AI(完璧)を目指さなくていいと決めたら、凸凹な自分も愛せるかも
こんばんは。お米を炊いたのであとは、娘が作ってくれるであろうサラダと、ばぁばが買ってくれた焼きさんまで夕飯だから、飲んじゃえーっと、缶ビールを開けてるしーなです。
わたしね。もともとは意外と”理想が高い”というか、”完璧主義”なんです。(え、知ってました?きゃっ)のびのび自由に!と思いながらも「上手な絵を描きたい」と思ったり、「綺麗な字を書きたい」「音程外さず歌いたい」「スッキリとした部屋に住みたい」「みんなに共感してもらえるnoteを書きたい」
やるからには・・と理想を高く高くもって、それでコツコツとそれに向かっていける人もいますよ。それはそれですごいなぁと尊敬します。スモールステップ、そうどんなに言い聞かせても私はすぐ結果を求めて「できない自分」にダメ出ししまくる奴が、いるんです。
めっちゃせっかち!自分!
その考え、成長するには必要なんじゃない?理想は高くていいんじゃない?と言ってもらえるんですけど、たしかにそういうのが仕事に活きてたりすることもあるんですけど、生きづらいんですね。この思考は疲れやすい。
だって、理想が高すぎて、「あぁ、自分はダメだ。」って思ってばかりいるんですよ。疲れますよね。
「変に理想が高すぎてすぐ、自分はダメだできない」と諦めてしまう癖をなんとかできないかなぁ・・というのが、ここ数年の「わたしの癖、改善したい候補ナンバー1」です。
だけども、最近よく”AIとやってみた”ネタが上がりますよね。私も試して楽しんだりしていますが、そこでよく聞く言葉が「綺麗すぎる」「まとまりすぎてる」
あれ?っと思ったんです。私は今まで、「正確さ」を理想としてました。
自由さはあっても「正確」でない自分に✗をつけてました。だけども、私の理想を追い求めたら・・究極は「AI」と同じになってしまうのではないかと。もちろん、そのくらい「正確」なものを人間が作るという素晴らしさはやっぱりあって、それはそれで探求している人はいます。
だけども、私が心打たれるのは、子供が描いたうまく描けない丸だったり、一生懸命歌ってるけど、どこか不安定な音だったり。なんだかんだ歪なもの。
だとしたら、自分の凸凹な部分は、ダメなところではなくて魅力なんでは?
そんな風に自分のことを認めたらいいのでは?
今までどんなに「もっと自由に、完璧を目指さなくていいじゃない」と思っても動かなかった心が、「AIと同じでいいの?」にはNOといいました。
まずは、好きになれない自分の字から愛そうかな。
もっと書いてみようかな。
ただ、完璧とは別に「こうなりたい」という目標や理想はあってもいいですよね。
”理想と完璧を目指す”をイコールにしない生き方、どうしたらいいか模索中です。
