【短編】どうせ、青くなるのに
ヤスブシン、という言葉を覚えるのに、二十六年かかった。安普請。ヤスフシンとか、ヤスフセイとか、そっくりさんが顔を出すから、今だってこわごわ、頭に浮かべている。
「ちょっと戸、押してみ」
玄関ドアを前にまごつく母に、叔母が後ろから、声を投げかける。
「微妙ーにね、二枚の間に隙間があるんよ」
銀色のアルミと、模様入りのガラスでできた二枚戸は、なかなか開錠させてくれない。私は、二枚の戸が重なるあたりをぐっと押した。かじかんだ手が、アルミで更に冷える。ガチリ、と金属の噛み合う音がした。思わず、ほっと息を吐いた。祖母宅が、ようやく私たちを受け入れた。
「やー寒いわぁ、底冷えてゆうやつやねぇ」
「昼は日が入るからまだいいけど、夜はこたえるねぇ。暖房入れよ、大して効かんけど」
近くのショッピングセンターの白い袋が立てるガサガサという音、そして叔母と母の存外いきいきとした声が飛び交う。薄手の黒ストッキングに包まれた自分のかかとが、暗い玄関先ではぼんやりと白く発光しているように見える。
「かなえ、お風呂沸かしといてぇ」
「……もうシャワーでいいやろ」
「一日あっちゃこっちゃ走り回ったっちゃから、しっかり湯船浸からんとぉ」
「かなえちゃんいっつもシャワーで済ましてるっちゃないの? いかんよ、狭くてもちゃんとお湯張って」
若い娘が体を冷やしちゃいけない、という常套句が飛び出す前に、風呂場に向かった。
祖母は一昨日亡くなった。肺炎を患う直前まで、きっちり「駄菓子屋のばあちゃん」をして、入院してから一週間後に、あっさりと亡くなった。家族親戚一同に少しずつ覚悟をする猶予をくれた。最後まで、周囲に気を回すひとだった。
浴室内をぐるりと見まわした。叔母夫婦が援助してリフォームしたらしい、家の外観や畳の色に見合わないピカピカの浴室は、至る所に手すりがついている。パイプ脚の風呂椅子の前にカウンター台があり、その隅に浴槽洗いの黄色い洗剤が置いてあった。左の壁には、柄の長い風呂洗いスポンジ。どちらも、水滴や汚れなど少しもない。
明日早々に片付けに着手できるようにと、私と母と叔母の三人で泊まり込むことになったが、それは余計な気遣いだった。この家だけが、祖母の帰宅を今も信じている。ごめんね、となぜか私が謝ったら、ちょっとだけ涙が零れた。
居間へ戻ると、最大風量にしたであろう暖房の風が顔を直撃した。
「めちゃあっためるやん」
「こんくらいせんと、あっためたそばから冷えていくんやって」
「土間やからねぇ」
三人で、土間に続く襖を見やる。隔てた向こうは、世界遺産みたいな駄菓子屋の景色が広がっているはずだ。ちょっと見ようかな、と思いながら炬燵に足を入れたら、右から湯飲みがすっと出てくる。一瞬で動く気をなくした。そのあとは女三人で風呂の順番をなすり合い、「入りたくないなら何で沸かさせたと。年功序列よ」と言うと、叔母は一瞬むっとしたが、「ほじゃったらいただきます」と言って、居間を後にした。
年功序列で入浴し、居間に戻ったら、もう二人は就寝していた。スマホを見ると母から「かなえは西の部屋で寝な」というメッセージが、おやすみ!と書かれたスヌーピーのスタンプを添えられて届いていた。
今度こそ、店に続く襖を開いた。冷気と暖気が顔の近くで混ざり合う。「冷気が入ってきた」ではなく、「暖かい空気が漏れてしまった」のに合わせて、土間のスリッパを履いた。
透明なプラスチックの瓶いっぱいのイカゲソとか、スーパーボールのくじ引きとか、ねじねじの細長いゼリーとか。そんな菓子類の間に、小さなテーブルと椅子が二脚、壁にぴったりとくっついて置かれている。壁には、色褪せてすっかり青くなったコカ・コーラのポスターが変わらず貼られていた。このテーブルで、私と樹は、駄菓子を食べたものだった。
樹は叔母の息子で、要は従兄弟だ。私と同じく、県外に出てもう十年経つ。昨日葬儀場で、五年ぶりに顔を合わせた。やや丸かった頬はシャープになり、顎や頬骨が少しだけ存在感を増していた。
樹とは小学校も中学校も高校も同じで、私たちはよく、学校帰りにこの店に来た。孫とは言えちゃんとお金は払っていた。定期テストの答案が全部返ってきたら、成績の悪い方が奢って貰える。成績の良かった方が「これで元気を出したまえ」なんて言っていた。一学期の期末テストの後には、かき氷を食べた。気前よく大盛りのブルーハワイを、祖母に取り皿を二枚貰って、分け合って食べた。
上がり框に座り、素足に履いたスリッパをぽてん、と土間に落とす。風呂上りの頬に、店の冷気が心地よい。今ならブルーハワイほしいかも、一口だけね。青いポスターを見ながら、そう思った。
襖を閉め、居間の電気を消し、スマホの明かりを頼りに一応玄関の戸締りを確認して、私の寝室こと「西の部屋」に向かった。しんとした部屋の中、母たちが敷いたのだろう客用布団に横たわる。掃き出し窓から月が……と思ったら、それは街灯で、苦笑する。煌々と、でも青白く光る街灯は、あの日樹の顔越しに見た太陽の真逆だ。
この部屋で、一度だけ私たちはキスした。何故ここだったのか。どうしてそうなったのか。前者は「流石に居間では出来ないから」、後者は、そうなったからそうした、としか言いようがない。私は顔面に、夏の終わりの西陽をモロに受けながら、このまま顔の左半分だけ日焼けするんじゃないか、と思うくらいの時間、そうしていた。顔を離した後、樹が「かき氷を食おう」と言った。そうだね、と言った途端、額から汗が吹き出すのが分かった。
崩れ落ちそうなブルーハワイを、ひと匙口に運んだ。冷たくて、スプーンは硬く、さっきまで口にしていたものとは真逆なのに、薄甘い。
「うまいな」
「うまいね」
多分二人とも、からからに乾いていたのだ。祖母が「お腹壊すが」と笑っていた。樹がゆるく笑って、大丈夫やって、と言う。私は、愛想笑いを樹に任せ、黙って氷の山を付き崩す。
近所の小学生軍団がわらわらと入ってきた時、私は取り皿に匙を置いた。からん、と大きな音がしたからか、樹も手を止めて、顔を上げた。
「どうした。もうギブアップ?」
「ううん……舌、見せて」
「は? 何で」
「青くなってるかなって」
「そんなん、見らんでも分かるやろう。どうせ」
何も言わず、ずっと樹の目を見ていたら、樹は観念したように、神妙な面持ちで舌の三分の一くらいを出した。すこし青く染まった舌は、思ったよりずっと薄かった。私もまた、表情を変えず舌を出した。向かい合って、互いの舌を見る。いや、見せ合う。確かに、青い。冷たさのせいでなく、舌先がじんじんとしている。
にらめっこに負けたみたいに、樹が顔を下げて、ふっと笑った。何してるんやろう俺ら、と言うその顔は、赤かった。赤くて、健全で、さっきまでの時間を「ただ子供っぽく青い舌を見せあった時間」にしようという意志が見える顔をしていた。にらめっこに負けたのは、私だった。
ほんとね、と言って、笑顔を作って、壁のコカ・コーラのポスターを見た。ポスターはあの頃から、既に色褪せていた。
どうせ、青くなるのに、と思った。
ポスターとか、街中の看板とか、日に晒されれば赤は褪せ、黄が褪せ、どうせ最後には青だけになる。だったら、最初から青一色でもかっこよく見えるデザインにすればいいのに。私だったら、端から赤も黄色も使わない。どうせ消えていく色を使ったりしないのに。
じっと見ていたら、樹が
「青いな、これも」
と言った。
「これも?」
「ポスターも、青い」
そう言って樹は再び、氷を食べ始めた。ポスターも舌も、何もかも青い。私たちはただ、それを確かめ合うことしかしなかった。
かき氷の季節が終わり、受験生受験生と呼ばれるようになり、何となく私たちは、学校以外では会わなくなった。
翌日の昼前に、樹がやってきた。母が、ほんと背伸びたわと嬉しがる。
「鴨居に頭ぶつけるんやないのぉ。宏さんは?」
「父ちゃんは、銀行と役所回りです」
「あぁそうよねぇ、晴れとって良かったわ」
安普請で、すべてがコンパクトに作られているこの家は、天井も低いから、ちょっと背が高いだけの樹がやたらと長身に見える。よぉ、と声を掛け合う私たちに、気まずさはない。あの夏の日はなかったことになっているし、その後もさして交流はないから、私たちは互いの常識を持ち寄って、正しい従兄弟同士の関係性を作り上げる。
「粗茶~」
と言って、樹の前に湯呑を置くと、
「ばあちゃんちの茶葉だろうが」
と樹が苦笑する。襖が開け放たれているから、湯飲みから湯気が薄く立ち上っているのがよく見える。
正しい。あの頃、ちょっととち狂ってて、でもちゃんと程々というものをわきまえていたところまで含めて、私たちは正しい。でも、その正しさについて、私は樹越しに土間のポスターを見ながら考えてしまっていた。樹が茶をすすり、私の視線の先を確かめるように振り返った。
「あのポスター、まだあるんだな」
「あんたたち、手空いてるなら森本さんとこでお昼ご飯買ってきて」
「早くせんと唐揚げ売り切れるよぉ」
樹の声は、母と叔母の大声にかき消された。ブルーハワイの薄甘さが、森本惣菜店のニンニクの効いた唐揚げに上書きされる。醤油は使っていない、きつね色の衣に、点々とブラックペッパーが紛れている。冷めて肉が締まっているほうが美味しい、森本の唐揚げ。
「やばい、私七~八年ぶり」
「俺とか高校以来だわ。取り置きの電話しとく?」
「ダメダメ、森本さんそういうの嫌がるから。ハイハイ、はよ行ってきて」
乗せられて、小走りに玄関に向かったら、樹が殊更に慌てる風にスニーカーを履く。後ろから見る、パーカーのフードから伸びる首は、細くて白い。この首を、後ろから見ることはなかった。
「早よ、置いてくぞ」
弁当なんて一人でも買えるのだから、置いていったっていいのに、私たちは茶番を辞めず、笑いながら二つ目の角あたりまで走って、力尽きて歩いた。
森本惣菜店を超人気店だと思っているのは、うちの親族だけだったらしい。大きな五つの、粉を吹いた唐揚げと、アイスクリームみたいな形のポテサラ、柴漬け、謎のパスタ、胡麻がふってあり真ん中に梅干しが載ったご飯。完璧な弁当を四つ買った。レジの中の森本さんはもうすっかりおじいさんで、奥の壁には、競走馬のポスター。そのポスターは
「やっぱり、青い」
「え?」
「はい、おつり三八〇円」
森本さんのぴかぴかした指先が、私の掌の上で開かれ、小銭がチャリン、と渡された。
店を出るなり、樹に
「やっぱり青い、って何」
と聞かれてしまった。大したことじゃない上に、説明するには字数を要するし、そこまでして伝えて「ふーん」なんて反応されたらやってられない。
「大したことじゃないよ、気にしないで」
「気にさせてよ」
何で、その言い回しなの。気になるよ、でいいじゃないか。そんな微妙な差を、気にさせないでよ。言葉にせずに、黙り込んだ。
「……ポスターだろ」
「え?」
「森本さんとこも、ポスター色褪せて青くなってんなって、思ったんだろ」
思わず、樹を見上げた。目を見て、私はうんともすんとも言わず、黙っている。うんともすんとも、なんて、叱られる場面以外で初めて脳内に登場したな、という雑念込みで、何で「そうそう、それ! すごいね以心伝心やん」とかさっさと言わないの、と考えていた。ようやく出てきた言葉は
「森本さんとこ、も、なんだ」
「も、だろ。ばあちゃんの店のポスターも、褪せて青かった。ずっと」
樹が少しだけ間を置いて、
「あの頃から」
と言った。
何か言わなきゃって、頭がぐるぐると回り続ける。下の方から香る唐揚げ、森本さんのピカピカの指先、いい色の粗茶、西の部屋で見た太陽、いろんなものがランダムに脳裏に浮かぶ。私はそれらを全部いったん脇によけて、再び前を向いて
「広告ポスターって、どうせ色褪せて青くなるんだから、最初から赤とか黄色使わなきゃいいのに、って、考えてた」
と言った。
「え、あぁ。確かにな。そう……」
樹はそう言って、黙る。正午を伝える、甲子園みたいなサイレンが鳴る。その余韻がまだ残っているけれど、樹は、すこし申し訳なさそうに口を開いた。
「広告のポスターって季節ものとかが多いし、長いこと、それこそ色褪せるまで貼ること想定してないんやないかな」
「あぁ……」
私は、色褪せた先の事を思っていたけど、広告代理店からしたら、色褪せる未来なんて、青くなったポスターなんて、想定の範疇に無いのかもしれない。それって、何だか、
「ごめん、寂しいこと言ったなぁ」
「寂しいって思う?」
「寂しいだろ。なんか……もう役目終わってるって言ったみたいで」
手を握っても、どうせ離すのに。唇を付けても、どうせ離すのに。どうせ高校生だから付き合ったって別れるし、従兄弟だからその後気まずすぎるって思ってた。でも、「その後」なんて存在しないみたいに、赤も黄色も思いっきり使って、あの時の私のしたいようにするのが、正解だったんだろうか。
言葉にならない悲しみに飲み込まれそうになっていたら、樹が「でも」と言った。
「コカ・コーラ社がどういうつもりであのポスターを作ってたとしても、ばあちゃんは、とっくに青くなったポスターを死ぬまで貼ってた」
私たちの傍らにあったポスターはあの頃から既に青くて、ブルーハワイはうす甘くて美味しくて、青くなった舌は、確かに意味を持っていた。
昨夜だって私は風呂上り、あのポスターを見て、火照った頬で、今なら一口だけ、と
「俺は、あのポスター見て、ブルーハワイ食いたいなと思ったよ」
どうせ、口の中に入れたら溶ける、ただの水になってしまうブルーハワイと、色褪せたポスターを懐かしむこの会話にどんな意味があるのかって、きっと私達にしか分からない。いや、こんな会話をして何の意味があるのかは、私たちにも分からない。
でも、樹の頬が少し赤い。いつかこの色も褪せていくかもしれないけれど、私は、弁当の袋を持った樹の手をそっと握った。5メートル先の角を曲がれば、祖母の家が見える。どうせすぐ離さなきゃいけないのに、樹は袋を反対の手に持ち替えて、私の手を握り返してきた。
いいなと思ったら応援しよう!
もっといい小説を書きます!