【掌編】あたらしい生活のつくりかた
生活の作り方というものを、俺は知らない。
そんな言い方をすると、まるで俺が天涯孤独の身でこの20年間生きてきたように思われるかもしれないけど、そうじゃない。都心から電車で一時間半ほどのベッドタウンに生まれ、両親が既に作り上げた生活の中ですくすくと育ち、ごくありふれた「彼女ではなく彼氏がいる若者」になった。
彼の住むマンションがなければ、俺は江戸川橋駅に降り立つことはなかった、かもしれない。いや、もしかしたらこの先、突如「ありふれた漫画家志望の若者」になって講談社に原稿の持ち込みに行くとか、「ありふれたバンドマン志望の若者」になってキングレコードにデモ音源を持って行くとかいう未来が、ある、かも。
未来はどうあれ、1年前の俺にはあまり縁のない駅だった。
だから、彼がこの駅で生活を作ることを選び、もう8年も住んでいることが不思議でならない。
東京にはいくらでも駅がある。いい古着屋がある高円寺や下北沢、飲み屋街がいい感じらしい吉祥寺、スカイツリーがある押上。そんな、「○○といえば」というセールスポイントのある駅を選ばなかったのは、何故なんだろう。
付き合ってしばらくは、そんな質問をぶつけるのは失礼かな、と思って聞けなかった。でももう、季節は一巡して春になり、それなりに地雷も踏み合った仲だ。いつものごとく駅前の町中華屋「らくらく」で回鍋肉と酢鶏をシェアしながら聞いた。
「あのさ、ユキさんなんで、江戸川橋で自分の生活を作ろう、って思ったわけ?」
「え、何、ミライくん江戸川橋キライ? この駅を愚弄されたら俺は出るとこ出るよ」
だいぶでかい地雷だったらしい。全然辛くない酢鶏を食べながら、俺は頭皮に汗を滲ませる。
「や、まだ何も言ってねぇよ。なんか、ここってさ、初見で魅力が伝わりづらいじゃん? 噛めば噛むほど的な? 俺は今や、めちゃくちゃ愛着あるけど、ユキさんは新卒で上京していきなり江戸川橋を選んだんだろ? その先見の明どっから来たのっていう」
「ミライくん婉曲表現すごく上達したね! 大人の男だなぁ」
さっきのは地雷じゃなく、地雷"風"だったらしい。いい加減にしろよ、と思うが、声には出さない。
「いい加減にしろよって顔に出てるよ。素直さは失ってないんだねぇ」
「うるせー」
笑いながら言われて、毒気を抜かれた。
「で、結局何でこの駅に決めたんだよ」
「うーん、まあミライくんの気持ちもわかる。ここって、何か用事がないと降りない駅だよね。例えば……」
原稿か音源の持ち込み、な。
「南こうせつの気持ちになりたい、とか」
「誰なんだよ」
「うわ、知らないかぁ。『窓の下には神田川』ってね。あの駅前の川が神田川。だから川のそばのマンションにしたんだけど、川側に窓がなくてさぁ。ま、それは良くて。ここ、ランドマーク的なものはないけど、近所にあったらうれしいものがなんでもある。例えば、駅直結のスーパー『コモディイイダ』はポイント3倍デーとか5倍デーが頻繁にあるじゃん」
「割とすぐ貯まるんだよな」
「関口フランスパンも、その工場もあるし。朝方の匂い最高でしょ」
そうだ。夜明けにトイレに行きたくなり、こっそりベッドを抜け出すとき、少し開けた窓から入ってくるパンの焼ける香りには、いつもハッとさせられる。
「何故かドラマの撮影多いし」
「確かに、この1年で2回遭遇したわ」
俺はミーハーな人間じゃない、つもりだったけど、2回とも2人で見に行って、アクションすごかったなとか、あの俳優さん案外背高いんだねとか話しながら帰った。まんまと、俺たちの思い出にされてしまった。
神田川近くの八百屋で売ってるぬか漬けが抜群に旨いとか、神楽坂に歩いて行くという距離的にも景観的にも最高の散歩コースがあるとか、地蔵通り商店街が賑やかだとか、俺もユキさんも、どんどん挙げていく。確かに、ここは住んでみたら魅力の宝庫みたいな町で……
「や、住まないと分かんないことばっかじゃん。俺はさ、ここに住むって決めた時のことを知りたいんだよ」
ユキさんは、あーごめんごめん、と言い、もりもりと酢鶏と白米を食べる。そして
「すごくベタだけど、内見したとき3月の終わりごろでさ、神田川沿いの……」
「あー」
ユキさんも初めてこの駅に降り立った時に、俺と同じ光景を見たのだろう。
俺が初めてこの駅に来た1年前の春の夜、俺はカチコチに緊張していた。だが、神田川にかかる橋――まさに江戸川橋を渡るとき、息を呑んだ。神田川沿いの桜並木が水面に映り、完璧なシンメトリーを描いていた。本物と鏡像、上下ふたつの桜並木は、非日常の美しさだった。ユキさんが「いいでしょう」と言った。俺も「いいなァ」と言った。緊張は、感激に上書きされた。
「1年のうち、ほんの2週間くらいだけどさ、あの光景が見られるのはいいなぁって思ったんだよね。朝も夜も通る道が綺麗だったらうれしいし、毎年『あぁまたこの季節になったな、1年間なんとかやってきたな』って思えるよ」
年に一度の美しいものを何度も堪能し、一度降り立っただけじゃ分からない小さな魅力を掘り起こしていく。そうやって、ユキさんとこの町の生活が作られていった。それは、俺にはまだまだ追いつけなくて、なんだか無性に、神田川が憎らしくなる。
「あとは、内見のあとへとへとにくたびれて入ったこのお店が、めちゃくちゃ美味しかった」
ユキさんはそう言いながら、回鍋肉の分厚い豚バラ肉を白米にバウンドさせ、旨そうに食べる。
謎の嫉妬に駆られている間に、回鍋肉の皿はほぼ空になっている。もう、遠慮しいしい少しずつ取り分けたりしない。
1年間彼の部屋に通って、非日常だったこの町も、俺の日常になっていった。そろそろ咲く今年の桜を、俺は彼と同じ目線で見るだろう。
この後も、俺たちは江戸川橋を渡る。先週はまだ、目を凝らすとつぼみが見えるくらいだった。ユキさんが開花状況をネタバレする前に、さっさと橋にたどり着きたいから、俺は急いで回鍋肉の最後の一口分を頬張った。
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