【くまをまつ】ふたり

映画【くまをまつ】、観てきました。

脚本家のややこと8歳の少年タカシが体験する
"土地の記憶と創作”が入り混じる不思議なひと夏


脚本家のややこは、昨年死んだ祖父・隆二郎の古民家に滞在し、祖父の遺した日記を題材に新作を執筆している。
そんなさなか、姉の仕事の都合で、夏の間だけ甥(おい)の少年タカシを預かることになる。
これまで交流のなかった2人だが、ややこはタカシを昔の自分と重ね合わせて執筆中の脚本に取り入れようとする。
そんな思惑も知らず、タカシは夜中に見た“黒い影”や謎めいた青年、ややこの元恋人との出会いを経験しながら夏を過ごす。
やがて夏の終わりに、タカシは深い石切場の奥で隆二郎の古い記憶に触れる。
そしてややこは、創作を通して自らの“罪”と向き合うことになる。

映画『くまをまつ』

去年の東京国際映画祭での上映は予定が合わず見れなかったので、公開を楽しみに待っていました。
……はっ!
【くまをまつ】をまつ、してました。


以下感想、というか、見終わってから考えたこと。
作品を見ていることが前提になっているのであしからず。


ややこが「悪いと思ってない」と言い切る場面が作中で二度あった。
一度目はトモに対して、二度目は祖父の日記について。

“言い切る”というのは、“言うことで思いを断ち切る”ということでもある。
声に出して言うことでそれ以外の意図を切り捨てて、あたかも自分の意思がひとつであるかのように、他者に対しても自分に対しても宣言する。

ややこのなかには、悪いと思っていないという考えのほかにも、悪いと思いたくないという気持ちや、ひょっとしたら悪いかもしれないという疑念、悪いことをしてしまったかもしれないという罪悪感が、それぞれいくらか混じり合っているはずだ。

だからこそ、ややこは「悪いと思ってない」とあえて断じる。迷いを振り払うかのように。

(もし本当に“悪いと思ってない”という気持ちしかないのなら、そんなふうに言うことさえないだろう。はっきりと責められてもいないのに、先回りしてそう言うということは、ややこのなかに相手と同じ価値観の受容体があることを意味している。真に悪いと思っていないのなら、同じ場面で“なんの話をしているのだかわからない”という噛み合わなさが見られるはずだ)


ここから浮かび上がってくるのは、ややこのなかで、祖父と祖父の日記に登場する藤吉の関係に、自身とトモの関係が重ね合わせられている可能性だ。
奪う者と奪われた者。
何年経っても忘れられない、罪の意識。

ややことトモ、リュウと藤吉の関係が、ややこのなかでパラレルになっている。


これらの二者関係は、面白いことに別の視点ではまったく異なる相似性をもって捉えられている。

タカシの視点だ。

タカシが出会うリュウは、距離を保ち、謎めいた存在として印象を残している。
ちょうど、タカシにとってのややこが、リュウとまったく同じ気配を漂わせているだろうことにも気がつく。

そう考えると、終盤に描写された夜の場面は極めて印象的だ。
リュウと藤吉が夜の庭を走り回る。楽しげに。
柿を盗みに入った藤吉の行動はきっかけでしかなく、それが二者の立場を規定することはない。
一方が一方を追うだけでなく、互いに追いかけ回す。
二人は対等な関係だ。
ややこの脚本のなかで描かれた、張り詰めた、陰惨な、非対称な二人の様子とは、まったく対照的に。

(ややこの脚本のなかには、藤吉が人物としては登場しなかった。登場させられなかったのだろう。“奪われた者”として規定してしまった存在を、ややこはもはや描くことができなかったのだ)


「友達なのに?」

ややことトモの別離に際したタカシの言葉が思い出される。

ややことトモ、リュウと藤吉の関係が、タカシのなかでもまた、パラレルになっている。

けれど、タカシが目撃したややことトモ、リュウと藤吉は、けして奪う者と奪われる者という関係ではない。


ややこの視点とタカシの視点、どちらが正しいということもない。
あえて言えば、そのどちらをも内包しているのだろう。
まったく異なる気持ちを同時に持ちうるように、まったく異なる関係が同時に成り立ちうる、というより、ひとつに定めようがないのが現実なのだ。


くまをまつ。

くまは、大人からすれば危険で、おそろしい存在だ。
そのおそれには、現実的な危険だけでなく、彼らの住処を奪ってきたこと、そして今度は奪い返されるかもしれないという罪悪感もどこかにはあるのだろう。

ややこは、くまをまっている。

くまは、報復や審判を意味するかもしれない。自身の罪が明かされる。ややこはそれを知りたいのだ。
自分がなにを奪ってきたのかを知ることではじめて、自分がなにを求めているのかを知ることができるのだから。
ややこは祖父の罪をたどろうとした。祖父に自分を重ねることで、少し遠回りをしていた。

タカシもまた、くまをまっている。

畏怖がないわけではない。むしろ、畏怖があるからこそ魅力をも感じるのだ。
成長を秘めた子どもにとって、未知はいずれ踏破されるものであり、危険はいずれ統御されるものであり、畏怖はいずれ克服されるものである。

タカシと同じ期待は、ややこのなかにもまだ流れている。
子どもと大人は対称的な存在ではない。
大人とは、子どもの自分はそのままに、擦り切れることがないよう身のこなし方を、蓑を、幾重にもまとうようになった存在だ。

ややこは脚本を完成させないことにした。
くまをまつのを、やめたのだろうか。
そうではない。おそらく、トモも、祖父も、タカシも、ややこの一面を写し取る存在だった。ややこはこれまで自分の一部を、トモや祖父、あるいはタカシといった他者に投げかけることで“利用”してきたのだろう。

ややこはもう、自分を切り離す必要はない。
他者を媒介にしながらも、自分自身の在り方に触れられるようになったはずだ。
他者を利用せずとも、自分自身をありのままに創作に活かすことができるようになったはずだ。

くまをまちわびるだけではない。
ややこの創作は、きっとここからまた始まる。

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