#0033:本質を見抜く眼差し
弓道は「的に矢を当てる競技」ではない。
私にとっては、自分自身と向き合うための儀式だ。
本記事では、弓道を通じて教わったこと、
そして忘れられない先生のエピソードを投稿したい。
■弓道の師範の教え■
まっすぐと立つべきところに立ち、
然るべき所作を通じて矢を的へ射ると、
外にも内にも歪みがなければ、
狙わずとも、自ずと矢は的に中る。
大学生の頃に半年だけ所属していた、
弓道部の師範に初めてお会いした時、教わった言葉だ。
私は弓道初心者だった。
弓の引き方も、矢の番え方も、
矢を番える弦が消耗品であることも、
どういう原理で矢が飛んでいくのかも知らなかった。
そんな人間に、師範が語ったのがこの言葉だった。
■本質を見抜く眼差し■
狙わなくていいんだ。
初めのうちは、その感想しか浮かばなかった。
2か月程度の初心者向けの練習を経て、
初めて的に向かって矢を射た時だった。
立つべきところに立ち、
決められた通りの所作で矢を番え、弓を引き、
教えに従って狙いをつけることなく、的を射た。
私の最初の一矢は、
本来は隣に立っている人が射るはずの的に飛んで行った。
外側に歪みはなかったはずだった。
射形(弓を引く所作、矢を射る前後の所作など)は、
初心者にしてはキレイだと言われていたからだ。
はじめのうちはそんなもの、なのかもしれない。
しかし、外側からは問題ないように見えていても、
内側から無理やりに歪めて形だけを整えているとしたら?
その歪みは目に見えないものだが、
「矢が隣の的に中った」という事実が自分の目の前にある。
その光景は、
「いかに自分を内側から歪めているのか」
を表しているように感じた。
その日、師範は不在だった。
今思い返してみると、師範は初めてお会いした時点で、
私の本質を見抜いていたのかもしれない。
■弓道を半年でやめてしまった理由■
第三者からは何の問題もない人間に見えるようにしていた。
当時の私は、その行為に慣れてしまい、
自然体でそうするようになっていたことを完全に忘れていた。
このことを思い出すきっかけとなった弓道部を退部した理由は何か。
…お酒の飲み方がお行儀良くなかった、というだけである。無念。
弓引いてるときはみんなあんなにクールなのに、
お酒が入ると頭パッションになってしまうのはギャップが凄かった。
弓道は今でも好きだ。
社会人サークルなども探してみて、
実際に練習の場に参加させて頂いたこともある。
ただ、正式にサークルに所属することはなかった。
私が今も求めているのは、
「弓道」という形式ではなく、
「自分自身と向き合える瞬間」なのかもしれない。
■弓の代わりに手にしたもの■
私の趣味のひとつは、風景写真の撮影だ。
人物を撮影することはほぼない。
あるとしたら、背景の一部として参加をして頂いている程度だ。
相棒のカメラを構え、
せまいファインダーを覗き込む。
周辺の視界は遮られ、見えるのは前方だけだ。
「前だけをハッキリと見ることができる」この状態は、
「自分自身と向き合うことができる」瞬間でもある。
私は今、弓の代わりにカメラを手にしている。
やることは基本的に同じで、心構えも変わらない。
まっすぐと立つべきところに立つ。
然るべき所作を通じて、シャッターをゆっくりレリーズしていく。
外にも内にも歪みがなければ、
狙わずとも、自ずといい写真になる。
その結果として、
ごくたまに「作品」と呼んでも良いような写真が撮れる。
師範の教えは、形を変えて今も私の中に残り続けている。
■余談:和弓と洋弓の違い■
実は弓道(和弓)とアーチェリー(洋弓)では、
矢の番え方も、弓の引き方も、的までの距離も、
身体の使い方さえも大きく異なっている。
そして、目指すところ(目的)も別である。
どちらもひとりで進めるものではある。
自己研鑽を積むという点も共通点ではある。
「自己の探求という定性的な手法」なのか。
「会得した技術を定量化する手段」なのか。
私自身は、和弓と洋弓の違いはそこかな、と考えている。
岩波文庫の「日本の弓術」という書籍には、
これらの違いがドイツ出身の著者の目線で記されている。
文庫本サイズでとても薄い本なので、手に取りやすいと思う。
書店の店員には悪いとは思うが、
見かけたらページをめくってみても良いかもしれない。
…大丈夫。
ドイツ語ではなく、ちゃんと日本語に訳されている。
