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【全3回】税制迷路の攻略者――タルタロスからの声③

【第3回】タルタロスからの声――誰も完全には納得しない制度を作る

第1回 税制迷路の攻略者――制度を読める人たち
第2回 取り残される納得感――少しだけ裕福な人たちの不満
第3回 タルタロスからの声――誰も完全には納得しない制度を作る

この記事は第3回です。


税制迷路のさらに奥へ

ここまで、税制という迷路について考えてきた。

第1回では、制度を攻略できる人たちについて考えた。

日本の税制は、表向きには富裕層に厳しい。
累進課税があり、相続税があり、贈与税があり、国外逃避を防ぐ制度もある。

けれど、制度は非常に複雑である。
そして複雑な制度は、制度を読める人、専門家にアクセスできる人に有利になる。

税理士。
弁護士。
信託銀行。
不動産会社。
資産管理会社。

こうした専門家とつながり、所得や資産の形を設計できる人は、制度の中で合法的に最適化できる。

第2回では、制度に捕捉される人たちについて考えた。

貧困層ではない。
けれど、超富裕層でもない。
支援される側からは外れやすい。
しかし、制度を攻略する側にも回れない。

少しだけ裕福な人たち。
給与所得として捕捉されやすい人たち。
支援から外れ、負担する側に回りやすい人たち。
けれど、本物の富裕層ほどの節税手段は持たない人たち。

そこには、不満が溜まる。

上への不信。
下への怒り。
自分の勉強不足だったのではないかという自責。
制度を攻略する側の、終わりなき数字のゲーム。
もっと増やす。
もっと守る。
もっと最適化する。
その熱気と狂乱、そして虚無感。

そうしたものが、どこかに沈んでいく。

そのどこかを、私はこの連載でタルタロスと呼んできた。

ギリシャ神話における、冥界のさらに深い底。
神々が恐るべき力を封じ込める場所。
地上の秩序から遠ざけられたものが、沈められる場所。

では、タルタロスに沈められた声は、ただ封じ込めておけばよいのだろうか。

私は、そうではないと思う。


万人が納得する制度は存在するのか

税制に限らず、制度は必ず誰かに負担を求める。

税制。
社会保障。
医療。
教育。
介護。
防衛。
治安。
住宅政策。
子育て支援。
障害者支援。
高齢者支援。

どの制度にも、必ず配分の問題がある。

誰から取るのか。
誰に渡すのか。
どこまで助けるのか。
どこから自己責任とするのか。
どの程度まで努力を求めるのか。
どの程度まで事情を考慮するのか。

こうした問いに、全員が100%納得する答えを出すことは、おそらくできない。

ある人にとっては、税負担が重すぎる。
別の人にとっては、支援が少なすぎる。
ある人にとっては、富裕層への課税が甘すぎる。
別の人にとっては、努力した人への罰に見える。
ある人にとっては、福祉が不十分に見える。
別の人にとっては、働く意欲を削ぐ制度に見える。

人間の立場は違う。
所得も違う。
家族構成も違う。
健康状態も違う。
住んでいる地域も違う。
年齢も違う。
生まれた家庭も違う。
努力できる余力も違う。
偶然の運不運も違う。

だから、誰もが完全に納得する制度は作れない。

ここを認めることから始めた方がよいのだと思う。

制度は、完全な正義の完成品ではない。
不完全な人間たちが、何とか一緒に暮らすための仮設の橋である。

橋である以上、誰かにとっては揺れる。
誰かにとっては遠回りになる。
誰かにとっては狭すぎる。
誰かにとっては、そもそも橋の入口までたどり着けない。

その不完全さを消し切ることはできない。


全員が賛成しすぎる制度の危うさ

逆に、全員が賛成しすぎる制度にも危うさがある。

もちろん、多くの人に支持される制度は大切である。
民主主義の中で、制度は一定の合意を必要とする。
誰も納得していない制度は長く続かない。

けれど、全員があまりにも同じ顔で、同じ言葉で、同じように「素晴らしい」と言い始めた時には、少し立ち止まった方がよい。

本当に全員が納得しているのか。
それとも、異論を言いにくくなっているだけなのか。

支援される側が、「これで十分です」と言わされていないか。
負担する側が、「不満を言うなんて冷たい」と黙らされていないか。
少数派が、「全体のために我慢しろ」と押し込められていないか。
現場の違和感が、「制度上は正しい」で片づけられていないか。

制度への不満が完全に消えたように見える時、実際には声が地下へ沈んでいるだけかもしれない。

タルタロスに、である。

だから、良い制度とは、不満をゼロにする制度ではないのだと思う。

良い制度とは、不満や異論を、地上で扱える形にしておく制度である。

声を上げられる。
修正できる。
例外を検討できる。
少数派の事情を聞ける。
制度の外へ追い出された人を、もう一度見つけに行ける。

完全な賛成ではなく、修正可能な不満を残すこと。

それは、制度を壊す弱さではなく、制度を長く保たせる強さなのだと思う。


完全な平等ではなく、壊れにくい公平

制度が目指すべきものは、完全な平等ではないのかもしれない。

全員に同じものを配れば公平なのか。
全員に同じ負担を求めれば公平なのか。
全員を同じルールで扱えば公平なのか。

おそらく、それだけでは足りない。

人間は、同じ場所から始まっていない。

生まれた家庭。
親の収入。
教育環境。
健康状態。
障害の有無。
地域。
性格。
認知特性。
家族の介護。
運。
時代。

スタートラインは違う。

だから、全員を同じように扱うだけでは、最初から不利な人が不利なままになる。

しかし、違いに配慮しすぎると、別の不満が生まれる。

努力した人はどうなるのか。
リスクを取った人はどうなるのか。
責任を引き受けた人はどうなるのか。
倹約し、貯蓄し、家族を支えてきた人はどうなるのか。
頑張って所得を上げた結果、支援から外れる人はどうなるのか。

努力が報われない制度は、社会の活力を削ぐ。

だから必要なのは、完全な平等ではなく、壊れにくい公平なのだと思う。

がんばった人が報われる。
けれど、がんばれない時期の人が完全には見捨てられない。
スタートラインが低かった人にも、上がる道が残る。
のし上がった人が、過度に悪者にされない。
零れ落ちた人が、人生終了扱いされない。
多数派だけでなく、少数派も息ができる。
支える側も、支えられる側も、自分の位置を見失わない。

それは、美しい完成形ではない。

むしろ、常に修理が必要な橋である。
亀裂が入り、歪み、誰かがつまずき、誰かが渡れなくなる。
そのたびに、直す。

制度とは、完成された神殿ではなく、補修され続ける橋なのかもしれない。


税制は、親切さの積み重ねで迷路になる

税制の複雑さも、本来は人の事情を拾おうとするところから始まっている。

扶養している家族がいる人には配慮しよう。
配偶者の所得が一定以下なら控除しよう。
障害がある人には控除を設けよう。
ひとり親には支援しよう。
住宅ローンを抱える人には負担を軽くしよう。
生命保険や地震保険に加入している人には控除を認めよう。
老後資金を準備する人には優遇しよう。
教育費や住宅取得のための贈与には特例を作ろう。
中小企業の事業承継には配慮しよう。

一つひとつは、かなり理解できる。

人間の事情は一律ではない。
だから、個別の事情に応じて配慮しようとする。

しかし、その配慮が積み重なると、制度は複雑になる。

控除が増える。
所得制限が増える。
特例が増える。
申告書が増える。
判定が増える。
例外が増える。
年ごとの改正が増える。

やがて、制度は親切であると同時に、迷路になる。

年末調整の書類を見れば、その一端が分かる。

基礎控除。
配偶者控除。
配偶者特別控除。
扶養控除。
所得金額調整控除。
保険料控除。
住宅ローン控除。
ひとり親控除。
障害者控除。

どれも意味のある制度である。
しかし、利用する側から見ると、自分がどの欄に何を書けばよいのか、どの所得判定に該当するのか、どの支援に影響するのか、分かりにくい。

給与担当者も大変である。
本人も大変である。
制度を作る側も、説明する側も大変である。

そして、分かりにくい制度ほど、知っている人が得をする。

これは皮肉である。

人の事情を拾うための制度が、分かる人だけが使える制度へ近づいてしまう。


簡素化は、弱者切り捨てではない

では、制度を簡素化すればよいのか。

ここで注意したいのは、簡素化は弱者切り捨てと同じではない、ということだ。

「複雑だから減らす」
「面倒だからなくす」
「申請が大変だから支援も減らす」

そういう方向へ行けば、困っている人ほど制度からこぼれ落ちる。

それでは本末転倒である。

必要なのは、人への配慮を捨てることではない。

むしろ、人への配慮を本当に届かせるために、制度の迷路を整理することである。

似たような控除を統合する。
所得制限の急な崖を減らす。
少し所得が増えた瞬間に支援が大きく消える構造を緩やかにする。
本人が書類を読み解かないと使えない制度を減らす。
行政や既存データで分かるものは、なるべく自動化する。
本当に個別の事情を見なければならない領域だけ、丁寧に人が関わる。

そういう方向が必要なのだと思う。

制度は、細かければ細かいほど優しいわけではない。
逆に、単純であればあるほど冷たいわけでもない。

大切なのは、どこを簡素にし、どこを丁寧に残すかである。

多くの人に共通する部分は、できるだけ分かりやすくする。
本当に個別性が高い部分は、丁寧に扱う。
制度を使うための負担そのものを、できるだけ小さくする。

これもまた、壊れにくい公平の一部である。


タルタロスの声は、無視するものではない

ここで、タルタロスの話に戻りたい。

ギリシャ神話では、ゼウスは父クロノスを倒し、新しい神々の秩序を作る。
その戦いの中で、タルタロスに封じ込められていた力が重要になる。

地下深くに閉じ込められていたもの。
地上の秩序から排除されていたもの。
恐れられ、封印されていたもの。

ゼウスは、その力をただ無視したわけではない。
封じ込められた力を借りることで、古い秩序を打倒し、新しい秩序を作っていく。

もちろん、現代の制度論を神話にそのまま重ねることはできない。
けれど、この比喩には大切なものがあると思う。

タルタロスの声は、ただ危険なものとして封じ込めればよいわけではない。

不満。
怒り。
自責。
虚無感。
取り残された納得感。
制度を攻略する側の狂乱。
支援される側への疑い。
支える側の疲労。
声にならない声。

これらを全部、見なかったことにして、地下へ押し込める。
それで地上の秩序が保たれているように見えることはある。

しかし、封じ込めたものは消えない。

どこかで歪みになる。
どこかで怒りになる。
どこかで冷笑になる。
どこかで自己責任論になる。
どこかで福祉への敵意になる。
どこかで富裕層への憎悪になる。
どこかで政治不信になる。
どこかで、もう何をしても無駄だという諦めになる。

だから、タルタロスの声は無視するものではない。

むしろ、借りるべき力なのだと思う。

それは、制度を壊すための力ではない。
制度を作り直すための力である。


地下の声を、制度の修理に使う

では、タルタロスの声を借りるとは、どういうことなのか。

それは、不満をそのまま政策にすることではない。

「税金が高い」という声があるから、すべての税を下げればよいわけではない。
「支援が不公平だ」という声があるから、すべての支援を削ればよいわけではない。
「富裕層が逃げている」という声があるから、富裕層を罰すればよいわけでもない。
「低所得層だけ得をしている」という声があるから、困っている人を攻撃すればよいわけでもない。

声は、そのまま結論ではない。

けれど、声は症状である。

どこに痛みがあるのか。
どこで制度が分かりにくいのか。
どこで支える側が疲れているのか。
どこで支えられる側が疑われているのか。
どこで努力が報われていないと感じられているのか。
どこで助けを求める人が制度にたどり着けないのか。
どこで攻略者だけがさらに攻略しているのか。

その症状を見つけるために、地下の声を聞く。

そして、制度を修理する。

控除の階段を減らす。
所得制限の崖を緩やかにする。
支援の対象外になった人にも説明可能性を持たせる。
申告や申請の負担を下げる。
制度を知っている人だけが得をする構造を減らす。
専門家にアクセスできない人でも、最低限の制度利用ができるようにする。
富裕層の過度な抜け道を塞ぎつつ、事業や雇用を壊さないようにする。
低所得層への支援を守りつつ、負担する側の納得感も軽視しない。

こうした修理は、派手ではない。

革命ではない。
完全な正義でもない。
神話のような一撃ではない。

けれど、制度とは本来、そのような地味な修理の積み重ねなのだと思う。


誰も完全には納得しない制度を、それでも作る

制度作りに必要なのは、誰もが完全に納得する答えではない。

むしろ、誰も完全には納得しないことを前提にした方がよい。

富裕層には富裕層の不満がある。
給与所得者には給与所得者の不満がある。
低所得層には低所得層の困難がある。
障害のある人には障害のある人の事情がある。
子育て世帯には子育て世帯の負担がある。
独身者には独身者の孤立や負担感がある。
高齢者には高齢者の不安がある。
若者には若者の将来不安がある。

どの立場にも、それぞれの痛みがある。

だから、制度は誰か一つの立場からだけ作ることはできない。

努力した人だけを見れば、弱い人がこぼれる。
弱い人だけを見れば、努力した人の納得感が壊れる。
多数派だけを見れば、少数派が沈む。
少数派だけを見れば、多数派の支えが失われる。
富裕層だけを見れば、再分配が壊れる。
貧困層だけを見れば、負担する側の納得感が失われる。

だから、制度は常に綱渡りである。

誰かを完全に満足させるのではなく、誰かを完全に沈めない。
誰かを完全な悪者にしない。
誰かの痛みだけを、社会の外へ追い出さない。

そのために、不満を聞く。
しかし、不満に飲み込まれない。
怒りを見る。
しかし、怒りを政策のすべてにはしない。
弱さを守る。
しかし、努力を罰しすぎない。
成功を認める。
しかし、成功が迷路の攻略だけにならないようにする。

この中途半端さこそ、制度の現実なのだと思う。

そして、その中途半端さを引き受けることが、民主主義の一部なのかもしれない。


新しい秩序は、封じ込めた声から作られる

古い秩序は、しばしば声を封じ込める。

不満を言うな。
努力が足りない。
自己責任だ。
支援されているだけありがたいと思え。
税を払えるだけ恵まれている。
富裕層を叩くな。
低所得層を甘やかすな。
多数派に合わせろ。
少数派は黙っていろ。

こうした言葉は、地上の秩序を保つために便利である。

しかし、それによって封じ込められた声は、タルタロスに沈む。

沈んだ声は、消えない。

そして本当は、新しい秩序を作る時、その声こそが必要になる。

なぜなら、封じ込められた声は、制度の弱点を知っているからである。

どこが痛いのか。
どこが分かりにくいのか。
どこが不公平に見えるのか。
どこで人が自分を責めているのか。
どこで人が他者を憎み始めているのか。
どこで数字のゲームが虚無に変わっているのか。
どこで納得感が取り残されているのか。

タルタロスの声は、社会を壊すだけの叫びではない。

それは、社会を作り直すための診断でもある。

ゼウスがタルタロスに封じられた力を借りて、父クロノスを打倒し、新しい世界の秩序を作ったように。
私たちもまた、制度の底に沈めた声を、ただ恐れるだけではなく、借りる必要があるのだと思う。

古い秩序を壊すためだけではない。

新しい秩序を、もう少し壊れにくくするために。


第3回のまとめ

税制は、公平を目指すほど複雑になる。
しかし複雑になった制度は、制度を読める人、専門家にアクセスできる人に有利になる。

その一方で、制度を攻略できない人たちは、迷路の中で疲れていく。

少しだけ裕福な人。
給与所得として捕捉される人。
支援から外れる人。
けれど、超富裕層ほどの逃げ道は持たない人。

そこには、不満が溜まる。

そして、その不満は時に上へ向かう。
富裕層への不信になる。

時に下へ向かう。
低所得層や支援対象者への攻撃になる。

時に内側へ向かう。
「自分が知らなかったから悪い」
「自分の勉強不足だった」
という自責になる。

そして、攻略者の側にもまた、終わりのない数字のゲームがある。
もっと増やす。
もっと守る。
もっと最適化する。
その熱気や狂乱、そして虚無感も、どこかへ沈んでいく。

そのどこかを、私はタルタロスと呼んだ。

しかし、タルタロスの声は、ただ封じ込めておくものではない。

無視するものでもない。
忌み嫌うものでもない。
地上に出てきてはいけないものとして、押し込め続ければよいものでもない。

タルタロスの声は、借りるべき力である。

制度の痛点を教えてくれる力。
納得感がどこで壊れているかを示す力。
人がどこで自分を責め、どこで他者を憎み、どこで虚無に沈んでいるかを知らせる力。

税制や社会保障は、完全な満足を作ることはできない。
万人が100%納得する制度は、おそらく存在しない。

それでも、もう少し壊れにくい制度を目指すことはできる。

がんばった人が報われる。
がんばれない時期の人が完全には見捨てられない。
スタートラインが違う人にも、上がる道が残る。
のし上がった人が、過度に悪者にされない。
零れ落ちた人が、人生終了扱いされない。
メジャーな層だけでなく、マイナーな層も息ができる。
支える側も、支えられる側も、自分の位置を見失わない。

そのような制度は、完成された理想郷ではない。
むしろ、常に修理され続ける橋である。

税制迷路の出口は、どこかに完全な正解として用意されているわけではないのかもしれない。

ただ、迷路の底から声がする。

その声を無視せず、恐れすぎず、都合よく利用しすぎず、制度を作り直すための力として借りること。

そこからしか、新しい秩序は始まらないのだと思う。


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