、八海醸造は深沢原蒸溜所でウイスキーの製造に着手した。日本酒蔵ならではの挑戦として、主原料を米としたライスグレーンウイスキーである。仕込み水には清酒と同じ名水「雷電様の清水」を用い、発酵には清酒酵母を活用する。伝統的なウイスキー製法を踏まえつつ、酒蔵ならではの独自の手法を組み込んだこの試みは、世界的にも類例の少ない希少な酒を目指すものであった。

二〇一九年、同社はさらに大きな一歩を踏み出す。子会社「株式会社ニセコ蒸溜所」を設立し、北海道ニセコ町に本格的なウイスキー蒸溜所を着工したのである。ニセコを選んだ理由は、いくつもの条件が重なっていた。羊蹄山とニセコアンヌプリに囲まれたこの地は、豪雪地帯ならではの上質な軟水に恵まれ、清流として名高い尻別川が流れる。夏でも涼しい盆地の気候はウイスキーの熟成に適し、世界に通用するスノーリゾートとして多くの外国人客が訪れる土地柄は、製品を世界へ発信する舞台ともなる。自然の景観を守るために建物の高さを制限するなど、自然との共存を重んじるニセコ町の姿勢に共感したことも、立地選定の背景にあったとされる。豪雪と良質な軟水という、魚沼と通じ合う風土をこの地に見出したことも、決断を後押しした。

ニセコ蒸溜所は二〇二一年に操業を開始し、モルトウイスキーの製造とともに、クラフトジンの生産を始めた。スコットランドのフォーサイス社製の蒸溜器を備え、本格的なウイスキー造りに取り組む一方、熟成に時間を要するウイスキーの完成を待つ間、まず世に問われたのがジンであった。アイヌ語で「続く」を意味する「ohoro(オホロ)」と名づけられたこのジンは、道内産のヤチヤナギやニホンハッカなど厳選した複数のボタニカルを用い、清らかでありながら芯のある味わいに仕上げられた。ニセコの地に生まれた酒が末永く愛され続けるようにとの願いがこめられたこのジンは、やがて世界の品評会で高い評価を獲得していく。

「ohoro GIN」は、二〇二四年の世界的なジンの品評会において、クラシックジン部門で世界最高賞に輝き、別の国際的なスピリッツ審査会でも最高賞を受賞するなど、日本のクラフトジンを代表する存在へと成長した。そして二〇二五年、八海醸造はついに自社初のウイスキー製品を世に送り出す。深沢原蒸溜所で米を主原料に造られ、米国産と仏国産のオーク樽で八年もの歳月をかけて熟成された、世界でも珍しいシングルグレーンのライスウイスキーである。数量限定での発売となったこの一本は、二〇年来の蒸溜酒づくりがようやく結実したことを示すものであった。将来的には、魚沼で造るライスウイスキーと、ニセコで育つモルトウイスキーをブレンドした、唯一無二のジャパニーズウイスキーの完成が見据えられている。

蒸溜酒への挑戦に通底するのは、長い時間を引き受ける覚悟である。ウイスキーは仕込みから商品化まで、短くても数年、本物の完成には十年、二十年という歳月を要する。日本酒や甘酒という安定した事業を持つ八海醸造だからこそ、その長い時間を待つことができる。五年先、十年先を見据えて資源を準備し、永遠に終わらない会社を構想する――蒸溜酒事業は、南雲二郎の長期的な経営思想を、最も象徴的に体現する挑戦なのである。

この時間への態度は、八海醸造という企業の本質と深く響き合っている。清酒もまた、米を育て、麹を育て、もろみを育てるという、時間に従う営みである。自然のリズムに身を委ね、急がず、しかし怠らず、ものが熟していくのを待つ。その姿勢を、蒸溜酒は極限まで押し広げる。ウイスキーの完成には、人ひとりの職業人生に匹敵するほどの歳月が必要となることもある。今この瞬間に仕込まれた原酒の真価が問われるのは、十年後、二十年後の世界においてである。それでもなお、確かな品質の樽を未来へ託すという行為には、自社が長く存続するという確信と、次の世代への責任が前提とされている。短期的な利益を競う市場の論理とは異なる時間の尺度を持つこと。これこそが、八海醸造が「永遠に終わらない会社」という言葉に込めた覚悟であり、創業以来この蔵が一貫して選び取ってきた、ものづくりへの姿勢の延長線上にあるものなのである。


第十五章 ビールという第三の発酵、そして世界へ

清酒、焼酎、ウイスキー、ジン、あまさけと並んで、八海醸造の発酵事業を彩るもうひとつの柱が、ビールである。

同社のビール事業は、一九九八年九月に泉ヴィレッジ内で始められた地ビール造りに端を発する。当初は「泉ビール」のブランドで親しまれていたが、二〇一八年七月、八海醸造はこれを大きく刷新する。ビール醸造所を魚沼の里内へ移転して猿倉山ビール醸造所を新設し、ブランド名を「ライディーンビール(RYDEEN BEER)」へと改めたのである。醸造所をガラス越しに見学できるこの施設は、魚沼の里における観光と製造の融合を体現するもののひとつである。雪国の清冽な水を活かしたクラフトビールは、併設のビールバーとともに、地域の食と観光の魅力を高めている。

ビールという、清酒とは異なる発酵の世界に取り組むことは、「米・麹・発酵」を掲げる同社にとって、発酵という共通項のもとに事業領域を広げる自然な展開であった。清酒という醸造酒、焼酎やウイスキーといった蒸溜酒、そしてビールという別系統の醸造酒、さらにジン、麹を用いたあまさけ。八海醸造の事業は、いまや発酵と醸造のあらゆる方位へと広がっている。だが、それらはばらばらに散在しているのではなく、米・麹・発酵という一本の思想の幹から伸びた枝として、有機的に結びついている。

同社の視線は、すでに国境を越えている。海外進出は、米国の日系スーパーから声がかかったことを契機に始まったが、いまやフランスをはじめとする欧州や米国でも、日本酒に関心を寄せる人々が着実に増えている。早くから海外市場の可能性を見据えた八海醸造は、米国のソムリエをブランドアンバサダーに迎えるなど、海外への情報発信にも力を注いできた。長年の酒造りで培った「米・麹・発酵」の技術を海外へ輸出し、現地での日本酒造りまで視野に入れるなど、その構想は大きい。世界的なスキーリゾートであるニセコの地で造るウイスキーやジンが世界の品評会で評価を得ていることは、八海醸造が国内市場の縮小を超えて、世界市場で勝負しうる醸造企業であることを示している。国内の日本酒市場が縮小していくなかで、世界へと情報が流れる土地から発信していく――その戦略は、長期的な企業存続の構想と分かちがたく結びついている。


第十六章 創業百年とこれから

二〇二二年、八海醸造は創業百周年を迎えた。大正十一年、霊峰八海山を仰ぐ旧城内地区で、初代・南雲浩一が小さな酒蔵を起こしてから一世紀。三百石にも満たないマイナスからの再建を経て、同社は新潟を代表する地酒の蔵となり、さらには発酵と醸造を軸とする総合的な企業へと成長を遂げた。

百周年にあたり三代目が改めて確認したのは、創業以来変わらぬ酒質への信念であった。淡麗でバランスのとれた高品質な酒を追求し、ふだん飲むレギュラー酒の品質を高めることで、日本酒そのものの価値を高めていく。五人衆が志を一つにして築いた基礎を、世代を超えて受け継いでいく。魚沼の豊かな自然と雪国の文化が育んできた、この土地ならではの清らかな酒を造り続ける――その決意は、受け継がれてきた伝統や知恵、確かな醸造技術を未来へ繋ぐという、企業としての使命の再確認でもあった。失敗からも多くを学び、思考と歩みを止めることなく試行錯誤を続ける。挑戦者であり続けるという姿勢は、百年を経てもなお同社の根幹にある。

この百年は、日本酒産業そのものにとっては、決して平坦な時代ではなかった。清酒の国内消費は、一九七〇年代半ばのピークを境に長期の低落をたどり、多くの蔵が廃業を余儀なくされた。娯楽の多様化、若年層の酒離れ、人口の減少といった構造的な逆風のなかで、普通酒や本醸造の消費がかつての水準に戻ることは、もはや望むべくもない。南雲二郎が、この現実を感傷を交えずに直視し、「これ以上の増加は難しい」と冷静に語ってきたことは、八海醸造の経営判断の前提をなしている。縮小していく市場のなかで、いかにして良い酒を造り続け、企業として存続するか。この問いに対する同社の解答が、レギュラー酒の徹底した高品質化と、「米・麹・発酵」を軸とした事業の多角化、そして世界市場への展開という三本の戦略であった。創業百年という節目は、過去を懐かしむための区切りではなく、次の百年を生き抜くための戦略を改めて確認する地点として捉えられている。

後継者の育成についても、二郎は楽観と確信をもって語っている。自らが多額の借金を抱える蔵を継いだ若き日の経験を思えば、これだけの基盤を引き継ぐ次の世代がいたずらに気負う必要はない、という。少数精鋭の浩和蔵で技を叩き込む文化を継承しながら、量産による供給責任と、最高品質への挑戦とを両立させていく。組織と人材の両面で、八海醸造は次の百年へ向けた準備を着実に進めている。


終章 経路依存と贈与――百年が示すもの

八海山の歩みを、より長い射程で捉え直すとき、二つの分析的な視座が有効である。ひとつは経路依存という視点であり、もうひとつは贈与という視点である。

経路依存とは、ある時点で下された選択が、その後の選択の幅を方向づけ、いったん形成された道筋からの離脱を困難にする現象を指す。八海醸造の歴史は、まさにこの経路依存の連鎖として読むことができる。創業期に研醸会で叩き込まれた「磨く」という吟醸の思想は、その後の自社精米への投資を準備し、設備の蓄積を生んだ。一九七九年の値引き撤廃という選択は、価格競争から距離を置く経営の型を固定し、品質本位という一本道を強化した。地酒ブームのさなかに「幻の酒」となることを拒み、供給責任を選んだ判断は、安定供給を前提とする生産体制と流通設計を要請し、それがさらに同社をプレミアム路線から遠ざけた。一つひとつの選択が次の選択を縛り、やがて後戻りのできない一貫した思想として結晶していく。八海山の「ぶれなさ」は、信念であると同時に、百年にわたって積み重ねられた選択の経路がもたらした構造的な帰結でもあった。

もうひとつの視座が、贈与である。八海醸造の事業の根底には、市場での等価交換には還元しきれない、贈与的な関係性への志向がある。「地域に産業を」という創業の動機は、雪深く産業に乏しい土地への、いわば先行する贈与であった。社員食堂を一般に開放し、魚沼の里を地域文化の発信地として開き、季刊誌で土地の魅力を伝える営みは、酒という商品の対価をはるかに超えて、地域そのものへ価値を返そうとする振る舞いである。食事に寄り添い、会話を引き立て、飲み飽きしない酒という理想もまた、酒を商品としてではなく、食卓における関係性を支える媒介として捉える発想に根ざしている。八海山が体現してきたのは、売り手と買い手、企業と地域のあいだに、一回的な取引を超えた継続的な関係を築こうとする姿勢であった。

経路依存が、八海山の一貫性の謎を解き明かすとすれば、贈与は、その一貫性が何のために向けられてきたのかを照らし出す。動かしがたい風土の恵みを受け取り、それに恥じない酒を造り、地域と食卓へと価値を返していく。受け取り、応え、また返すという循環のなかに、八海山という蔵の百年は置かれている。


結――八海山とは何であったか

八海山の歴史を通覧して浮かび上がるのは、ひとつの逆説である。後発であり、歴史も浅く、希少性を売り物にすることを拒んだこの蔵が、なぜ地酒の頂点に立ち得たのか。

その答えは、八海醸造が一貫して「ふだん」の側に立ち続けたことにある。特別な日のための高価な一本ではなく、毎日の食卓に寄り添う、飲み飽きしない確かな酒。希少性を煽る幻の酒ではなく、求める人に適正な価格で安定して届けられる酒。吟醸の華やかさを誇示するのではなく、その技術を普通酒の品質に静かに注ぎ込む蔵。八海山が体現してきたのは、日常の質を最大限に高めるという、地味で、しかし最も困難な理想であった。

そしてこの理想は、清酒の枠を超えて広がっていった。あまさけ、焼酎、ウイスキー、ジン、ビール。米・麹・発酵という技術の幹から伸びた枝の数々は、いずれも人々の日常の暮らしを豊かにするものとして展開されている。魚沼の里という発信地は、酒だけでなく、雪国の文化そのものを日常の喜びとして差し出している。「地域に産業を」という創業の志は、形を変えながら、地域と暮らしへの貢献という一筋の流れとして受け継がれてきた。

水、米、雪、そして人。動かしがたい風土の恵みを最大の資産とし、それに恥じない真摯な酒造りを続ける。挑戦者の自覚を失わず、長い時間を引き受ける覚悟をもって、永続する企業を構想する。山の信仰が水分神への祈りに始まったように、八海醸造の営みもまた、自然への敬意を出発点としている。八海山の百年は、一本の酒がいかにして思想となり、その思想がいかにして一つの企業文化を形づくっていったかの記録である。越後三山の麓に湧く清水のように、その営みは静かに、しかし絶えることなく、次の百年へと流れ続けている。


本稿は公開情報をもとに、八海醸造株式会社および銘柄「八海山」の歩みを通史として再構成したものである。記述の一部には、年代や事実関係の解釈に諸説あるものが含まれる。

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