二月二十六日演説、折しも雪一つない晴れの日にて,
諸君、
表面上は新しくも取り繕われた、
新内閣が発足をして三週間を経過をした訳であるが。
内閣総理大臣は信頼に足る人物であろうか。
或は、現政権は諸君の意思を汲んで政策を実行しているであろうか。
問題は、
情緒に拠る政治、
情動に拠る政治が行われていると謂う一点に尽きるのではないであろうか。
其の轍の顛末がアウシュビッツの門に続き、
諸々の「純血」ではない民族の生命を剥奪した事も、
今や凡そは古びた記憶と為って仕舞った。
純粋な日本人のみに拠る統治、
純粋な国民による統治、
純粋な国家による統治、
此れ等は一見、
諸君の所与の国籍に与えれた価値であるが故に、
国民としての当然の権限を与えられた結果であるかの様に見えるが、
果してそうであろうか。
翻して申して仕舞えば、
諸君の所与の権利を保障するものは戸籍謄本のみである、とも言えよう。
自分は日本人であるから、
自分は国民であるから、
自分は国家の大多数の意思の延長線に居るのであるから。
その様な
選民意識は今直ぐにでも暗渠に沈めて仕舞うがよい。
大多数の選民意識が必ず向うのは、
内部粛清であり、
隣人告発であり、
監視社会である。
少しでも「日本人」から逸脱をした行動、言動、価値観を発見をすると、
彼等は音も無く訪れては、諸君の自由を剥奪するであろう。
万人の監視社会とは、
万人の自由意思から導出をされる、万人の帰結する處である。
尤も、之はわれわれの主義が長らく繰り返して来た問題でもあるが故に、
其の事実に異論を申し上げる心算は無い。
問題は、如何にして自らの軛を自らが掌握し、
その軛の主導権を権力に明渡さない覚悟があるか、と謂う一点である。
諸君は諸君の主導権を自ら手離したい、と考えた事は無いであろうか。
自らの絶対者であり、
自らの支配者であり続けられる程、人間は逞しくは創られては居ないのだ。
而して此処に陥穽がある。
他者支配の欲求を具有する、
僭主、独裁者は其処に必ず注目するであろう。
そして甘言を弄し、こう言うであろう。
「諸君は諸君の手綱を手離せ。
代りに自分が諸君の方向を決定して遣ろう。」と。
此の甘言に乗れば、後は篭絡されるのみであろう。
諸君は僭主の奴隷となり、
諸君は僭主の兵士となり、
諸君は僭主の生贄となる。
蟻地獄の擂鉢、監獄の誕生である。
問題は、彼等の甘言が、
諸君の自尊心、名誉欲、社会的意義を左右し、煽動し得る権限を略附帯している事である。
われわれは最早、
その遮断機能を喪失をして仕舞った。
政権は彼等の掌握する処と為り、
メディアも復、然様の通りである。
では、われわれが蜂起し得る行動とは何か。
それは、隣人が隣人を敵対視する斯くの如き状況を、
鳥瞰、客観視し、
自分は決してその甘言には乗らない事である。
最早、強制収容所は普遍の到る処であり、
国民国家がその宿命から免れ得ないとしても。
われわれには、その収容所の壁を内破し、越境し得る手段が残されている。
それは如何にして為し得るか。
それは
常に自己自身の頭脳に於いて意思決定し、
常に自己自身の情動を制御し、
常に自己自身の理論を検証し、
時には誤謬を受容する意思である。
諸君が諸君の独房管理人であり、
僭主が諸君の独房支配者と為らない為に。
若し、
自由が独房の只中にのみ成立し得るものならば、
その絶対性の絶望を諸君は手離さないべきなのだ。
私からは以上である。
