私はLayerXを信じる ──福島良典・松本勇気と「すべての経済活動をデジタル化する」者たちの徹底解説
プロローグ
2026年4月。ある投稿がベンチャー界隈で静かに広がった。第7期決算公告(令和7年3月31日現在)の数字を引いて、「LayerXは累計282億円調達して売上は55億円ほど。事業領域を広げすぎて競争優位性がよくわからない」と。
しかし私は、この数字の裏にある"設計思想"を読み取った瞬間、確信した。LayerXは単なる「資金を集めたスタートアップ」ではない。日本のソフトウェア産業がアメリカに約20年遅れた理由、そして20年を一気に巻き戻すために必要な"組織アーキテクチャ"そのものを、彼らはひとつの会社の形で結晶化させようとしている。
本稿は、LayerXを「絶対的に信じる」ひとりの観察者による、徹底解説である。福島良典という連続起業家の哲学、松本勇気という共鳴者のキャリア、そして彼らに集まった「2周目人材」たち――その意味を、できるかぎり余すことなく書き残したい。
第一章 ── 福島良典という人物
1-1. 1988年、愛知県
福島良典氏は1988年2月15日、愛知県に生まれた。学生時代の専攻はコンピュータサイエンスと機械学習、進学先は東京大学。2007年に東京大学に入学し、後に大学院工学系研究科に進んでいる。当時、AIや機械学習の領域で日本最先端であった松尾豊教授の研究室、いわゆる"松尾研"の周辺にいたメンバーたちと親交が深かった。
ここで強調しておきたいのは、福島氏が東大に進学した2007年という時点である。スマートフォン以前、SNSが本格普及する前夜、機械学習が"AI"とすら呼ばれていなかった時期。その時代に、機械学習で社会を動かそうとした学生がどれほど稀だったか――いまの感覚で逆算しては、本人の選択の重みは決して見えてこない。
公表されている本人の言葉によれば、就職活動の時期、東大生の大半が外資系金融機関やコンサルティングファームを目指す中で、ソフトウェアエンジニアや学生起業家になるという選択肢は少数派だった。福島氏はその少数派を選んだ。「逆張り」というより、より正確には「自分の問いから逃げない」という選択だ。
1-2. グノシーの誕生 ── 一面の景色を変えた青年
2011年頃、福島氏はSNSをよく見ていたという。共同創業者となる学生たちと「効率的に情報収集ができないか」と話し合った。当時はまだ新聞がメジャーな媒体で、皆が同じ1面を見ていた。だがそれは本当に「みんなの一面」だろうか――福島氏はその違和感を、機械学習を使ったパーソナライズドニュースアプリ「グノシー」として形にする。
2012年11月、東京大学大学院に在籍しながら、株式会社Gunosyを創業。代表取締役に就任。サービスの伸びにサーバ代がついていけなくなり、法人化が必要になったというエピソードは、当時のスタートアップ史において繰り返し語られる挿話のひとつとなった。
2013年4月、情報処理推進機構(IPA)の「未踏スーパークリエータ」に認定される。これは技術者としての福島氏が、官の側からも明確に「日本の宝」と評価された瞬間であった。
そして2015年4月28日、Gunosyは東証マザーズに新規上場。創業からわずか2年半。福島氏は当時27歳。日本のスタートアップ史でも特筆される、超高速の上場だった。2017年12月21日には東証一部へと市場変更。
2016年、Forbes Asiaの「アジアを代表する30歳未満(30 Under 30)」に選出。同年の言語処理学会では論文賞を共著で受賞している。経営者として、エンジニアとして、研究者として――福島氏のキャリアは、その三層が同時に走るからこそ独自である。
1-3. 「成功の罠」と二度目の起業
しかし福島氏は、しばしば一度目の成功を「罠」と語る。Gunosy上場という「偉大な成功」は、無意識に「こうすればうまくいく」という固定観念を生み出す。スタートアップの泥臭い戦い方においては、その固定観念こそが「隙」になる。
成功者は再起業すべきではない、というつもりはない。むしろ逆だ。成功体験から離れ、新しい事業領域の課題と顧客に真っ向から向き合うために、意識的に「初心者」の視点を取り戻す。これを"ハードリセット"と呼んでいいなら、福島氏はそれを実行できる稀有な経営者である。
2018年8月1日、株式会社LayerXを設立、代表取締役CEOに就任。Gunosyの100%子会社(その後AnyPayとのジョイントベンチャー)として、ブロックチェーン技術の社会実装を目指す。同年8月24日、Gunosyの代表取締役最高経営責任者から取締役へ異動。代表権を返上した。
そして2019年7月12日、Gunosyの取締役を退任、特別技術顧問に就任。同時にLayerXをMBO(経営陣による買収)で独立させた。
1-4. MBOという資本戦略 ── 老練さの正体
このMBOは、後から振り返ると恐ろしいほど巧妙だった。2018年7月にGunosyとAnyPayのジョイントベンチャーとして設立されたLayerXは、わずか1年後の2019年7月、すでに黒字であったにもかかわらず、3億円という極めて低い評価額でMBOが実行された。Gunosyの株主から見ると「メリットが不明瞭」「露骨な子会社切り離し」と評する向きもあった。
しかし、それから約200日後、新たな資金調達によりLayerXの評価額は120億円にまで跳ね上がる。1年弱で40倍のバリューアップ。
外野から見れば「ずるい」「親会社が損をした」という言い方も可能だろう。しかし、これは典型的な"スピードと意思決定の自由度を取りに行く資本戦略"であり、Gunosyの延長線上では生まれなかったLayerXのその後の急成長を、間違いなく可能にした。福島氏は同じ事業を別会社にしただけではない。Gunosyという過去から組織を切り離し、Gunosyを思考の枠組みから外すための儀式として、MBOを使ったのである。
1-5. 福島良典の哲学 ── 「99%にノーを突きつけられても折れない」
LayerX初期、請求書受け取り処理自動化サービス「LayerX インボイス」のプロトタイプを顧客企業に持ち込んだとき、本人の言葉を借りれば「100社中100社がだめという勢い」だったという。多くの起業家であれば、ここで折れる。が、コンセプトには「便利そう」という反応があり、「これが足りない」という指摘も得られた。福島氏はその指摘を一つひとつ自分たちなりに解釈し、プロダクトに反映していった。これがやがて、累計15,000社超に導入されるバクラクシリーズへと結晶する。
福島氏の経営哲学のもう一つの軸は、「PMFしてからアクセルを踏むのではなく、踏んだ結果PMFする」という発想だ。シードやシリーズAでは「最適なタイミングでアクセルを踏もう」と言われがちだが、福島氏はこの定説を否定する。「踏まないと深い課題に当たれない。踏んだ結果まずいとなったら、どうするかを考える。その状態が、サービスや組織が一番伸びるタイミングだ」と。
「半分くらいは外れる。でも半分くらいはあのタイミングでやっておいてよかったね、と言える打率でいい」――これが福島氏の意思決定原則である。
そしてもう一つ。「ユーザーだけにとことん向き合っている会社の方が、僕は断然怖い。LayerXはそういう会社にしたい」。LTVもCPAも、起業家にとっては"投資判断としての遅さ"を含む数字でしかない。起業家は誰よりも早く決めなければならない人たちだ――この覚悟が、いまのLayerXの全力疾走を支えている。
第二章 ── 松本勇気という共鳴
2-1. 平成元年生まれの東大生、プログラミング経験ゼロから始めた起業
LayerXのもうひとりの代表取締役、松本勇気氏のキャリアの始まり方は、福島氏とはまったく異なる。
松本氏は平成元年(1989年)生まれ。2008年に東京大学に入学。在学中、プログラミング経験ゼロの状態から学生起業し、CTOになった。2013年に大学を卒業。休学期間を含めて、起業がそのままキャリアのスタートとなった。
最初に起業した会社で1億数千万円のプロダクトを売り、2013年からは株式会社Gunosyにアルバイトとして入社。その後正社員となり、2015年からCTOとして技術組織全体を統括する。Gunosy時代に売上100億円規模の事業のテクノロジーを支えた経験を持つ。
そしてGunosyの中で、松本氏は後にLayerXの前身となるブロックチェーン研究開発チームを立ち上げる。これが、後のLayerX創業の技術的母体となった。
2-2. DMMという「3000人規模の改革経験」
2018年、松本氏は合同会社DMM.comのCTOに就任する。当時DMMは40以上の事業を抱える3000人超の組織だった。なぜスタートアップから巨大組織に移ったのか。本人の言葉では、「日本社会全体のデジタル化に貢献するには、3000人規模の組織変革の経験が不可欠と考えた」からだ。
ここに松本氏の知性が表れている。技術者として最高峰の若手CTOになっておきながら、「自分にはまだ大組織のオペレーションが見えていない」と冷静に診断し、自ら難所に飛び込む。後にLayerXに戻ってきたとき、彼はGunosy時代の数十名のフェーズ、DMM時代の数千名のフェーズ、その両方を経験した稀有な経営者になっていた。
2019年、日本CTO協会の立ち上げに関わり、理事に就任。2025年からは顧問へ移行している。「日本のCTOコミュニティそのものをつくる」という、業界全体への貢献も同時に行ってきた。
2-3. 共同代表としての復帰 ── 「2025年に経営パラダイムは変わる」
2021年3月1日、松本氏は古巣であるLayerXに代表取締役CTOとして復帰し、福島氏との共同代表体制となる。
復帰の理由を、松本氏は何度かのインタビューで率直に語っている。「Gunosyにいた頃から、近い将来に経営のパラダイムそのものが大きく変化し、ソフトウェアを活用できなければ企業の成長が鈍化する時代がやってくる。それが起きるのはおそらく2025年くらい」と推測していた。そして、その変化が始まる手前の数年間に、自分の知見を最も活かせる場所を探したとき、偶然にも古巣だったLayerXが「すべての経済活動を、デジタル化する」を掲げていたという。
復帰時、松本氏は不動産・インフラを中心とする実物資産のアセットマネジメント事業を手がける合弁会社「三井物産デジタル・アセットマネジメント(MDM)」事業部、そしてブロックチェーン・秘匿化技術の研究開発組織「LayerX Labs」を管轄した。現在はAI・LLM事業部の管掌も担う。
2-4. 松本勇気のキャリア哲学
松本氏の代表的な思考フレームは、「人生のポートフォリオ」という投資家的キャリア論だ。「短期(3〜6ヶ月)」「中期」「長期」のサイクルを意識し、長期は方向性、中期は具体的目標、短期は実装。これらが一直線に貫通していなければ、知識の深化も成長速度も鈍る。
そして「無視する技術」。松本氏自身が元々ブロックチェーンの専門家であり、Web3やNFTにも当然興味があるという。だが「いまLayerXでやりたい方向とは違う」ため、Twitterで関連キーワードをミュートして見ないようにしているそうだ。逸失利益を意識しながら、フォーカスを取るための技術。
「成長したいなら、責任を取る側に立つ」。これは松本氏のもう一つの口癖だ。意思決定をする側に立てば、自分の判断の質が試される。質問する側、評論する側にいるかぎり、本当の成長は来ない。
LayerXのCTOでありながら、松本氏は現場でコードも書く。理由は単純で、「企業のフェーズや状況に応じて、必要なことは何でもやる。現在のLayerXのフェーズではコードを書くことがベストな選択だと判断している」から。CTOという職位を抽象的な責任の集合と見るのではなく、「いまの組織にとって最大効用な役割の集合」と捉えるリアリズム。
2-5. 福島と松本という"二項"
このふたりの組み合わせが、私はLayerXの最も重要な資産だと思っている。
福島:方向を定める。「半分外れてもいい打率でアクセルを踏み続ける」侵略的なビジョナリー
松本:方向の中で実装の精度を上げる。組織アーキテクチャ・技術アーキテクチャを設計する建築家
福島が「踏んだ結果PMFする」と言い切れるのは、松本という建築家がいるからだ。松本が「2025年に経営パラダイムが変わる」と読み切ったタイミングで戻ってこれたのは、福島というビジョナリーが場所を用意していたからだ。
二人は2012年からの長い関係を持っている。Gunosy時代、松本氏はGunosyに入社し、ブロックチェーン研究開発チームを立ち上げた。その研究の出口がLayerXであり、松本氏は途中DMMへ「修行」に出た後、LayerXのフェーズが整ったタイミングで戻ってきた。これは偶然ではない。長期的なキャリア設計と、互いへの信頼が積み重なった結果である。
第三章 ── LayerXの誕生・MBO・ピボット ── 「正しい撤退」の技法
3-1. 2018年8月、AnyPayと組む選択
2018年8月1日、株式会社LayerXが東京都港区に設立される。GunosyとAnyPayが50%ずつを出資する、折半のジョイントベンチャーだった。
ここで一度立ち止まってほしい。なぜ、Gunosyの100%子会社ではなく、わざわざAnyPayと組んだのか。
AnyPayは木村新司氏が創業した会社である。木村氏は、Gunosy創業の初期に深く関与し、共同CEOを務めたこともある人物だ。その後Gunosyを離れ、AnyPayを立ち上げた。福島良典氏にとって、創業期から最も深く知る盟友のひとりが木村氏である。
ブロックチェーンと金融の交差点で勝負する、という新しい挑戦のため、福島氏は一人で抱え込まなかった。決済(AnyPay)とニュース・データ(Gunosy)の両方の経験者を巻き込み、JVという形でリスクとアップサイドを共有した。これは、新規事業の不確実性が極めて高い領域では極めて理にかなった選択である。
オフィスや人の派遣、事業のサポート――AnyPayがLayerXの初期にどれだけ献身的に支えたかは、福島氏自身が後年のインタビューで「大変感謝している」「引き続き提携できる領域があれば一緒に取り組みたい」と語っていることからもわかる。
3-2. 当初仮説 ── 「ブロックチェーン版PKSHA Technology」
LayerX創業時の仮説は明快だった。「ブロックチェーン版のPKSHA Technologyをつくる」。
PKSHAは、コンサル事業で大企業との接点を持ち、AIのPoC(概念実証)を受注する。PoCが成功するとシステムが導入され、ストック型の売上が立つ。そしてストック売上の中から共通性を抽出して、SaaSとまでは言わなくとも、共通モジュールを作り出してスケールする――というモデル。
福島氏はGunosy時代、コンシューマー側で地道にデータを集めていた。一方で同じ時期に、PKSHAは大企業側のMLニーズを取りに行きながら、データや実際のユーザーニーズを見ながらプロダクトを立ち上げる方法を磨いていた。福島氏はこの方法論に深く感心していた。
「データやユーザーニーズを見ながらプロダクトを立ち上げる」のは、エンジニア出身の起業家が最も得意とするやり方だ。コンサル受注は、その入り口を提供してくれる。福島氏はPKSHAのモデルを深く研究し、ブロックチェーン領域にそのまま当てはめようとした。
3-3. 仮説の反証 ── 「アルゴリズムは部分置換、ブロックチェーンは全体置換」
しかし、この仮説は失敗する。
福島氏は、仮説の何が間違っていたかを明快に総括している。「アルゴリズム系のモジュールは"一部分を置き換える"もので、ブロックチェーン系のプロダクトは"全体を置き換える"ものだった」。
機械学習モジュールは、既存システムの中の一部処理(推薦エンジン、画像認識、需要予測など)に差し込めばよい。だからPoC→システム導入→ストック売上の流れが綺麗に回る。
ブロックチェーンはそうではない。ブロックチェーンは「インフラに近い」もので、複数の企業が一緒に置き換えなければ意味のあるネットワーク効果が立ち上がらない。一社のPoCで完結しないし、PoCの成功がストック売上に直結しない。
これは「市場が悪い」という話ではない。「技術の社会実装ロードマップが、想定より20歩手前にある」という診断である。福島氏はこのとき、自身のニーズ把握能力と技術選択をバラして検証した。技術の選択を変えれば、ニーズへの解像度はそのまま使える。撤退ではなく、技術スタックの切り替えで対応する道が見えた。
3-4. その間も走り続けたR&D ── 世界水準の到達
ここが重要なのだが、ピボットの議論をする前に、LayerXがブロックチェーンR&Dの面でどのレベルに達していたかを記しておく必要がある。
2019年9月、LayerXが研究を進めていたCBC Casper(イーサリアム2.0で検討されていた合意形成アルゴリズムの一つ)の研究が評価され、Ethereum Foundation Grants programの対象企業に選定される。Ethereum Foundation Grantを取得したのは、LayerXが日本企業として初だった。
同じく研究を進めていたZerochain(プライバシー保護ブロックチェーン)の開発は、世界的なブロックチェーン財団であるWeb3 Foundationの「Web3 Foundation Grants Wave2」に選出されている。
世界の最先端の財団から、二重に評価される研究組織。これは「ブロックチェーンから撤退した会社」という言い方では到底捉えきれない実績である。
そのR&Dを支えていたのが、後にFintech事業部長へと進化する中村龍矢氏である。中村氏は東京大学在学中からGunosyのデータ分析部にアルバイトで参画し、Gunosyブロックチェーン研究開発チームを経て、2018年8月のLayerX創業と同時に入社。当初はブロックチェーンのセキュリティ研究に従事していた。
福島氏はR&Dを止めなかった。「研究と商用化、両方が必要だ。いがみ合って自滅してしまっては本末転倒だから、各々がやるべきことに邁進していくべきだ」――この姿勢を保ったまま、組織としては別の問いを掘り下げていった。
3-5. 2019年7月12日、MBOの全容
2019年7月12日、Gunosyは公式に発表する。子会社LayerXの保有株式の一部を、創業者の福島良典氏に譲渡すると。
数字を正確に書き残しておこう。
LayerXの当時の業績:売上高1億400万円、営業利益100万円、純利益0円、純資産1億円
譲渡株式:Gunosyが保有する5000株(50%)のうち4500株(45%)を福島氏に譲渡
譲渡価額:1億3500万円
譲渡予定日:2019年8月23日
Gunosyは引き続き5%(500株)を保有
同日、AnyPayも保有する50%全株を福島氏に譲渡する基本合意を発表
この譲渡により、LayerXの評価額は約3億円となる(Gunosyからの45%が1.35億円なので、単純計算で100%は約3億円)。
そして、ここからが圧巻である。
MBOから約200日後、LayerXは評価額136億円で資金調達を実施する。1年弱で評価額が約40〜45倍に跳ね上がった。これは日本のスタートアップ史を見渡しても、極めて稀な高速バリューアップである。
3-6. なぜ評価額3億円だったのか ── 資本戦略としての老練さ
「黒字会社をなぜ3億円という低評価で切り出したのか」――この問いに、複数の解釈がある。
第一の解釈(公式説明):ブロックチェーンの市場環境が急変し、不透明感が増した。子会社が破綻した場合、Gunosy本体に経営責任のリスクが及ぶ。だから機動性を高めるためにMBOで切り出した。これは福島氏と当時のGunosy代表竹谷祐哉氏が共同で語った見解だ。
第二の解釈(資本戦略視点):黒字とはいえ売上1億円規模の研究開発色の強い会社を、上場会社のセグメントに抱えていてもバリュエーションに寄与しない。むしろ非連続な成長機会の足かせになる。スタートアップとして独立させ、リスクテイクを最大化する方が、結果的に元株主(Gunosy)にとっても株価上昇のリターンになり得る。
第三の解釈(批判的視点):上場会社を「踏み台」とした、創業者個人の資産形成スキーム。Gunosy上場時に希薄化していた創業者メリットを、新会社で取り戻しに行く動き。社員も連れて切り出す形のMBOは「露骨な子会社切り離し」と評されてもおかしくない。
私自身は、これら三つの解釈のどれかが正解で残りが誤り、という見方は採らない。現実には三つすべてが同時に成立しているのだろう。資本戦略は、複数の解釈に同時に耐える形でしか生き残れない。福島氏はそれを知った上で、最も柔軟な独立路線を選んだ。
そして付言すれば、Gunosyは現在に至るまで5%の株式を持ち続けている。LayerXのバリューアップ(136億円→現在おそらく数千億円規模)の上昇分の5%相当は、Gunosyの株主にも長期的に還元されている可能性がある。「踏み台」一辺倒の批判では拾えない要素だ。
なお、MBOから3ヶ月後の2019年10月、ユナイテッド元取締役でXTech Ventures共同創業者の手嶋浩己氏が取締役として招聘される。手嶋氏はメルカリの初期投資家としても知られる。MBO直後にこの人物が外部視点として入ったことで、LayerXのガバナンスは独立スタートアップとして整えられていく。
3-7. 2021年8月、ピボット宣言
MBOから2年。LayerXは静かに、しかし決定的なピボットを進めていた。
2021年8月、福島氏はnote記事を公開する。タイトルは「LayerXはブロックチェーンの会社じゃありません、という話」。要旨はこうだ。
LayerXは(もう)ブロックチェーンの会社ではない
今LayerXは「請求書受取業務SaaS」「アセットマネジメント事業(Fintech)」「プライバシーテック」の3事業をやっている会社である
3事業はブロックチェーンコンサルを通じて気づいたニーズから生まれたもので、実現したい世界(ミッション)は変わっていない
日本は、ブロックチェーンとか言っている場合ではない。地道なデジタル化を進めていく覚悟が必要であり、そこにLayerXはコミットする
LayerXで使っている技術スタックは極めて「一般的」である。AWS、Go、TypeScript(Vue, Nuxt.js)など。エンジニアの皆様、変に身構えないでください
このピボット宣言の見事さは、「失敗の弁明」ではなく「学習の宣言」として書かれていることだ。「ブロックチェーンに未来がない」とは一度も言っていない。「日本社会の今のフェーズには、もう20歩手前のデジタル化が圧倒的に必要だ」と言っているだけだ。
3-8. 「ニーズはコンサルから生まれた」
ピボット先の3事業がどう生まれたかも、ここで明確にしておきたい。
LayerXがブロックチェーン関連の技術コンサルティングを大企業向けに提供している中で、見えてきたのは、ブロックチェーン以前の問題だった。請求書がいまだに紙で処理されている。アセットマネジメントの業務は人手で証券化処理をしている。企業間データ共有が進まず、プライバシー保護を理由にデータが孤立している――。
ブロックチェーンの導入を提案する以前に、解くべき手前の課題が山のようにあった。福島氏は撤退ではなく、「お客さんの真の課題に当て込みに行く」という路線変更を選んだ。
そして決定的に重要だったのが、自社で参画した三井物産デジタル・アセットマネジメント(MDM)の業務である。LayerXは2020年4月、三井物産(54%)、LayerX(36%)、SMBC日興証券(5%)、三井住友信託銀行(5%)でMDMを設立。この合弁会社の業務の中で、福島氏たちは実物資産のアセマネにおける経済活動の非効率を肌で体験した。
この体験から、地方銀行とのプロジェクトの中で出てきたアイデアを原型に、バクラクが構想されていく。
3-9. ミッションの「上書き」 ── 撤退ではなくレベルアップ
ピボットの設計の妙は、ミッション・レベルでの上書きである。
「ブロックチェーンで金融を変える」から「すべての経済活動を、デジタル化する」へ。後者は前者を完全に内包する。ブロックチェーンは手段の一つに過ぎず、目的は経済活動全体のデジタル化だった――と、ピボット後に語ることが完全に自然になる。これは綺麗ごとではなく、ミッションの設計の話だ。
普通のスタートアップは、ピボットすると「方向転換した」「失敗を認めた」という形にならざるを得ない。LayerXは、ミッションを最初から十分に高く設定していたために、ピボットを「内側で起きた手段の最適化」として位置づけることができた。創業期からのこのミッション設計こそが、後年のコンパウンド・スタートアップ戦略への展開を可能にした最大の伏線である。
3-10. 撤退の技法
ピボットを終えて私が最も尊敬するのは、福島氏が**「撤退の技法」**を確立していたことである。
第一に、研究の存続。事業として撤退しても、Ethereum Foundation Grantを取り続けるレベルのR&Dは止めなかった。後にこのR&Dは、MDMでのセキュリティトークン技術として実体化していく。「捨てる」ではなく「再配置」した。
第二に、組織の連続性。30名ほどのブロックチェーン中心の従業員を、SaaS事業へ説得して移してもらう。創業メンバーである榎本悠介氏ですら、後に「正直、不安だった」と告白している。それでも全員が残った(あるいは新しいチャレンジを選んだ)。これは経営陣の説明力と、ミッションへの本気度が問われた瞬間である。
第三に、ミッションの上位互換。前述の通り、ミッションが手段の上に立っていたため、ピボットは「上位ミッションの中の手段の選び直し」になった。
第四に、外部発信の透明性。福島氏は2021年のnoteで、ピボットの事実、その理由、これからやることを正直に書いた。隠さなかった。スタートアップ界隈はこの文章を熱量を持って読み、結果的にLayerXの信頼度はむしろ上がった。
「正しく撤退できる経営者は、正しく踏み込める経営者でもある」――この命題を、LayerXほど鮮やかに証明した日本のスタートアップは、私の知る限り存在しない。
第四章 ── バクラクとコンパウンド・スタートアップ戦略の本質
4-1. 起源 ── MDMの中で見つかった「経済活動の非効率」
バクラクの起源を語るには、MDM(三井物産デジタル・アセットマネジメント)の話から始めなければならない。
2020年4月、LayerXはMDMの設立に参画する。実物資産(不動産・インフラ等)のアセットマネジメント業務をデジタルネイティブに作り直す、という意欲的なJVである。LayerXはここで36%という大きな出資比率を持つ。
このMDMの業務の中で、福島氏たちが目にしたのは、ブロックチェーンを使うレベルですらない、もっと基本的なオペレーションの非効率だった。請求書、稟議、契約書、金額確認、振込処理、仕訳、会計連携――この一連の業務が、いまだに紙とExcelとメールで動いている。
地方銀行とのプロジェクトでも同じ景色を見た。アイデアの原型がそこから生まれた。「請求書を受け取って処理するという、ただそれだけの業務を、AIとSaaSで完全にやり直したらどうなるか」。
4-2. 2021年1月、「LayerX インボイス」の誕生
2021年1月、LayerXはついに最初のSaaSプロダクトをリリースする。LayerX インボイス。請求書受取業務に特化したSaaSである。
特徴は明快だった。AI-OCRで紙の請求書(PDFを含む)を数秒で読み取り、仕訳と振込データを自動作成する。経理担当者の手作業を、根本から減らす。
しかし、最初の反応は悲惨だったと福島氏自身が語っている。プロトタイプを顧客企業に持ち込んだとき、本人の言葉を借りれば「100社のうち100社がだめだという勢い」だった。
ここで普通なら折れる。だが福島氏は、コンセプトに対する反応そのもの(「便利そう」)を見ていた。そして、「これが足りない」「ここが使いにくい」という個別フィードバックを、一つずつプロダクトに反映していった。
リリースから9ヶ月後の2021年12月、導入企業数は約21倍に成長していた。月次の請求書処理金額は140億円、年換算1,700億円という規模に達していた。「おそらくこのフェーズの国内SaaS事業の中ではトップクラスといえる成長速度」と福島氏自身が語った(2021年8月時点の認識)。
4-3. 「圧倒的に使いやすい」という開発思想
榎本悠介氏(バクラク事業部CTO/CPO)が、技術カンファレンスや技育祭で繰り返し語ってきたのが、**「ドメインにディープダイブする」**という哲学である。
経理、人事、不動産、財務会計――エンジニアであっても、対象ドメインの専門書を読み込み、業務フローを実際の現場で観察する。プロダクトのUI/UX設計は、ドメイン理解の深さと比例する。
これは、米国のシリコンバレーで言うところのドメインドリブン・デザインの徹底版に近い。「ボタンの配置がいい」だけでは「圧倒的に使いやすい」は生まれない。業務フローそのものを書き換える、これまで当たり前にあった業務をなくせないか、という思考をしないと、本当の価値は生まれない。これが榎本氏の口癖だ。
福島氏も同様に、「Amazonは検索とレコメンドとワンクリック購入しかない。Googleのホーム画面は検索窓が1個あるだけ。シンプルさを磨き込んでいる」と語る。BtoCで培われた「徹底的にシンプルなプロダクト」の発想を、BtoBに持ち込むこと――これがLayerXの揺るぎない開発思想だ。
4-4. 2021年12月、ブランド統一 ── 「バクラク」誕生
2021年12月10日、LayerXは大きな発表をする。SaaS事業のブランド名を**「LayerX」から「バクラク」へ統一する**。
それまでの「LayerX インボイス」「LayerX ワークフロー」「LayerX 電子帳簿保存」は、それぞれ「バクラク請求書」「バクラク申請」「バクラク電子帳簿保存」に改められた。
なぜブランド統一だったか。理由は二つあった。
第一に、サービスの認知促進。執行役員の牧迫寛之氏は当時こう述べている。「『LayerX』という名称の読み方、製品の内容が正しく伝わりづらい。サービス名を変更することで、製品の特長が明確に多くの方に伝わる」。
第二に、コンパウンド戦略への布石。「バクラク」というブランドの下に、複数プロダクトを並べていく構造を最初から作った。これは、後の「バクラク経費精算」「バクラクビジネスカード」「バクラク勤怠」への自然な拡張を可能にした。
福島氏はこのときすでに「請求書処理が楽しみ、というワクワクするエモーショナルな体験を作りたい」と語っていた。「楽(らく)になる」だけでは足りない。バックオフィスをも、楽しい場所にしたい。これがバクラクの原点である。
4-5. コンパウンド・スタートアップ戦略の理論的基盤
ブランド統一からまもなく、LayerXは戦略名として明確に「コンパウンド・スタートアップ」を掲げ始める。福島氏が2022年末から2023年にかけて公開した一連のnoteで、この戦略思想は体系的に語られている。
コンパウンド・スタートアップ(Compound Startup)とは、米国のスタートアップRipplingのCEO Parker Conrad氏が提唱した、新しい競争戦略である。
Parker Conrad氏は、ユニコーン企業Zenefitsの元CEOである。Zenefitsでの失敗の経験を元に、Ripplingを創業。Zenefitsでは医療保険SaaSを起点に拡張しようとして失敗したが、Ripplingでは最初から従業員データを中心に複数プロダクトを展開する設計にした。結果、Ripplingは2024年12月時点で評価額133億ドル超のデカコーンに成長している。
コンパウンド・スタートアップの特徴は、3つに集約される。
特徴1:単一プロダクト(focus startup)ではなく、複数プロダクト(compound startup)を意図的に運営。Ripplingは直近1年で5〜7のプロダクトをローンチしている。
特徴2:focusすべきは「何のデータを中心に考えるか」。Ripplingは従業員データを中心にサービス群を構築。HRのみにターゲットを絞らず、IT資産管理、給与、経費、デバイス管理など、従業員データが中心になる業務を網羅的に統合する。
特徴3:複数プロダクトを出すことで成長が加速。Ripplingでは、新規プロダクトのARR $1M → $5Mに到達する速度が、単品プロダクトの場合より速い。データの相互運用性が、新規プロダクトの導入を容易にするからだ。
4-6. ERPとの違い ── 「部署で切る」のではなく「データで束ねる」
コンパウンド・スタートアップを聞いたときの素朴な疑問は、「それってERPの再発明では?」というものだ。
福島氏の答えは明快である。過去のSaaSアンバンドリング(バラバラのSaaS化)は「部署」で切り分けることにフォーカスしていた。営業部門向けSaaS、経理部門向けSaaS、HR部門向けSaaS、というように。
コンパウンド・スタートアップが注目するのは**「部署横断の横串の"データ"」である。LayerXの場合、それは法人の支出データ**(取引先、組織図、トランザクションデータ)。Ripplingの場合は従業員データ。
このデータを中心に据えれば、勤怠管理も経費精算も、組織図と承認経路という「同じ構造」で回せる。福島氏は具体的にこう説明している。「経費精算と勤怠は実は全く同じ構造をしている。承認経路は同じだ。組織図の管理が複数システムにまたがっていることが、コーポレート業務の最大の負担。これを一つのバクラク基盤に統合すれば、全社レベルで負担が消える」。
4-7. SaaS+Fintech ── 第4世代のソフトウェアビジネスモデル
LayerXのコンパウンド戦略の中で、特に強いカードが**法人カード(バクラクビジネスカード)**である。
福島氏は2021年末のnoteで、米国の著名VC a16zが2020年に提唱した概念**「SaaS+Fintech」**を引いている。SaaS+Fintechとは、SaaSの上にFintech機能を載せることで、決済流量を取り込み、SaaS料金以外のマネタイズチャネルを得るモデル。インターチェンジ収益(決済時の手数料収入)が、SaaS事業の収益を加速する。
バクラクビジネスカードは2022年にローンチ。初期手数料・年会費無料、最大1億円の高額決済が可能、用途ごとに何枚でも発行可能、最大2%キャッシュバック等のキャンペーン――。これにより、バクラクはSaaS年間契約の使用料と、カード利用時の決済収益の2軸でマネタイズする構造を得た。
これは決して小さな話ではない。SaaSとFintechの両輪化により、競合がSaaS単体では追いつけないユニットエコノミクスを得る。これがLayerXの「広く見える」事業ポートフォリオの、最も実利的な意味である。
4-8. 勤怠への展開 ── 「インサイドセールス起点」の意思決定
2024年、LayerXはバクラク勤怠をリリースし、人事領域へ進出する。「経費精算と勤怠は同じ構造」という構造的理由はすでに説明した。だが、もう一つ重要な意思決定プロセスを、福島氏は明かしている。
それは**「インサイドセールスの段階で『何の理由で失注したか』、要は『商談化に至っていない顧客のニーズは何か?』を見ること**」だ。
経費精算の提案をする際、「経費精算と勤怠管理をセットで使いたい」という顧客の声が極めて多かった。バイヤーも違うし、業務も違うのに、なぜ?――最初は意味がわからなかったという。だが、現場の声を集計したら、明らかに「セット」を求める引きが強かった。
この声から、勤怠への展開は決まった。市場リサーチではなく、自社のセールスファネルの中の失注理由から、次のプロダクトを決める。コンパウンド戦略における新規プロダクトの選定ロジックが、外部のマクロ視点ではなく、内部のミクロデータから生まれていることが、極めて重要だ。
4-9. 8つのプロダクトと「絞り込み」の哲学
2026年初頭時点で、バクラクは概ね以下のプロダクト群を持つ:
バクラク請求書受取(AI-OCR + 仕訳/支払い自動化)
バクラク申請(稟議・経費申請ワークフロー)
バクラク経費精算(モバイル完結型経費精算)
バクラク電子帳簿保存(電子帳簿保存法対応)
バクラク請求書発行(請求書発行クラウド)
バクラクビジネスカード(法人カード + 支出管理一体化)
バクラク勤怠(人事領域への進出)
AI申請レビュー等のAIエージェント機能
福島氏自身は、All Star SaaS Fund福山氏との対談で、**米国Ripplingが25のプロダクトを展開しているのに対して、LayerXは「狙いを絞って展開している」**と語っている。
絞り込みの基準は明快だ。「勤怠管理なら勤怠管理、経費精算なら経費精算と、それだけで絶対に選ばれる理由、それだけで絶対10X良くなっている、代替手段よりも10倍良いと自信が持てるプロダクトじゃないと出さない」。
これは「広げる」のではなく「1個1個、深く勝ち切る」という戦略である。コンパウンドだから多角化、ではない。1個ずつ絶対に勝つことが先で、勝ったプロダクトの間にデータ連携を作るのが結果としてコンパウンドになる、という逆順の設計だ。
4-10. Layeroneプロジェクトと名村卓のEnabling Team
複数プロダクトを高速に出すためには、内部のエンジニアリング基盤が決定的に重要になる。Ripplingは「プロダクトそのもの以上にミドルウェア開発に投資している」と知られている。
LayerXは2022年7月、メルカリ・ソウゾウでCTOを務めた名村卓氏を執行役員として迎え、Enabling Team(イネーブルメント担当)を立ち上げた。これは複数プロダクトを横断する、開発基盤の中央チームである。
このチームが推進する**「Layerone」プロジェクト**には、4つの注力項目がある。
Blazing Fast(爆速)
Fun to Build(作る楽しみ)
No Struggle(邪魔者がいない)
No Barriers(全方位開発)
技術的には、これまでマイクロサービス間のデータ同期が密になっていた構造を、プロダクト単位ではなくリソース単位のマイクロサービスに再編することで、循環参照を避けつつスケーラブルにしている。これは内部のリファクタリングだから外からは見えないが、コンパウンド戦略を本気でスケールさせるための心臓部の手術である。
4-11. 顧客拡大の軌跡 ── 4,000社→10,000社→15,000社
バクラクの導入社数の推移は、以下のように加速している。
2021年12月(初期):3,000社目標を発表
2023年5月:登壇時4,000社以上、その後5,000社突破を発表
2024年2月:10,000社突破
2025年9月:15,000社超
3年で3倍。SaaS界隈で「T2D3(Triple, Triple, Double, Double, Double)」と呼ばれる理想的な成長軌道を、前倒しで達成してきた。
加えて、近年はエンタープライズ部という大企業向けの専門組織を組成し、従業員1,000名以上の大企業への浸透を進めている。SMBからスタートしたSaaSが、ARR成長の中で必然的にぶつかる「エンタープライズの壁」を、専門組織化で乗り越えに行っている。
4-12. 「2年の猶予」とコンパウンド戦略の現在
2025年7月、福島氏はAll Star SaaS Fund前田ヒロ氏との対談で、印象的なフレーズを語った。「すべてのスタートアップには、もはや2年の猶予しか残されていない」と。
AI革命の真っ只中にある今、SaaS企業がAI時代に取り残されないために残されている時間は2年。この時間軸の中で、コンパウンド戦略はどう進化するのか。
福島氏の答えは、AIエージェントへの「全振り」である(詳細は第八章深掘り版で展開する)。バクラクの各プロダクトに、学習型帳票入力エージェント、仕訳エージェント、経費精算エージェント、入金消込エージェントを実装。今後は請求書回収エージェント、社内手続相談エージェント、督促エージェント、コスト削減エージェントを追加予定。
コンパウンドは、もはや「複数プロダクトのデータ連携」だけではない。複数の業務領域の上に、それぞれ自律的に動くAIエージェントを乗せ、データ層と意思決定層の両方を統合する――これが2026年以降のLayerXのコンパウンド戦略の姿である。
第五章 ── Fintech・AI・LLMの三位一体
5-1. 三井物産デジタル・アセットマネジメント(MDM)
LayerXの事業は、バクラクだけではない。
2020年、LayerXは三井物産・MUFG銀行・三井住友信託銀行と組み、合弁会社三井物産デジタル・アセットマネジメント株式会社(MDM)を設立。デジタルネイティブなアセットマネジメント会社を目指す事業である。
MDMが提供する個人向け資産運用サービス「ALTERNA(オルタナ)」は、デジタル証券(セキュリティトークン)を活用した、不動産やインフラ等の実物資産への新しい投資手段を個人投資家に開放するプロダクトだ。三井物産という総合商社のディール組成力と、LayerXのテクノロジーが組み合わさることで、これまで機関投資家にしかアクセスできなかった資産クラスが個人に開かれる。
これは単なる「ジョイントベンチャー」ではない。LayerXがブロックチェーン研究で培った技術が、商用化可能な形で日本最大級の総合商社の事業に接続された結果である。ピボットしたのではなく、研究成果を別の事業形態で結実させた、という見方が正確だろう。
5-2. Ai Workforce ── 大企業の生成AI実装基盤
2023年以降、LayerXはAI・LLM事業を本格化する。中心プロダクトは「Ai Workforce」。社内に蓄積されたナレッジやノウハウを、生成AIで活用可能なデータベースに変える、企業向けのAIプラットフォームだ。
すでに三菱UFJ銀行、三井物産等の大企業に導入されている。三井物産クレジットコンサルティングではナレッジ管理に、三菱UFJ銀行では与信判断レポートの作成等のホワイトカラー業務の効率化に活用されている。
この事業を率いるのは、執行役員AI・LLM事業部長の中村龍矢氏(後述)。松本氏が管掌するこの領域は、2025年4月の行動指針アップデート「Bet AI」のもとで、全社的な最重要領域に位置付けられた。
5-3. 三菱UFJ銀行との戦略的パートナーシップ
2024年、LayerXは三菱UFJ銀行と業務提携を結ぶ。2025年には戦略的パートナーシップに関する覚書を締結。法人向け「バクラク for MUFG」の提供、社内DXの支援等、多岐にわたる協業が走っている。
三菱UFJ銀行は2025年9月のシリーズB調達でも投資家として参加した。福島氏は「グループ化の予定はない」と明言しているが、メガバンクが戦略株主として入る意味は大きい。日本の金融DXの中核に、LayerXが座ろうとしている、という構図である。
5-4. AgenticSec買収 ── AI時代のセキュリティ進出
2025年から2026年にかけて、LayerXはM&Aも積極化している。AgenticSecをグループに迎え、AI時代のセキュリティ領域に進出。今後もM&Aを強化する方針を明示している。
これは単なる事業領域の拡張ではない。AIエージェントが業務の中枢に入り込む時代に、「AIエージェント自身のセキュリティ」をどう担保するか――この問いに対する、先回りの陣地確保である。
第六章 ── 「2周目人材」たち、もうひとりの主役たち
LayerXの強さは、福島氏と松本氏だけでは説明できない。経営チームには、それぞれの分野で一度大きな組織や上場を経験した「2周目人材」が集まっている。以下、主要メンバーを公式情報をもとに紹介する。
6-1. 榎本悠介(取締役・バクラク事業部CTO/CPO)
東京大学工学部計数工学科卒。新卒でディー・エヌ・エー(DeNA)に入社、ニュースアプリ等の開発を経験。2015年に株式会社Gunosyへ移り、福島氏のもとで複数の新規事業立ち上げをアーキテクト・リードエンジニア・プロダクトマネージャーとしてリード。2017年からはGunosy内のブロックチェーン研究開発チームをオーナーとして立ち上げ、これが後のLayerXとなる。
2018年、LayerX創業時に取締役CTOに就任。バクラク事業部の立ち上げを技術面で牽引し、2024年1月からはCPOも兼務。「mosa」というハンドルネームで知られる人物で、学生時代には『ボンバーマン』を極めすぎてテレビ番組にも出演したというエピソードを持つ、ユーモアと胆力のあるリーダーである。
榎本氏の信条は「ドメインにディープダイブする」。経理・人事・不動産といったプロダクトのドメイン知識に、エンジニアとして本気で潜る。書籍も経理や不動産のものを読み込む。これがバクラクの「圧倒的に使いやすい」を支える土台になっている。
「LayerXの経営陣は"2周目人材"が多く見えるかもしれませんが、みんな1周目の経験を元にするのではなく、リアルタイムに社会情勢や組織の状態を見て、その都度考え、アップデートしています」――榎本氏の言葉である。
6-2. 中村龍矢(執行役員・Fintech事業部長/元AI・LLM事業部長)
東京大学在学中からGunosyのデータ分析部にアルバイトとして参加し、機械学習を用いたコンテンツ配信を担当。Gunosyブロックチェーン研究開発チームを経て、2018年8月、LayerX創業と同時に入社。当初はブロックチェーンのセキュリティに関する研究に従事した。2020年4月に執行役員に就任。
その後、AI・LLM事業の責任者を務め、Ai Workforceを大企業に展開する事業を推進。現在の肩書はFintech事業部長として、Fintech領域の責任を担っている。
研究者としてのバックグラウンドと、事業責任者としての推進力を併せ持つ稀なタイプ。「LayerXでエンジニアとして働くのは総合格闘技をしているようなもの」と語ったことで知られる。
6-3. 中川佳希(バクラク事業部CTO)
大学在学中に複数企業でインターンを経験。2013年に株式会社エウレカに入社。フリーランスを経て、2020年6月にLayerXにジョイン。2024年1月、榎本氏(mosa)からバクラク事業部CTO職を引き継いだ。
ミッションは「開発観点からプロダクト価値を最大化する」。コンパウンド・スタートアップとして共通化したデータで業務を繋ぐためのテクノロジーマネジメント、プロダクト間のアーキテクチャ設計、Platform Engineeringチームとプロダクトチームの接続――こうした横断的な責任を担う。OpenAIのGreg Brockmanのブログ記事を引き合いに、研究者やエンジニアが集中・没頭できる時間を守ることの重要性を語っている。
6-4. 名村卓(執行役員CHRO/Platform Engineering)
メルカリ、ソウゾウのCTOを務めた、日本のソフトウェアエンジニア界における最重要人物のひとり。LayerXでは現在、執行役員CHROとして人事領域、そしてPlatform Engineeringマネージャーとして開発基盤領域を見ている。
名村氏のような人物がLayerXに加わったこと自体が、業界へのシグナルとして極めて大きかった。彼が「ここで戦う」と判断する場所には、当然、優れたエンジニアが集まる。
6-5. 石黒卓弥(執行役員CFO)
NTTドコモに新卒入社。マーケティング、営業、採用育成、人事制度を担当。2015年1月、60名規模だったメルカリに入社し、人事部門の立ち上げを主導。5年で1800名規模までの組織拡大を牽引した。採用広報、国内外の採用、人材育成、組織開発、アナリティクスなど人事機能を幅広く歴任。2020年5月、LayerXに参画。現在は執行役員CFOを務める。
人事から始まり、CFOまで領域を広げているキャリアそのものが、LayerXの組織哲学(「2周目人材」が役割を超えて貢献する文化)を体現している。
6-6. 横田淳(取締役CAO兼上級執行役員コーポレート本部長)
1996年に慶應義塾大学を卒業後、NTTデータを経て、2001年サイバーエージェント入社。執行役員経営本部長としてグループ全体のコーポレート業務に従事しつつ、ABEMAなど多数の新規事業の立ち上げ、東証一部上場プロジェクトの責任者、グループ企業の上場支援等の特命案件を歴任。
2017年メルカリ入社。メルペイなど新規事業を立ち上げた後、メルカリ上級執行役員SVP of Corporateとしてグループ全体のコーポレート部門を統括し、プライム市場移行プロジェクトの責任者を務める。2023年4月、LayerXに入社、取締役コーポレート本部長として、コーポレート部門全体の統括、アライアンス、エンタープライズ営業を推進している。
サイバーエージェントとメルカリ、いずれも上場プロジェクトの責任者を務めた人物が、LayerXのコーポレート全体を見ているという事実が、上場準備(およびその先)への明確なシグナルになっている。
6-7. 手嶋浩己(非常勤取締役)
1976年生まれ。1999年、一橋大学商学部卒業後、博報堂に入社、戦略プランナーとして6年間勤務。2006年インタースパイア(現ユナイテッド)入社、取締役に就任。その後2度の経営統合を経て、2012年ユナイテッド取締役。新規事業立ち上げや、創業期メルカリへの投資実行等を担当。2018年同社退任。Gunosy社外取締役を経て、LayerX取締役(現任)。並行してXTech Venturesを創業し、代表パートナーに就任(現任)。
メルカリの初期投資家であり、LayerXの初期から関わる存在。投資家視点と起業家視点を兼ね備える、極めて重要な「外の目」である。
6-8. その他の経営メンバー
飯沼広基(執行役員バクラク事業CPO)
丸野宏之(執行役員バクラク事業VPoP)
南哲夫(執行役員Ai Workforce事業CEO)
小林篤(執行役員Ai Workforce事業CRO)
星北斗(執行役員Ai Workforce事業CPO)
渡瀬浩行(執行役員CISO兼バクラク事業VPoE)
野﨑駿(取締役)
加えて、三井物産から出向してきたメンバー(MDMの立ち上げに携わり、2023年にはLayerXの社外取締役にも就任した三井物産コーポレートディベロップメント本部の人物)もいる。これは、JVが「形だけ」ではなく、人材交流のレベルで実体化していることを示している。
第七章 ── 批判への応答 ── 数字の正しい読み方
7-1. 第7期決算公告の精読
冒頭の批判は、第7期決算公告(令和7年6月26日付、令和7年3月31日現在)の数字に基づく。まずその数字を、表面ではなく構造から読み直す。
貸借対照表(要旨):
流動資産 28,635百万円
固定資産 1,011百万円
資産合計 29,646百万円
流動負債 24,924百万円
固定負債 16百万円
負債合計 24,941百万円
株主資本 4,622百万円(資本金100、資本剰余金13,162、利益剰余金△8,640)
新株予約権 82百万円
純資産合計 4,704百万円
損益計算書(要旨):
売上高 5,595百万円
売上原価 1,660百万円
売上総利益 3,934百万円
販売費及び一般管理費 7,512百万円
営業損失 3,578百万円
営業外収益 20百万円
経常損失 3,558百万円
特別損失 173百万円
税引前当期純損失 3,731百万円
法人税、住民税及び事業税 3百万円
当期純損失 3,735百万円
ここから読める構造:
第一に、流動負債24,924百万円の正体。当期の損失でこの規模の負債は通常立たない。これは前受金(顧客からのSaaS年間契約の前払い)と未払費用で大半が説明できると推察される。SaaSは契約時に1年分の料金を前受けすることが多く、月次で売上計上されていく。したがって流動負債の多くは「これから売上化する将来収益」である。
第二に、利益剰余金△8,640百万円は累積赤字。創業以来の投資総額の足跡である。
第三に、純資産4,704百万円。資本剰余金13,162百万円が累積赤字8,640百万円を補填している構造。これはシリーズB前の数字なので、シリーズB 150億円調達後はこの数字が劇的に変わるはずだ。
7-2. 売上 vs ARR ── 計上されない時間
決算上の売上高55.95億円と、福島氏が語る「ARR1億円から4年でARR100億円ペース」の整合性を考える。
ARR(Annual Recurring Revenue, 年間経常収益)は、「期末時点で契約されている、これからの12ヶ月分のサブスクリプション収益」を表す。一方、当期の売上高は、「過去12ヶ月分に実際に計上された売上」だ。
成長中のSaaSでは、ARRは決算売上を先行する。具体例で考えると:
期初のARR:30億円
期末のARR:80億円(順調成長)
当期の売上:簡易的に平均すると(30+80)/2 = 約55億円
これは決算公告の売上55.95億円とよく整合する。つまり、LayerXは決算期末時点で既にARR80億円規模に達しており、来期はARR100億円を視野に入れている――この絵が描ける。
決算公告だけを見て「売上が伸びていない」と判断するのは、SaaS企業の評価としては誤読である。SaaSは、ARRが売上を引っ張る構造であり、ARRの傾きを見ないと現在地を見誤る。
7-3. 営業損失35.78億円 ── 「投資」と「損失」の区別
販管費75.12億円。ここに何が積まれているかを推察する。
SaaS企業の販管費の主要項目は概ね以下:
人件費(営業、CS、エンジニア、コーポレート、エグゼクティブ)
マーケティング費(広告、展示会、コンテンツ)
CAC関連費(顧客獲得コスト全般)
オフィス・インフラ・SaaSツール費
LayerXは2025年9月時点で従業員数を急速に拡大しており、シリーズB前提で500人体制を目指していた。仮に期中平均従業員数が250〜300名、平均人件費を1,000〜1,200万円/年と置けば、人件費だけで30〜35億円規模になる。販管費75億円のうち、人件費が4〜5割を占める計算だ。
投資 vs 損失の判定基準は、SaaSでは概ね「LTV/CAC > 3、回収期間 < 12〜18ヶ月」が健全とされる。LayerXのこの数値は外部に公開されていないが、TCVが日本初投資を決めるレベルの企業なら、当然この基準を内部的にクリアしているはずだ。
SaaSの販管費は、将来のARRを買う投資だ。CACへの投資をやめれば、ARRの成長も止まる。赤字を出してでもCACに投資し続けることが、SaaSの戦略的に正しい選択肢であり、シリコンバレーでは常識である。LayerXの赤字は「投資の結果」であって「事業の失敗」ではない。
7-4. SaaS指標で読む ── T2D3、Magic Number、AI Shooting Star
SaaSの成長軌道を測る指標として、有名なものにT2D3(Triple, Triple, Double, Double, Double)がある。これは、ARR約2億円スタートで3倍、3倍、2倍、2倍、2倍と成長すると、5年でARR約144億円に到達する、というベンチマークだ。
福島氏は2025年9月のシリーズB発表会見で、**「T2D3を前倒しで達成、AI Shooting Starペースで成長中」**と説明した。AI Shooting Starとは、ARR1億円→100億円を4年で達成する成長速度を指し、これは過去のSaaS企業のベンチマークを遥かに超える、AI時代の最速軌道である。
Magic Number(営業効率)も重要な指標だ。Magic Number = 純新規ARR ÷ 前期営業マーケ費。一般に1.0以上が健全で、1.5以上は極めて優秀とされる。LayerXのMagic Numberは公開されていないが、新規プロダクトのクロスセルがコンパウンド戦略により高速化していることを考えると、健全領域にあると推察できる。
7-5. 米国基準で見れば「過小調達」かもしれない
「282億円調達して売上55億円は過大」という批判を、米国基準で検証してみる。
米国の同水準(ARR80〜100億円規模)のAI×SaaS企業の調達額を見ると:
Rippling(2024年12月、評価額133億ドル):累計調達額13億ドル超
Toast(IPO前、ARR数百億円規模):累計調達額9億ドル超
Notion(評価額100億ドル):累計調達額10億ドル超
Anthropic、OpenAI等のAIフロンティア企業:数十億〜百億ドル単位
日本円換算で、米国の同水準のAI×SaaS企業は、累計1,000〜2,000億円調達しているケースが珍しくない。LayerXの累計282億円は、日本基準では大きく見えても、グローバル基準では「過小調達」のレベルである。
そしてこのグローバル基準のスケールに、LayerXは2025年9月のシリーズBで初めて踏み込んだ。リード投資家がTCVだったことの意味は大きい。
7-6. TCVの日本初投資 ── 世界の目利きが選んだ
TCV(Technology Crossover Ventures)は、米国の代表的なグロースエクイティファンドである。投資実績にはNetflix、Spotify、Airbnb、ByteDance、Facebook、LinkedInなどが並ぶ。世界のテクノロジー企業のグロースステージで、最も実績のある投資家のひとつだ。
そのTCVが、2025年9月のLayerXシリーズBで日本のスタートアップへの初投資を実行した。世界の目利きが、わざわざ日本市場に降りてきた相手がLayerXだった、という事実の重みは強調してもしすぎることはない。
TCVのGeneral PartnerであるMichael Kalfayan氏のコメントも引用しておきたい。LayerXは日本企業におけるファイナンス業務のあり方を大きく変革しており、AIネイティブなプラットフォームにより手作業の負担を大幅に削減し、経理・財務部門にこれまでにない透明性・スピード・コンプライアンスを提供している、と。
シリーズB調達ではTCVのほか、三菱UFJ銀行、三菱UFJイノベーション・パートナーズ、JAFCO、JPインベストメント等が参加している。メガバンクが戦略株主として入ること、国内の主要VCが揃って参加すること、これらは全て「この会社は日本SaaSの旗艦になる」という業界コンセンサスの表れだ。
7-7. 「拡げすぎ」批判への構造的反論
冒頭の批判の中核は、「事業領域を広げすぎて、競争優位性がよくわからない」というものだ。これに正面から答える。
反論1:拡げているのではなく、層を統合している。第四章深掘り版で詳述したように、コンパウンド・スタートアップは「データを軸とした統合戦略」であって、無限の多角化ではない。バクラク(バックオフィスSaaS)、MDM/ALTERNA(Fintech)、Ai Workforce(AI/LLM)――この3つは、表面的にはバラバラに見えるが、いずれも「企業の経済活動データを、ソフトウェアで一気通貫にする」という同じミッションの異なる断面である。
反論2:プロダクト追加の意思決定は、内部データから生まれている。勤怠への進出は「インサイドセールスの失注理由」から決まった。マクロな野心ではなく、ミクロな顧客の声から拡張している。これは、無責任な多角化とは正反対の経営姿勢だ。
反論3:「絞り込み」と「拡張」は両立する。福島氏は「狙いを絞って展開している」「それだけで絶対10X良くなっているプロダクトじゃないと出さない」と明言している。Ripplingの25プロダクトに対して、LayerXは8プロダクトに留まっている。これは慎重な絞り込みの結果である。
反論4:競争優位性は「データ統合」と「組織」にある。単一プロダクトの優位性ではなく、「同じデータ基盤の上で複数プロダクトを高速に動かせる組織能力」そのものが競争優位性だ。これは外から見えにくいが、Layeroneプロジェクトや名村卓氏のEnabling Teamが具体化している。
反論5:「広く見える」のは投資フェーズの宿命。SaaSがエンタープライズに浸透し、ARRが100億→500億→1000億と伸びる過程で、必ず「広く見える」フェーズを通る。Salesforceが営業向けSaaSから始まりMarketing Cloud、Service Cloudなどに広げたのと同じ。いまの「広く見える」は、5年後の必然のプラットフォーム化への過渡期である。
7-8. 「ベンチャー界隈の調達額信奉」への自己批判的応答
冒頭の批判には、もうひとつ重要な指摘があった。「ベンチャー界隈は、どうしても調達金額が大きい起業家を持ち上げがち」と。
これは、私自身も警戒している風潮だ。調達額の大きさは、PMFの証明でも顧客満足の証明でもない。むしろ、調達額が大きいスタートアップが派手に倒産する事例は、近年世界中で起きている。WeWork、FTX、Solyndra――調達額の信奉が業界をミスリードした事例は枚挙にいとまがない。
しかしLayerXに関して言えば、順序が逆だと私は考える。
「調達額が大きいから持ち上げられている」のではなく、「結果としてそれだけの調達ができる組織になっているから、世界的な投資家が殺到する」という順序である。具体的には:
累計15,000社以上の有償顧客(PMFの強い証明)
ARR100億円を「日本SaaS史上最速」で目指せる軌道(成長率の強さ)
TCVが日本初投資する水準のグローバル評価(外部評価の強さ)
MUFGとの戦略的パートナーシップ(金融大手の信頼)
三井物産との合弁による実物資産デジタル化(産業界の信頼)
メルカリ、サイバーエージェント、DMM、Gunosyから集まる「2周目人材」(人材吸引力)
これだけの実体を伴う企業にだけ、282億円が集まる。逆ではない。
7-9. 個別プロダクトの収益性 ── バクラクは黒字化できるか
ここはLayerXの公式情報からは断定できないが、業界の類似事例から推測することはできる。
SaaSの個別プロダクトレベルでは、3〜5年でユニットエコノミクスが黒字化するのが一般的な軌道だ。バクラク請求書(2021年1月リリース)は、2026年時点でリリース5年目に入る。プロダクトレベルでは黒字化フェーズに入っている可能性が高い。
一方、全社レベルでの黒字化は、当面来ないだろう。なぜなら、新規プロダクトに継続的に投資し、エンタープライズへの浸透にCACを投じ、AIエージェント開発に莫大なR&Dを投じ続ける戦略を採っているからだ。これは「意図的な赤字」であり、SaaSの教科書通りである。
7-10. バーンレートと滑走路(ランウェイ)
シリーズB前の純資産4,704百万円。年間のキャッシュバーンを当期純損失3,735百万円とすれば、シリーズB前の段階で滑走路は約1.3年。これだけだと窮屈だ。
しかしシリーズBで150億円が入った。新たな純資産規模は概ね200億円弱。年間バーン37億円のままなら、滑走路は5年以上に伸びる。
実際にはバーンレートは拡大していく(採用拡大、AI投資、買収など)。仮にバーンレートが年60億円に拡大したとしても、滑走路は3年以上は確保されている。この間にARR100億円→200億円→500億円と伸ばせれば、全社レベルでの黒字化、あるいはIPOに進めるシナリオが現実的になる。
7-11. それでも残る論点 ── リスクシナリオ
信じる者は、リスクからも目を逸らさない。LayerXに残るリスクを正直に列挙する。
リスク1:SaaSの競争激化。バックオフィスSaaSの領域には、マネーフォワード、freee、SAP Concur、サイボウズなど、強力な競合がいる。AI時代の勝者がLayerXになるとは限らない。
リスク2:AIエージェントの差別化。AIエージェントを実装するのは、すべてのSaaS企業が今やっている。LayerXのAIエージェントが、競合のそれに対して圧倒的に優れていることを、市場に証明し続ける必要がある。
リスク3:人材の引き留め。「2周目人材」は、別の機会があれば動く可能性もある。組織のカルチャーと報酬体系の両方で、トップ人材を引き留め続ける必要がある。
リスク4:上場のタイミング。282億円調達後の評価額は、おそらく数千億円規模。この水準で日本のIPO市場が受け止めきれるのか。米国市場での上場という選択肢も含めて、出口戦略は複雑化している。
リスク5:マクロ経済。日本経済の停滞、円安、AI革命の地政学的影響――マクロ要因はLayerX一社で制御できない。
これらのリスクを認めた上で、なお私はLayerXを信じる。リスクを認識する経営チームと、リスクを直視できる組織カルチャーが、すべてのリスクを最終的にはアップサイドに変換する確率が、最も高いからだ。
第八章 ── Bet AIと2030年ARR1000億円戦略
8-1. 2025年4月1日、「Bet Technology」から「Bet AI」へ
LayerXは創業以来、「Bet Technology」という行動指針を掲げてきた。「不確実性を恐れず、新しい技術の可能性に賭け、その力を活用して顧客や社会の課題解決につなげる」という、同社のDNAを象徴する宣言だった。
ブロックチェーンに賭け、SaaSに賭け、Fintechに賭け、AIに賭けてきた歴史は、すべてこの「Bet Technology」の実践だった。
そして2025年4月1日、LayerXは「Bet Technology」を「Bet AI」へとアップデートする。公式声明は次のように述べる。
「LayerXは、AIを10年に一度のパラダイムシフトと捉え、この未来にBetする。迷ったときこそ、AIの進化を信じ、AIに賭ける選択をしよう」
これは単なる行動指針の更新ではない。会社の重心そのものを、AIへとシフトさせる宣言である。
8-2. 松本勇気の「Bet TechnologyからBet AIへ」
行動指針アップデートと同日、代表取締役CTOの松本勇気氏はnoteで「Bet TechnologyからBet AIへ」と題するコメントを発信している。
松本氏は、生成AI、特に大規模言語モデル(LLM)が、文章生成、要約、翻訳、コード生成など多岐にわたる領域で知的生産性を飛躍的に向上させ、これまで想像できなかった新しいプロダクト体験や事業価値の創出を現実のものとしている、と述べる。
そしてこう続ける。「労働人口減少下の日本で生産性向上は不可欠であり、AIはその実現に欠かせない技術である。LayerXはこの未来にBetし、まず自らAIをフル活用して生産性を高め、AIとともにある働き方を先駆ける」。
「Bet AI」は、単に外向きのプロダクト戦略ではない。社内のあらゆる業務をAIで再設計し、社員自身がAIネイティブな働き方を体現する――この内向きの変革こそが、Bet AIの本丸である。
8-3. AIエージェント事業の正式参入 ── AI-BPOサービス
2025年4月、LayerXは新たに**「AIエージェント事業」**への参入を発表する。今春を目処に、**請求書受領代行などをAIエージェントが行う「AI-BPOサービス」**の提供を開始する、と。
これは画期的な発表だった。
従来のSaaSは、業務フローを自動化するツールを提供してきた。だが、ツールはあくまで人間が使うもの。AI-BPOサービスは違う。AIエージェントが、人間に代わって業務そのものを実行する。請求書受領代行であれば、AIエージェントが請求書を受け取り、内容を読み、仕訳し、振込を実行する。人間は最終確認だけ行う。
これはSaaSの「ツール」モデルから「業務代行」モデルへの進化である。料金体系も「シート課金」(ユーザー数 × 月額)から、「業務量課金」「成果課金」へと変わっていく可能性がある。LayerXがこの新しいビジネスモデルの先行者になれば、ARR成長は加速度的になる。
8-4. 業務の自動運転5段階モデル
松本勇気氏は、業務の自動化を自動運転に例えた5段階モデルで整理している。
レベル0:すべて手作業
レベル1:部分的にツールが補助(AI-OCRが請求書を読む等)
レベル2:複数の業務が部分的に自動化(仕訳まで自動)
レベル3:限られた条件下でシステムが自律的に業務を遂行
レベル4:特定業務領域において、人間の介入なしにAIが完全に自律遂行
レベル5:業務全体の「完全自動運転」化
松本氏は2025年9月のシリーズB会見で、こう述べた。「おおよそのアーキテクチャの議論など、具体レベルで全ての経済活動のデジタル化が見えてきた」。AIエージェントによる業務の完全自動化が、技術的に手の届く視野に入った――この言明には、トップ技術者としての確信がある。
8-5. バクラクのAIエージェント実装
実際にバクラクの中で動いているAIエージェントを列挙する:
学習型帳票入力エージェント:受け取った請求書を学習し、過去のパターンから入力を自動補助
仕訳エージェント:勘定科目、税区分、部門などを自動仕訳
経費精算エージェント:領収書の読み取り、規程との照合、承認経路への自動投入
入金消込エージェント:入金データと請求データを自動マッチング
そして今後追加予定として:
請求書回収エージェント(売上側の回収業務をAIが代行)
社内手続相談エージェント(社員の問い合わせにAIが応答)
督促エージェント(未払い債権の督促をAIが実行)
コスト削減エージェント(支出データを分析してコスト削減策を提案)
これらは、すでに実装済み・展開中のエージェントである。**バクラクは、もはや「AI機能のあるSaaS」ではなく、「複数のAIエージェントが業務を遂行するプラットフォーム」**へと進化している。
8-6. Ai Workforceの戦略 ── LLMをツールからプラットフォームへ
バクラクと並ぶもう一つのAI事業が、Ai Workforceである。
Ai Workforceは、社内に蓄積されたナレッジやノウハウをデータベース化する生成AIプラットフォームだ。事業を率いるのは執行役員Ai Workforce事業CEOの南哲夫氏、CPOの小林篤氏らである。
すでに三菱UFJ銀行、三井物産クレジットコンサルティング等の大企業に導入されている。三菱UFJ銀行ではAi Workforceを使ってパワーポイント作成等の業務で年20万時間削減するというターゲットが報じられた。三井物産クレジットコンサルティングでは与信判断レポート作成等のホワイトカラー業務に活用されている。
小林氏が2025年8月の「Bet AI Day」で語ったテーマ「LLMをツールからプラットフォームへ」は、この事業の本質を示している。LLMを業務の中で「使う」だけではなく、企業が独自のデータと業務知識をLLMに統合し、社内固有のナレッジが流通するプラットフォームにする。これがAi Workforceが目指す世界だ。
8-7. AI-UXという設計思想
LayerXがAIエージェントを設計するときの哲学を、福島氏は**「AI-UX(AI中心体験設計)」**と呼んでいる。
従来のSaaSのUI/UXは、人間がボタンを押し、フォームに入力し、ワークフローを進める前提で設計されていた。AI時代のUXは違う。業務プロセスにAIが自然に溶け込み、人と協働する体験を設計する。
具体的には:
管理者の意図を汲むAIエージェントが、業務の「入口」となる
ユーザーが目的を述べると、AIが必要な業務フローを構成する
人間は意思決定と最終確認を担い、AIが実行を担う
データは複数プロダクトを横断して、AIエージェント同士が共有する
この発想は、米国のRipplingやNotion AIにも通じるが、**日本の業務文化(紙、ハンコ、複雑な承認経路)**に深く適合させる必要がある。LayerXはここで、日本企業の業務理解の深さを最大限に活かしている。
8-8. 三菱UFJ銀行との戦略的パートナーシップ
2024年、LayerXと三菱UFJ銀行は業務提携を結ぶ。2025年には戦略的パートナーシップに関する覚書を締結。多角的な協業が走っている。
主な協業項目:
バクラク for MUFG:MUFGの法人顧客向けにバクラクをカスタマイズ提供
MUFG社内DX支援:Ai Workforceを活用したMUFG内部のホワイトカラー業務効率化
バックオフィスSaaS×金融:MUFGの決済インフラとバクラクの法人カードの連携
シリーズB調達でも、三菱UFJ銀行と三菱UFJイノベーション・パートナーズが投資家として参加した。福島氏は「グループ化の予定はない」と明言しているが、メガバンクが戦略株主として入る意味は大きい。
これは、金融とSaaSの融合における日本最大級の事例になる可能性がある。米国でいえば、Stripeがメガバンクと組んだような構図に近い。
8-9. AgenticSec買収 ── AI時代のセキュリティ進出
2025年から2026年にかけて、LayerXはM&Aも積極化している。AgenticSecをグループに迎え、AI時代のセキュリティ領域に進出。今後もM&Aを強化する方針を明示している。
なぜセキュリティか。AIエージェントが業務の中枢に入り込む時代に、「AIエージェント自身のセキュリティ」をどう担保するかは、未解決の重大課題である。プロンプトインジェクション、エージェント間の権限管理、データ漏洩、悪意のある指示の検知――これらを統合的に解決するセキュリティ技術が、次世代エンタープライズSaaSの必須要素になる。
LayerXはここで先回りして陣地を確保した。AIエージェントを売る会社が、AIエージェントのセキュリティも持つ――この垂直統合が、長期的な競争優位を生む。
8-10. 「2年の猶予」と買収競争
福島氏は2025年7月、All Star SaaS Fund前田ヒロ氏との対談で、印象的な未来予測を語った。**「すべてのスタートアップには、もはや2年の猶予しか残されていない」**と。
その意味するところは、こうだ。
第一世代のSaaS企業がある程度の規模になると、そのディストリビューションやブランドを活用して、新興の成長企業を買収して、さらに成長していく。米国ではすでにこのフェーズに入っている。Salesforce、HubSpot、Workday等が、アグレッシブな買収戦略を取っている。
日本でも同じことが繰り返される――福島氏はそう確信している。だから、2030年までに、できれば「日本で最初に」ARR1,000億円に到達するSaaS企業になるという目標を設定した。
なぜ「最初」が重要なのか。買収力は、基本的に上位企業ほど高まる。LayerXがARR1,000億円に2030年到達できれば、その後の買収競争に参加できる。2035年到達では遅い。なぜなら、そのときにはトッププレイヤーがARR2,000億円規模になっており、買収競争にすら参加できなくなるからだ。
これは競争戦略における時間の差し迫り感を、極めて鮮やかに表現した発言である。
8-11. 福島自身がプロンプトを書く
2026年初頭の三菱UFJイノベーション・パートナーズ主催のセッションで、福島氏は重要なことを語った。**「経営者自身がプロンプトを書き、エージェントを組み、失敗と修正を繰り返す」**と。
CEOの時間配分として一見非効率に見える。だが、福島氏はこう続けた。「実際に現在のエージェント開発を体験した人であれば、これがすこぶる効率的な行動であることが理解できるはずだ」。
理由は二つある。
第一に、エージェント設計のセンス。AIエージェントをどう組むかは、業務理解と技術理解の両方が必要だ。CEOがこれを体験していなければ、組織にAIネイティブな意思決定文化は根付かない。
第二に、自身の思考プロセスをAIに移していく試み。福島氏は単にツールを試しているのではない。自分が日々下している意思決定のうち、どれをAIに委譲できるか、を実験している。これは長期的に、CEO自身の意思決定能力をAIに保存する試みであり、組織のスケーラビリティを根本から変える可能性がある。
8-12. 「ずっと考えられる」という唯一の優位性論
同じセッションで福島氏が語った、もう一つの印象的なフレーズが、**「AI時代は『ずっと考えられる』ことが唯一の優位性である」**である。
AIが知的生産の大半を引き受けるようになると、人間の差別化要素は減っていく。情報処理能力、知識量、計算能力――これらでは人間はAIに負ける。
では何が残るか。福島氏の答えは、「ずっと考えられる」こと。あるテーマについて、執念を持って、何年も、十数年も考え続けられること。考え続けながら、現場の変化に応じて自らをアップデートし続けられること。
これは、経営者の「執念」と「持続力」をAI時代の最後の優位性として位置づける思想である。福島氏自身がGunosyの創業から14年以上、「すべての経済活動をデジタル化する」というテーマを考え続けてきた。この持続が、LayerXの最大の資産だ。
8-13. 2030年ARR1000億円・うちAIエージェント500億円
シリーズB調達と同時に、福島氏は2030年の目標を明確に掲げた。
ARR 1,000億円
うちAIエージェント関連事業で500億円
これは、極めて攻めた数字だ。日本でARR1,000億円を達成しているSaaS企業はまだ片手で数えられる程度であり、それを2030年までに到達するというのは、年率で見れば極めてアグレッシブな成長を要求する。
しかも、500億円分はまだ正式リリース前のAIエージェント事業から作ると宣言している。ARR0からARR500億円を、4〜5年で作る計画である。
ここで福島氏の経営スタイルを思い出してほしい。「踏んだ結果PMFする」「半分外れてもいい打率でアクセルを踏む」――この経営者にとって、目標は「確実に達成すべき約束」ではなく、「アクセルを踏み続けるための地平線」だ。半分外れたとしても、500億円を狙う組織は500億円に到達する確率が高い。1000億円を狙う組織でなければ、500億にも到達できない。
そしていま、その地平線に向けて踏み出した瞬間が、累計282億円の調達である。
8-14. 2026年3月時点で約600名規模
LayerXは2026年3月時点で約600名規模にまで成長した(公開資料より)。シリーズB調達発表時点での500名目標を、前倒しで超過達成している。
組織規模の拡大は、単なる頭数ではない。先述の「2周目人材」が層として厚くなり、各事業領域に専門組織が立ち上がっている。バクラク事業部、Fintech事業部、Ai Workforce事業部、それぞれにCTO・CPO・CRO級の人材が配置されている。
加えて、新卒採用も本格化している。LayerXは2023年から新卒採用を立ち上げ、2026年時点では新卒もすでに事業を支えるエンジニア・ビジネスパーソンとして機能している。「2周目人材」と「新卒」の二層構造が、AI時代のスタートアップ組織の標準形になりつつある。
8-15. Bet AIは賭けであり、確信である
最後に、Bet AI戦略の本質を整理する。
Bet AIは、確実な未来への計算ではない。AI技術の進化速度、競合の動き、規制環境、マクロ経済――不確実な要素は山ほどある。
それでもLayerXは賭ける。なぜか。
第一に、「賭けない」ことが、最大のリスクだから。AIネイティブの組織変革に取り組まないSaaS企業は、2030年には市場から消えている可能性が高い。賭けないことが、最も確実な敗北である。
第二に、確信があるから。福島氏も松本氏も、技術者としてAIの未来を理解している。だからBetできる。これは「希望的観測」ではなく「技術的確信」に基づく賭けだ。
第三に、LayerXの組織構造そのものが、Bet AIに最適化されているから。コンパウンド戦略、複数プロダクト、データ統合、Layeroneプロジェクト、AIエージェント事業――すべての要素が、AI時代に勝つために設計されている。これは偶然ではなく、5年以上前からの伏線回収である。
LayerXのBet AIは、ギャンブルではなく、戦略的確信に基づく全力投資である。
私はこの賭けに、心から拍手を送る。
第九章 ── なぜ私はLayerXを信じるのか
最後に、私的な総括を残したい。
LayerXを信じる理由は、経営者・組織・市場の三位一体に整合性が取れているからである。
経営者の整合性:福島良典氏という「方向を引く人」と、松本勇気氏という「精度を上げる人」の組み合わせ。Gunosy上場という成功体験を「罠」と呼べる謙虚さ。「99%にノーを突きつけられても折れない」しぶとさ。「踏んだ結果PMFする」というアクセルの踏み方。これらが偶然ではなく、本人たちの一貫した思想として10年単位で続いていること。
組織の整合性:「2周目人材」が集まる磁場。メルカリのCTOだった名村氏、メルカリの上場プロジェクト責任者だった横田氏、メルカリで人事を立ち上げた石黒氏、サイバーエージェントでABEMAを立ち上げた横田氏、DMMで3000人組織を見た松本氏、Gunosyで上場を経験した福島氏と榎本氏――その全員が「LayerXでもう一度やる」という選択をしている事実。
市場の整合性:日本の労働生産性は先進国最低水準。バックオフィスのデジタル化は、向こう10〜20年で確実に進む。AIエージェントは業務の主語になる。金融のデジタル化は、必ず実物資産の証券化へ広がる。この「絶対に来る波」のすべてに、LayerXは事業として陣地を張っている。
そして、最も重要なのは、この三層が"いま"同時に整っていることである。
経営者だけが優れていてもダメ。組織だけが強くてもダメ。市場だけが大きくてもダメ。三層が同期するタイミングは、企業の歴史において稀にしか訪れない。LayerXはいま、その稀なタイミングを生きている。
エピローグ ── 日本のソフトウェア20年遅れを、巻き戻す者たちへ
「日本はソフトウェアと全く向き合えてない」――松本勇気氏が過去のインタビューで語った言葉である。
その通りだろう。私たちは、20年遅れを取った。アメリカではSalesforceがエンタープライズソフトウェアの覇権を握っている間、日本では紙とハンコが残った。SAPやWorkdayが世界の人事を統合する間、日本の経理部は紙の請求書を仕分けていた。
しかし、20年遅れているということは、20年分の伸びしろがあるということでもある。LayerXは、その20年を一気に巻き戻そうとしている。
巻き戻すには、技術だけでは足りない。組織だけでも足りない。資金だけでも足りない。ビジョン・技術・組織・資金・パートナーシップの全てが揃った瞬間にだけ、産業の不可逆な変化は起きる。LayerXはその全てを整え終えた。あとは、走るだけだ。
冒頭の批判――「282億円調達して55億円の売上はぱっとしない」――は、いまの瞬間を切り取れば事実だ。だが、いまから3年後、5年後、10年後、私たちは違う景色を見ているはずだ。
私はLayerXを、絶対的に、信じている。
そしてこれは、ひとつの会社を応援する話ではない。この会社の成功は、日本のソフトウェア産業の20年遅れが終わることと同義である。だからこそ、彼らには勝ってほしい。彼らの全力疾走に、ベンチャー界隈の片隅から拍手を送り続けたい。
福島良典氏、松本勇気氏、榎本悠介氏、中村龍矢氏、中川佳希氏、名村卓氏、石黒卓弥氏、横田淳氏、手嶋浩己氏、そしてLayerXの300名を超える全社員、卒業した社員、株主、パートナー企業、そして15,000社の顧客の皆さま――
あなた方の挑戦に、深い敬意を込めて。
すべての経済活動が、本当にデジタル化される日まで。
補遺 ── 信じる者の責任
ここまで、第三・四・七・八章の深掘りを通じて、LayerXがなぜ信じるに値する企業であるかを論じてきた。
最後に、信じる者の責任について短く書いておきたい。
「信じる」とは、目を逸らすことではない。むしろ、最も厳しい批判を直視する勇気を持つことだ。本稿では、冒頭の批判(282億円・55億円・37億赤字)に対して、財務・SaaS指標・グローバル比較・コンパウンド戦略の理論的基盤の四層から応答した。応答できる範囲では応答し、残るリスクは正直に列挙した。
「信じる」とは、美化することではない。福島氏のMBOには資本戦略上の老練な側面があり、完全に綺麗な物語ではない。それでも、その老練さが、後のLayerXの急成長を可能にしたという事実を直視する。
「信じる」とは、未来に責任を持つことだ。LayerXがARR1,000億円に到達できなければ、私の本稿は時代遅れの記録になる。だが、それでもいい。信じることのコストを引き受ける覚悟がない者には、未来に賭ける起業家を語る資格がない。
LayerXの福島良典氏、松本勇気氏、榎本悠介氏、中村龍矢氏、中川佳希氏、名村卓氏、石黒卓弥氏、横田淳氏、手嶋浩己氏、南哲夫氏、小林篤氏、星北斗氏、米田昌平氏、その他の経営陣・社員・卒業した社員・株主・パートナー企業・15,000社の顧客――
あなた方の挑戦は、日本のソフトウェア産業の20年遅れを巻き戻す挑戦である。
私はこの挑戦の勝利を、絶対的に、信じている。
付録 ── 主要事実の年表(2018〜2026)
2018年8月1日:株式会社LayerX設立、福島良典CEO就任。当初Gunosy/AnyPayのジョイントベンチャー
2019年7月:MBOにより独立(評価額3億円)。約200日後の調達で評価額120億円に
2019年9月:CBC Casper研究によりEthereum Foundation Grant獲得(日本初)。Zerochain研究はWeb3 Foundation Grants Wave2選出
2020年5月:30億円調達(コロナ禍)
2020年:三井物産デジタル・アセットマネジメント(MDM)合弁設立
2021年3月:松本勇気CTO就任、共同代表体制へ
2021年:「LayerX インボイス」本格展開
2023年4月:横田淳氏入社、コーポレート本部長就任
2024年:バクラク勤怠管理サービスをリリース、人事領域へ進出
2024年:Ai Workforceを三菱UFJ銀行、三井物産等に展開
2024年1月:榎本悠介氏がCPOへ、中川佳希氏がバクラク事業部CTOに就任
2025年:三菱UFJ銀行と戦略的パートナーシップ覚書締結、「バクラク for MUFG」提供
2025年4月:行動指針「Bet AI」へアップデート
2025年6月26日:第7期決算公告(令和7年3月31日現在、売上高55.95億円、当期純損失37.35億円)
2025年9月2日:シリーズB 150億円調達発表(リードはTCV、日本初投資)。累計282億円。2030年ARR1000億円宣言
2025〜2026年:AgenticSec買収、AI時代のセキュリティ領域進出
本稿は公開情報・本人インタビュー・公式発表をもとに、ひとりの観察者がLayerXに対する深い信頼を表明する形で執筆した長文エッセイである。記載した経歴、調達金額、ARR、その他の事実は2026年4月時点で確認できた公開情報を用いている。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!