不当体罰1年間/小5
小学5年生の1年間、
毎日受け続けた【不当体罰(拷問)】の記録。
─────────
【小学5年生/1年間の不当体罰】
五年生になると、三年生の担任よりもっと恐ろしい先生が僕を待ち受けていました。
【1】日記を書け!
日記を書きなさい
担任の野川先生は、五年生の最初の授業の日に、
「日記帳を配るので、毎日日記を書きなさい」
と言いました。
しかし、僕には日記を書く習慣が身に付きませんでした。
月に一度程度、野川先生はクラス全員に日記帳を提出させました。
しかし、僕の日記帳は真っ白なページばかり。
めくれどもめくれども、真っ白なページばかり。
急に提出を求められると、そのまま提出するしかありませんでした。
しかし、多くの場合は、
「明日は日記帳を提出しなさい」
と、クラス全員に号令します。
学校から帰って、真っ白な日記帳を広げ、思い出せる日だけ、一行か二行埋めていきます。
悪あがきです。
時間がありませんから、どんな日だったか思い出せない場合は、どんどん飛ばしてページをめくりました。
そして翌日提出しました。
当時僕は、クラスの名簿で先頭から二番目だったので、野川先生が僕の日記帳を開くのも早い段階だったようです。
提出した日の放課後、野川先生に呼び出されて叱られました。
「すみません。日記を書いていない日がありました」
「『書いていない日がありました』どころじゃないだろ?
書いてない日の方が多いし、書いてある日だって、一行か二行じゃないか」
今思い返しても不思議なのです。
「日記を書かないこと」では、野川先生からは、一切の体罰がありませんでした。
体罰もそうですが、罰もペナルティもなく、ただ叱られて終わりでした。
しかし、何度叱っても日記を書かない僕という存在は、野川先生には、憎らしく映っていたのかも知れませんね。
「可愛い児童」には思えなかったのでしょう。
僕に対して執拗に行われた「両手挙げの体罰」。
そこには、
「何度叱っても日記を書かない可愛くない児童」
という僕の存在が作用していたのかも知れませんね。
なぜ日記を書く習慣が身に付かないのか?
実は、日記どころか様々な生活習慣が身についていませんでした。
手洗いをしない・ハンカチを持たない・髪を整えない・歯を磨かない・・・・
宿題もやらないのです。
遊びに夢中・読書に夢中・テレビに夢中。
なのに、成績だけは良い。
おかしな子ども。
【2】かひろくん
同級生のひろすけくん。
算数が得意な少年だったなぁと記憶しています。
ひろすけくん、ちょっと舌足らずなしゃべりかたをしてました。
「じてんしゃ」のことを「ででんしゃ」って言ってたのを良く覚えています。
自然な流れかも知れませんが、からかわれたりして、今で言う「いじめ」のようなこともあったかも知れません。
このひろすけくんが、野川先生からもバカにされていたのを良く覚えています。
ひろすけくんは、授業が始まってからしばらくしてトイレに行きたがることが頻繁にありました。
当時は、授業中のトイレは、まず却下されました。
それでもどうしても我慢が出来なくなってお漏らしギリギリになると、やっとトイレに行くことが許されます。
「休み時間にトイレに行きましょう」
と普段から指導されています。
授業中にトイレに行きたくなる生徒は、懲らしめる意味である程度は我慢させるのが当時の指導方針だったのでしょうか?
それとも単に
「だから、休み時間にトイレに行けって言ったじゃねぇか。言うことを聞かないからこうなるんだ」
と、教師が腹を立てて制裁の意味があったのでしょうか?
トイレに行きたがることが多かったひろすけくんは、ギリギリまで我慢させられて一度だけ教卓の付近で、
少しお漏らしをしてしまいました。
そんなひろすけくんは、野川先生にとって、「愚図で世話の焼ける児童」というイメージでもあったのでしょうか?
いつしか、野川先生は、
「もうあいつのことは、かやまひろすけと呼ぶのが面倒だ。省略して、『かひろ』と呼ぼう」
とみんなの前で言うようになりました。トイレに走って行ったかひろくんの後ろ姿を嘲笑うかのように、
「まったく、『かひろ」はしょうがねぇなぁ」
と嘲笑し、一同の笑いをとったことさえありました。
僕達児童一同も不思議なもので、先生が先導すると、疑問を感じないで一緒に嘲笑したのです。
恐ろしい記憶です。
かひろくんは、現代のようないじめほどではなかったにせよ、長い間、からかわれたりバカにされたりしていました。
中学校は、僕やかひろくんのいた小学校、その他二つの小学校から生徒が入学しました。
かひろくんのことは、誰かが中学に持ち込んでしまったのでしょう。
かひろくんはいつしかいじめの対象の一人となってしまいました。
【3】両手挙げ
第一節 納豆授業
野川先生の教育における持論は、
「生徒自身が自主的に発言をして、活発な討論となる授業」
でした。
ここで「自主的」とは、手を挙げた生徒を先生が指名して発言するのではなく、
「先生の介入無しに」
生徒の発言だけが飛び交うことを指します。
僕は子ども心にも、「あぁ、いいこと言うなぁ」と感じたものでした。
授業ってのはな。
先生と生徒のキャッチボールじゃいけないんだよ。
先生が話す、生徒を指名する、答える、また別の生徒を指名する、答える、
というように「キャッチボール」じゃいけない。
誰かが発言したら、また別の子が「僕はこう思う」と繋げて、
それに対してまた別の子が、というようにみんなの発言が「納豆」のように絡み合っていかなきゃ駄目なんだよ。
言いながら、野川先生は両手の指をくねくねと絡み合わせるしぐさをして
「なーっとーのようにー」
と面白可笑しくみんなの笑いをとっていました。
ただ、野川先生は、発言の「文体」を指定しました。
「です・ます調」ではなく、「・・・だよね」「これは・・・じゃないかなぁ?」
これは、僕だけでなく、抵抗を感じていた生徒が多かったようです。
普段の遊びなら「・・・だよね」。
授業は、「です・ます調」。
誰もがそう思っていました。
第二節 最初の両手挙げ
さて、そんな野川先生の記憶で、僕の心に「もっとも」傷を残したことがあります。
それが次にお話する「両手挙げ」の体罰です。
体罰名称 : 「両手挙げ」
体罰の様式 : ばんざいした格好を、先生が「終わり」と言うまで維持する
加害者 : 担任教師野川先生
被害者 : 僕(ほぼ毎日)
親友かずおくん・ほぼ毎日
他、五名ほどがほぼ毎日被害に遭っていた。
授業開始。
担任の野川先生は、国語算数理科社会、どの教科でも教卓には立たず、自分の机でなにやら作業をしています。
授業開始に当たって、先生のひとこと。
「さ。今日は○○についての授業。自主的に発言しなさい」
納豆授業の開始です。
でも、野川先生はテーマを投げかける訳ではありません。
野川先生は、さっさと自分の机に座り、何か書き物を始めたようでした。
最初の授業では、みんな何をしていいか分からず、ポカ~ンとしていました。
最初の納豆授業では、誰も発言しないまま、授業の時間が終わりに近づきました。
その時、野川先生が、
「意見を言わなかった者、前へ出ろ」
と言い、みんながぞろぞろと黒板の前へ出ました。
次に、野川先生が、
「では、その場で両手を挙げろ」
と言い、生徒達は従いました。
五分・十分経つと疲れてくる生徒もいました。
最初の納豆授業は、そこで許されたようです。
この時点では、僕は、「両手挙げ」が執拗に繰り返されるとは思ってなかったのです。
体罰は、「懲らしめ・見せしめ」的な要素があります。
最初とか、クラス全体がだれてきた時期とか、時々やらされる程度だろう、そう考えていました。
でも、僕の楽観的な考えとは全く異なり、「両手挙げ」は、最後の一人が口を開くまで徹底的に執行された恐ろしい体罰でした。
第三節 執拗な両手挙げ
さて、納豆授業も二度三度となると、体罰の恐怖をみんなが理解します。
「さ。今日は○○についての授業。自主的に発言しなさい」やがて、教室のあちこちから生徒の声が出始めます。
その発言たるや、適当に教科書を見ながら、適当なことを言うので、授業でも討論でもなく、各々が勝手に叫んでいるだけでした。
例えば算数。
先生は解き方を説明するでもなく練習問題をさせるでもないのです。
ひたすら自分の机でなにやら作業をしています。
そんな調子だからみんなは理解などしている筈もありません。
そして授業の時間も終わりに近付くと、野川先生がすくっと立ち上がり、
「意見を言わなかった者、両手挙げ!」
そして、僕をはじめ何人かの「意見を言わなかった者」達が、黒板の前に立たされて、「両手挙げ」の刑を執行されるのです。
「両手挙げ」が恐くて「意見を言った者のフリ」をしたこともありました。
ですが、誰かが必ず、
「○○くん、嘘言っちゃダメだよ」
と暴露してしまうので、僕や、いつも意見を言えない同級生達が結局は、「両手挙げ」をさせられてました。
四年生までは、先生が教卓の前で教えてくれる授業に慣れていた児童が、急に「自主的な発言」など出来るものではありません。
しかも、
ただ、野川先生が、発言の「文体」を指定しました。
「です・ます調」ではなく、「・・・だよね」「これは・・・じゃないかなぁ?」
僕だけでなく、誰もが抵抗を感じていたのです。
下手な芝居の稽古のような・・・・・
「両手挙げ」の恐怖の下(もと)、みんなが先を争って叫ぶものだから、
ちょっとでもためらっていると、意見を言いそびれてしまいます。
そして「両手挙げ」の餌食です。
毎日、授業が始まると
「何か、言わなきゃ、何か言わなきゃ」と尻込みする自分との戦いでした。
しかも、「です・ます調」はダメ。
自主的に意見を言うことに反抗していたわけではありません。
その証拠に「自主的な発言」が言えた日もあったのです。
そんな日は勿論「両手挙げ」は免れました。
しかし、多くの場合、言葉が出てこなくて、言葉が浮かんでも他の人に先を越されて言いそびれてしまうのでした。
意見を言うまでは、給食もおあずけになる「両手挙げ」の体罰。
それが、ほとんど毎日続きました。
黒板の前で、両手を挙げて、疲れてくると手も痛くなってしびれてきます。
腰が痛くなってお腹を突き出して耐えます。
意見を言え、って何を言えば良いのか?
泣きながら、不本意な反省の弁を述べさせられたこともありました。
(一)場面緘黙
この体罰を受け続けた一年間、私は場面緘黙に似た状態だったと言えそうです。
「毎日、授業が始まると『何か、言わなきゃ、何か言わなきゃ』と尻込みする自分との戦い」でしたし、
「自主的に意見を言うことに反抗していたわけでは」なかったのです。
そんな私を野川先生は、「反抗的な児童」と感じていたのでしょうか?
「喋らせよう、喋らせよう」と躍起になってしまったのかも知れませんね。
(二)アスペルガー
アスペルガーの特徴の一つは、「相手の言葉を文字通りに受け取る」ことです。
私は納豆授業の定義に忠実になっていました。
(三)アダルトチルドレン
アダルトチルドレンの特徴の一つは、「相手に必要以上に忠実」なことです。
私は納豆授業の定義に忠実になっていました。(後述)
『各々が勝手に叫んでいるだけでした。』
ここの記述は、
『APD(聴覚情報処理障害)』
を思わせる記述です。
そのせいで、納豆授業にとけこめなかった可能性がありそうです。
『「意見を言った者のフリ」をしたこともありました。
ですが、誰かが必ず、
「○○くん、嘘言っちゃダメだよ」
と暴露してしまう』
ここの記述は、
『小さな密告社会』
が形成されていたということでしょう。
それが一年間も続いたことで、私は人間不信に陥り、人間関係を築けなくなったようです。
第四節 藤村くん
泣きながら、不本意な反省の弁を述べさせられたこともありました。
この時、
「あはは~、あいつは両手挙げのプロだなぁ」
と嘲笑する声がよく聞かれました。
どっと笑うクラスメイトたち。
声の主は、
「僕は今、図形の研究をしてまーす」
などとふざけた意見を言った藤村くんでした。
藤村くんは、小学二年生の時に隣町から転校して来ました。
担任は本橋先生。
ある日の休み時間、藤村くんと何人かの仲間が、教室の後方の小さな黒板に絵を描いて遊んでいました。
藤村くんが描いたのは、新郎新婦。二人の頭上には、三つのハートマーク。
教卓で次の授業の準備をしていた本橋先生が、それを見つけて言いました。
「藤村くん、絵が上手ね。その二人の頭の上は、リンゴが乗っかってるの?」
昭和四十六年当時五十歳の本橋先生。
ハートマークを知らなかったのですかね?
それとも
「小学二年生で、ハートマークを描くなんて、ませたガキだ。けしからん!」
位に思ったのでしょうかね?
僕には、本橋先生の言葉のトーンが「単なる質問」には聴こえませんでした。
藤村くんは、何も返事をしませんでした。
本橋先生の言葉に、どことなく「トゲ」を感じたのでしょうか?
小学二年生で、新郎新婦の絵を描いて頭上にはハートマーク。
そんな藤村くんは、「ませたガキ」だったのかも知れません。
感受性も強かったかも知れませんね。
そのことが、藤村くんの人格形成にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?
藤村くんは、小学四年生頃から、リーダー的存在になりました。
中学校に進学すると、不良仲間を数人引き連れて、いわゆる「番長」になりました。
たまたま僕の席に近かった藤村君。
藤村君は、あまり算数が得意でなかったようです。
教科書に描かれた図形になにやら意味不明の線を沢山書き込み、
「僕は今、図形の研究をしてまーす」
などとふざけた意見を言っていました。
僕の記憶によると藤村君はノートにコンパスで大きな円を描いていました。
次に、中心を通る直線を一本、縦に引きました。
次に、中心を通る直線を一本、横に引きました。
その次は、中心を通る直線を一本、斜めに引きました。
そうして、次々に「中心を通る直線」を引きました。
もちろん、そのようなことも、幾何学の興味としては、良いテーマだと、僕は記憶しています。
でも、その日は、図形の授業ではなかったのです。
そんなふざけた発言でも「意見一回」としてカウントし自己申告できました。
野川先生は、そんな細かいことまで見ていなかったのでしょう。
【4】グループ討論と授業参観
第一節 忠実でありたかった
僕は、むしろ野川先生の納豆授業に忠実でありたかったのです。
「納豆授業の定義」
・授業は、先生と生徒のキャッチボールではいけない。
・つまり、先生が話し、指名された者が答え・・・の繰り返しではいけない。
・生徒が自主的に発言し、それに対する意見を別の生徒が自主的に発言すべきである。
・そのような自主的な発言が絡み合って、「納豆のような授業」が行われるべきである。
真面目だった僕は、この「納豆授業」の定義を忠実に守ろうとしていたのです。
だから授業の内容に関係の無い、
「僕は今、図形の研究をしてまーす」
という、ふざけた発言を四十年も経った今でも鮮明に覚えているのです。
ちなみに、 小中学校の成績は小学校五年生の一年間だけ異常に悪かったです。
(何を習ったか、全く記憶がない)
母は後年、思い出したように、
「あの先生のせいで、成績が下がった!」
と、吐き捨てるように言ってました。
体罰のことは、母にも父にも話していないです。
今でも体罰のことは言えないです。
それは理解されないだろう、と思うからです。
親に話すことは、気持ちの面でとても大事かも知れないと思いますが、僕は親を信用出来ないのです。
もし、「サリーちゃん」を見て泣いた時みたいに、笑い飛ばされたらどうなるか?
今度こそ、僕は壊れてしまう・・・
母は自分の愚痴をこぼすのに精一杯の人だったから、とてもこちらの話を聞ける人じゃなかったんです。
「納豆授業の定義」
・授業は、先生と生徒のキャッチボールではいけない。
・つまり、先生が話し、指名された者が答え・・・の繰り返しではいけない。
・生徒が自主的に発言し、それに対する意見を別の生徒が自主的に発言すべきである。
・そのような自主的な発言が絡み合って、「納豆のような授業」が行われるべきである。
僕は、むしろ野川先生の納豆授業に忠実でありたかったのです。
最初の頃は、
「○○君の意見に賛成です」
と、それだけの意見も多かったです。
「多数決をとっているわけじゃないのだ。たったそれだけの意見で一回とカウントされて良いのか」
と僕は、疑問を感じていました。
でもさすがに、それについては野川先生が、
「賛成です、反対です、それだけの発言は、ノーカウント!」とルールを増やしました。
ルールが厳しくなったと感じながらも、僕は納豆授業の質が向上したことを良しと感じました。
次は、僕がもっとも不本意だと記憶している部分です。
例えば算数の授業。
僕はみんなが、あーでもないこーでもないと議論して、計算の答えを出す、そんなことを想定していました。
ところが実際にはそんなことは難しすぎる(つまり習っていないことは出来ない)か、簡単すぎる問題を誰かが解いてしまって、一回の発言で流れが終わってしまう、のどちらかだったのです。
算数を納豆授業でやるからには、みんなで議論して公式や定理を導き出す位のことをしたい、僕はそう思ってたんです。
第二節 グループ討論
「両手挙げ」の体罰を免れる日もありました。
それは該当者が五人~十人位の人数の場合でした。
その場合は、グループ討論をさせられました。
といってもその名前から想像出来るような気持ちのいい討論会ではありません。
結局は、罰の一環です。
野川先生の納豆授業が終わりに近付くと野川先生がすくっと立ち上がり、
「意見を言わなかった者、両手挙げ!」
そして、僕をはじめ何人かの「意見を言わなかった者」達が、正直に名乗り出ます。
ごまかそうとしても誰かが告げ口してしまう「密告社会」なので、結局は「意見を言わなかった者」達が、ぞろぞろと黒板の前に立たされます。
小人数の場合は、そのまま「両手挙げ」です。
ちょっと人数が多いと、教室の隅に集められてグループ討論をさせられます。
授業は一旦終りになります。
「さ、はじめ」先生の号令で、グループ討論開始。
しかし、元々「意見を言わなかった者」達なのです。
最初のうちは、皆押し黙ったまま。五分もすると先生が言います。
「意見を言った者。休み時間にしてよろしい」
そうすると、ポツリポツリと授業に関係の有りそうなことを発言する者が出始めます。
さらに五分もすると、また先生が言います。
「三回以上意見を言った者。休み時間にしてよろしい」
そこらあたりで、グループ討論は、ざわざわと脈絡の無い発言の応酬へと変わっていきます。
さらに五分もすると、また先生が言います。
「五回以上意見を言った者。休み時間にしてよろしい」
少しずつ基準が上がっていくものの、罪を許される者が釈放されていくのでグループ討論の人数は減っていきます。
それで最後に残るのは、結局は僕。
そして結局は「両手挙げ」。
このようにして、一年間の体罰体験は深い傷となり、「教師」に対する不信感は、募って行きました。
当時を振り返って思うのは、
・グループ討論に参加させられる常連メンバーは、真面目な発言(クォリティの高い発言)をする人が多かった
ということです。
・適当な発言をする人
:両手挙げをさせられない
:グループ討論をさせられない
・真面目な発言をする人:
:両手挙げをさせられる(尻込みまたは発言のチャンスを逃す)
:グループ討論をさせられる
日本人は英会話に尻込みする人が多いですよね。
あれは、発音や文法などを正確に言おうとして却って言葉が出なくなる現象です。
また、短文の羅列で構わないのに、関係代名詞などの複文を話そうとしているから、セリフが浮かんで来ないのです。
私が、意見を言えなかった理由も似ています。
真面目な意見を言おうとかクォリティの高い意見を言おうと考えすぎて何も言葉が出て来なかったのでしょう。
第三節 体罰の終焉と残された傷
翌年、僕は喘息の養護学校に転校しました。
あとで聞いたところによると、体罰は依然として続いたそうです。
しかし、誰かが親に告発し、親はPTAに告発しという具合にして、納豆授業も「両手挙げ」の体罰も終わりを告げたそうです。
実は、五年生のクラスは、四十五名の大所帯一クラスのみでした。
それが、六年生になって、数名の転入者があった為、二クラスに分けられ、野川先生は一組の担任。
若くてやさしい関口先生が二組の担任になったそうです。
多分、そのころに、一組と二組の仲間がそれとなく会話したのでしょう。
「どうだ、二組は?」
「いやぁ、去年と比べたら天国さ」
「そっか、こっちは去年と同じ・・・」
そんな風にして、誰かれとなく野川先生の間違いに気づいたのでしょうね。
四年生まで、国語算数理科社会は目をつぶっていても百点取れるほど簡単な内容でした。
自分としては、もっと高度な内容を知りたかったし、内容的にも進度的にも、
学校の授業はエキサイティングなものがなく、ノートも取らず、ただ先生の言葉で、自分の知識の確認をする程度の意識。
何か受け身の態度のままだったから、野川先生の「納豆授業」に適応できなかったのでしょう。
授業は先生がしゃべって生徒は指名されて立って答える、という形態に慣れすぎていた為、自主的に意見を言うことへの対応が遅れました。
また、授業の内容的にも、特に意見を持っていませんでした。
でも、意見というものを持っていたことも事実です。
「こんな授業の進め方おかしいですよ!」
内心、そう思ってたかも知れません。
でも当時はどうしてそうなるのか分かっていませんでした。
当時の気持ちを言葉にすると、
「こんなの嫌だ」
それが精一杯だったと思います。
今でこそ、自主的に勉強して自主的に意見を言う、ということを理解出来るし、実際にそのようにしていますが、小学校五年生の子どもに果たしてそれを理解し、実践できたのかと思います。
担任の野川先生について思い出すことがあと二つあります。
一つは、「野川先生は、授業参観の日だけ、普通の形態の授業を行った」ということです。
つまり、野川先生は普段の授業は保護者に見せられない事情があったのです。
「両手挙げ」の体罰は当然見せられないとしても、生徒がてんでバラバラに意見を言って、野川先生は机でなにやら書き物、なんて光景を保護者に見せられるはずがないのです。
僕の脳裏には、授業参観の日の野川先生のあっけらかんとした笑顔が焼き付いています。
普段は、授業を全くしないくせに、授業参観の日に限って「したり顔」で普通の授業をする野川先生。
そんな野川先生の悪びれない姿に、あっけに取られていました。
あっけに取られると同時に、地獄の毎日を、親に知らせることが出来ないもどかしさを感じていました。
でも、それは今振り返るから思うことなのです。
当時は、僕自身が自分の疑問を表現する力を持っていませんでした。
当時の心の傷は、大人になるにつれて、症状として現れるようになってきたのです。
表現力が身につくにつれて、当時の疑問や憤りを表現出来るようになってきました。
もう一つは、「感情の強制」です。
野川先生は僕の感情まで「かくあるべき」と強制したのです。
先に書いたように、僕は小児喘息が持病だった為、六年生からは養護学校に転校することになりました。
ある日、野川先生とすれ違った時、
「おまえ、なんでもっと嬉しそうにしないんだ!」
「・・・」(理解出来ず、多少苦笑い)
「養護学校決まったんだってな。やっと治るんだから嬉しそうにしろよ」
でもね、先生。
僕は、初耳!
なんで、当事者の僕が知らないの?
知らされてないの?
「喜べ!」なんて強制しないでね。
第四節 社会不適応と体罰肯定論
これらの出来事がいったい、どれ位僕の心の傷になっているのか、見当が付きません。
ただ、その後成人して色々と考える余裕が出てくると、小学校五年生の体罰体験が鮮明に思い起こされるようになってきました。
同時に社会不適応も起こってきました。
目上の人を尊敬できず、粗を探しては軽蔑して、その人から離れる。
仲間を上手に作ることが出来ず、むしろ蔑むばかり。
こんな調子で会社勤めが長続きせず、今だに苦しんでいます。
児童虐待の定義
一 児童の身体に外傷が生じ又は生じる恐れのある暴行をくわえること。
二 児童にわいせつな行為をすること。
又は児童を使ってわいせつな行為をさせること。
三 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食、又は長時間の放置。
その他の保護者としての看護を著しく怠ること。
四 児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと
野川先生の行為を虐待の定義に当てはめようと確認しました。
野川先生は、直接体への暴力はしませんでした。
野川先生が行なったことは、「やれ」と命じることだけ。
それなのに、昭和四十九年当時の小学校五年生四十五名は、全員がロボットのように理不尽な授業を一年間も受け続けたのです。
野川先生の巧妙なやり方に、改めて憎悪が湧き起こってきました。
教育現場の職員の中には、生徒への体罰を積極的に肯定したり容認したりする考え方があります。
その理由は、
「暴力的な生徒を押さえるには体罰はやむを得ない」といったようなものです。
この議論の可笑しいところは、「現状の暴力的な生徒への対処としての体罰を容認」しているに過ぎない点です。
人間の成長にとって体罰が必要かどうか、の議論にまでは踏み込めていません。
そもそも「暴力的な生徒」は、どうして存在するのか?
これは、その生徒にとって理不尽な大人が多かったからです。
もっと簡単に言うと、彼らを虐待してきた大人がいたからです。
暴力によって、暴力的な子ども達が育ち、
暴力的な子ども達を押さえる為に、暴力が必要
という愚かな構図(循環論)になっているのがお分かりいただけると思います。
「暴力」の部分を「戦争」に置き換えて、「子ども達」を「国家」に置き換えても同じようなことが言えます。
幕末に来日した欧米人が、寺子屋を見学してこう言ったそうです。
「寺子屋では叩いて教えることはしないのか?」
恐らく、寺子屋では叩いて教えることはしていなかったのでしょうね。
「叩いて教える」というのは、それまでの日本の文化や慣習には存在していなかったようです。
「体罰」というのは、欧米から輸入した悪しき文化のようです。
平成三十年六月四日の日記です。(拙著「病名があればいいのに」に収録)
今日は、「場面緘黙」について勉強しました。明るく快活に話す私。母は言いました。
「将来は、落語家?」
小学五年生の一年間、授業中にほとんど話せませんでした。担任教師が言いました。【自主的に発言しなさい。発言しない者に体罰を与える】私は、担任教師の指示に従おうと強く思っていたのに、発言しようとすればするほど、声が出ませんでした。そもそも
「自主的な発言って何だろ? 何を言えばいいの?」
「言葉の意味」がわからなくなったのも、体罰体験と深い関係がありそうです。
「ごめんなさい」って何だろ?
担任教師の指示に従おうと努力してできなかった私は、「どこがどう悪いか」すら教えてもらえずに、「謝罪」を強制される毎日。
「教師」って何だろ?
教えてくれる人?
体罰によって「自分が支配しやすい人間」を大量生産する人?
楽しい、嬉しい、食べる、選ぶ、安心、親切、愛
色々な言葉の意味がわからなくなったのは、この時期です。
小学五年生は、脳が発達途中。小学五年生は、思春期の入り口。人生の大切な時期に、「担任教師から1年間も体罰」を受け続けた私。言葉の意味を獲得する前段階だったのかも知れませんね。「小学校体罰サバイバー」をプロフィールに加えました。
☆対人関係を築くことが難しくなった原因
(一)質問
この頃から、
「言葉の定義を確認して、積み上げることで理解する」
という思考パターンを強固にしたようです。
人と会話しても、ありふれた単語の意味を確認しながらでないと会話を進められなくなりました。「ありふれた単語の意味」を確認する私の質問は、相手には、
「何でそんなこと訊くの?」「解かってて嫌味で訊くの?」
という誤解を生んでいたようです。友達が減っていきました。また、言葉の意味をよく知らずに使っている人の心を傷つける作用もあったようです。
(二)相手に踏み込まれる
気づかないうちに相手に踏み込まれていることが多くなりました。軌道修正しようとすると、
「そんな昔のことを蒸し返すのか?」
と、相手は不愉快。そして、人間関係が壊れるようです。
平成三十年秋にある友達とちょっとした会話の行き違いがありました。その会話記録を読み返していたら、原因が解かりました。
A.私は、自分の要求(して欲しいこと・できないこと)を明確に伝えている。
B.相手に判断を委ねてしまう。
(「私の気持ちを察して」という「待ち」の姿勢)
C.相手は、「交渉の余地あり」と思う。
D.私にとって不本意な会話が始まることで、私は「自分の要求」を貫き通す気力を失う。
E.相手に都合が良い結論になる。
F.後日、結論を覆すと相手は不愉快。
このパターンのトラブルを防ぐためには、
「B.相手に判断を委ねてしまう。」
をやめることです。
☆精神科
野川先生の指導:自主的に発言しなさい。発言しない者には体罰をする
平成三十年に、精神科医にこれを伝えたら、精神科医は目を丸くして驚いていました。
『体罰を用意しておいて、【自主的な発言】とは信じられません』
私もそう思っています。
第五節 罰の効果と無理な目標
子どもを躾したり教育したりする過程で、「悪いことをすれば罰を与える」という手法の効果は理解できます。
しかし、それは子ども本人にとって「達成可能な目標」の場合に限られるのではないでしょうか?
もちろん現在の学校では体罰が禁止されて明文化されています。
しかし、こういう体罰はどうでしょう?
「東大に合格しなければ、500Vの電気ショックを与える。
東大に合格するまで、毎年罰を与え続ける」。
目標が高すぎるといくら罰を強化しても達成出来ないでしょう。
「納豆授業」は、僕にとって目標が高すぎました。
だから、毎日「両手挙げ」の体罰を受けても先生の言う通りに出来なかったのです。
考察
以前から、脳科学を勉強しておりますが、消化不良です。
何度も書いていますが、私は小学五年生の一年間、不当な体罰にさらされました。
担任は言いました。
「自主的に発言しなさい。発言しない者には体罰を与える」
当時十歳の私。
十歳は、
・脳の発達で重要な時期
・「前思春期」という重要な時期
だそうです。
体罰教師との再会
関連動画:場面緘黙
関連記事:場面緘黙とは
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