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【あなたに会えて幸せ】/第5章第26話「最後の摘便と生まれ出た息吹き」

「ミク、怒らないで聴いてくれる?」

ある朝、いつものように、トモキの摘便。
その最中に、トモキが言った。

「なぁに? 怒らないよ」

トモキが私を怒らせたのは、一度きり。

(ちょっとぉ!
 私をほったらかして、毎晩どこの女と話しているのよ。
 どこの女って……。
 君のお父さんとネット将棋)

今度は何?

「部屋でウンコするなんて、妙な背徳感あるなぁ」
「くっくっくっ……」
「?」
「あーはっはっは!
 私もよ。
 毎日この部屋で、尿瓶と差し込み便器。
 妙な背徳感あるよね」

摘便が終わり、トモキのお尻を洗いながら、

「こうしてトモキのお尻洗ってると、
 沐浴を思い出すよ。
 愛する人と触れ合っているだけで幸せ」
「沐浴って。俺は赤ちゃんか」
「そうでちゅよ~、トモキちゃん。
 きれいにちまちょうね」

季節は足早に巡り、11月、そして12月へ。
臨月を迎えた私の身体は、お風呂に入ることもできなくなっていた。

「ミク、体拭くよ。寒くないかい?」

トモキが車椅子から床へ降り、熱いタオルで私のお腹や背中を優しく拭ってくれる。
手も脇の下もおっぱいもアソコも。

お互いに裸を晒して、相手に委ねている。
世間は何と言うだろう?
【相互介護】?
好きなように表現してくれ。

お腹の中の赤ちゃんの性別は、あえて聞かなかった。
男の子でも、女の子でも、奇跡の我が子。

ジョン・レノンの命日である12月8日の早朝。
窓の外で冷たい冬の雨が雪へと変わりそうな、凍えるような朝だった。
いつものように、トモキの摘便。
その最中に、

――ん……?

下腹部の奥の方が、キューッと波を打つように硬くなるのを感じた。
痛い、というよりは、お腹の底が重く締め付けられるような、経験したことのない奇妙な感覚。
私は思わず息を詰め、トモキの肌に触れていた手を止めた。
敷布団の上で私がわずかに身をこわばらせた瞬間、トモキが目を見開いた。

「ミク、どうした? 陣痛か!?」
「……うん。でも、まだ大丈夫よ」

驚いて慌ててスマホを握るトモキを、私は制止した。

「収まった。大丈夫よ。
 両親学級で教わった通り、【陣痛が10分間隔】になったら、陣痛タクシーよ。
 摘便の続き、やるよ」

私は、トモキの摘便を再開した。
痛みの合間は、嘘みたいに何ともない。
だけど、私のお腹の中で、いよいよ愛しい未来へのカウントダウンが始まったのだと確信していた。

このお尻とも、しばらくお別れね、、、。
摘便が終了。
お尻を洗ってあげてたら、急に涙がこみ上げてきた。

「ゴメンね、トモキ。
 しばらくは、自分で摘便してね」

陣痛が10分間隔になるまで、準備の最終確認。
・出産バッグ
・スマホ(フル充電)
・着替え

付き添うトモキも、準備した。

「トモキ、いよいよね。ちょっと怖いけど。
 助産師さんは、紹介されているから大丈夫かな?」
「出会った時からのこと、思い出すなぁ」
「本当に」

私は、手話で想いを伝えた。

自分を指差し、
相手に手のひらを差し出し、
右手の握り拳を空中で【いい子、いい子】、
相手に手のひらを差し出し、
両手の人差し指を立てて、軽く曲げ、合わせ、
アゴヒゲを2回撫でる。

途中から、トモキも一緒に手話。

-- 私は、あなたを愛してる。
-- あなたに会えて幸せ。

トモキがベッドに寄りかかって、私たちは、抱き合った。
分娩は、トモキが後ろから抱いててくれる。

「いたたた!
 段々強くなってきた」

手元のストップウォッチを停めた。
13分25秒。
そろそろだ。

「痛い!」

今度は、11分05秒。

母にLINEした。
(朝早くゴメン。陣痛が始まった。
 そろそろ10分間隔)

10分30秒、10分45秒、10分17秒。
トモキが、陣痛タクシーを呼んでくれた。
車椅子2台がそのまま乗れる大型の福祉車両を、事前に指定して登録してあったのだ。

母が来てくれた。
母に手伝ってもらって、車椅子に乗った。
出産バッグを背もたれにかけてもらった。

陣痛タクシーに乗り込む。
スロープを伝って、2人の車椅子がそのままバックドアから収まった。

私は、陣痛と闘うだけ。
みんなテキパキ動く。

分娩室のベッドは大きく起こされ、私の背後にはトモキがいた。
足置き(あぶみ)に足を突っ張ることができない私の身体を、トモキがその強靭な上半身の腕で、後ろからがっちりと抱き留めてくれている。
私の背中に、トモキの熱い鼓動と、激しい呼吸の熱が直接伝わってくる。

「はーいミクさん、陣痛の波に合わせて!
 トモキさんの身体を頼りにして、思いきり!」
「ミク、いきめ! 俺が後ろにいる、絶対に離さない!」

助産師さん・トモキの声が響く。
私は残された太ももの筋肉のすべてを硬直させ、トモキの腕に自分のすべてを預けて、お腹の底から泥泥とした熱い塊を押し出すように、全細胞を懸けていきんだ。

綺麗事なんて何一つない。
汗と、涙と、剥き出しの身体のリアルがそこにあった。
私たちはふたりで車椅子の上を生き、いま、ふたりで一人の親として、一つの命をこの世界に引っ張り出そうとしている。

「頭が見えたよ! がんばれ!」

トモキの腕に凄まじい力がこもる。
私も、人生のすべてを絞り出すように叫んだ。

次の瞬間。

オギャーッ! オギャーッ!

分娩室の緊張をすべて引き裂くように、高らかで、あまりにも圧倒的な産声が響き渡った。

「元気な女の子ですよ!」

胸の上に抱き上げられた、ずっしりと重い、温かな赤色の命。

私とトモキは、どちらからともなく声を上げて、子どものように泣きじゃくった。

12月8日23時24分。
3180グラムの女の子。

病室には、待ち侘びていたお互いの両親が集まっていた。
あの日、トモキの部屋で「6人」で乾杯した私たちは、今日、この小さな命を迎えて「7人の家族」になった。

「お父さん、この子の名前考えてくれた?」

私が尋ねると、私の父は、不器用にしわくちゃの顔を歪ませながら、一枚の紙を差し出した。

「『ハル』だ。
 ミク、お前がくれた『未来』の、そのさらに先まで――。
 この子が生きるこれからの世界が、どこまでも遥かに、輝かしい光で満ちあふれるようにと、願って付けさせてもらった」

ハル。ハル。呼びかけるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる最高の名前だった。

お祝いの喧騒が去り、窓の外の月を眺めた。

私のベッドの隣で、車椅子に座ったトモキ。
ベビーベッドには、おくるみに包まれたハル

「はぁー、お腹がへこんだら、楽だわ」

今朝まで私のお腹の中にいたハルが、
今は、隣のベビーベッド。

私はアゴヒゲを2回撫でた。
トモキもアゴヒゲを2回撫でた。



第27話に続く


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