「正解」と書いて、「対話の入口」と読む。〜マッチ棒一本が、祖父と孫を同じ高さに座らせた朝〜
孫と一緒に過ごす日、何をしようかと考えていた。
勉強を教える。
本を読む。
買い物へ行く。
外で遊ぶ。
どれも悪くない。けれど、せっかくなら、祖父が一方的に何かを教えるのではなく、二人が同じ温度で楽しめるものがいい。
そこで選んだのが、マッチ棒クイズだった。
数字や記号を構成する棒を一本だけ動かし、間違った式を正しい式に変える。昔からある、いわゆる脳トレである。
始める前は、小学三年生には少し難しいかもしれないと思っていた。
ところが、実際に始めてみると、その心配はあっという間に消えた。
最初の問題は、
「2+3=4」
一本動かして、
「2+2=4」
にする。
ここまでは練習問題である。
次に、
「0+3=5」
を出した。
用意されていた答えとは別に、孫は、
「0+5=5」
を見つけた。
さらに、
「8-3=5」
まで作った。
一つの正解を当てただけではない。
問題の中に隠れていた、別の正解を自分で探し出したのだ。
このとき、私はマッチ棒クイズの本当の面白さに気づいた。
学校の算数では、多くの場合、問題には決められた答えがある。
しかしマッチ棒クイズでは、最初の正解を見つけても終わりとは限らない。
「ほかにもないか」
という問いが生まれる。
すると、子どもは解答者から探索者へ変わる。
さらに問題を続けた。
「44-8=53」
「46+11=83」
「2-33=36」
「5+4=5」
「4-70=14」
「87-48=43」
「92-6=81」
最初は一緒に考えていたはずだった。
ところが、いつの間にか孫は、問題を見るなり答えを見つけるようになった。
十秒。
また十秒。
少し難しい問題でも二十秒。
こちらが驚いているうちに、次々と正解していく。
ただし、ここで大切なのは速さではない。
孫の中で何かが変わっていた。
数字を、単なる数としてだけ見ていない。
「この数字から一本取ると何になるか」
「この一本を、どこへ足せるか」
「数字だけでなく、+や-も変えられないか」
「動かした後、式全体が成立するか」
これらを同時に見始めていた。
つまり、計算問題として処理しているのではなく、式全体を構造として捉えていたのである。
以前、私は数字の「9」について考えた。
一本取ると、どの数字に変わるのか。
一本動かすと、何に変わるのか。
一本足すと、何になるのか。
こうして一つの数字の変化を分類していけば、単なるクイズは研究になる。
0から9まで調べて、
「一本取る」
「一本動かす」
「一本足す」
の三つに分ける。
一番変化しやすい数字は何か。
逆に、ほとんど変化できない数字はあるか。
偶数から奇数へ変わるものは何か。
変化には、どんな規則があるのか。
これは夏休みの自由研究にもなり得る。
けれど、この日の私にとって、研究以上に大きかったのは、孫との関係だった。
祖父が答えを教え、孫が覚える。
そんな上下の関係ではなかった。
祖父も迷う。
孫も考える。
祖父が見落とした別解を、孫が見つける。
その瞬間、二人は先生と生徒ではなくなる。
同じ問題の前に並んで座る、二人の挑戦者になる。
「そこじゃないと思う」
「これを動かしたら?」
「計算は合っているけど、一本では作れないね」
「ほかにも答えがあるよ」
会話を無理に作らなくても、問いが会話を生んでくれる。
子どもに何かを話してもらおうとすると、大人はつい質問攻めにしてしまう。
学校はどうだった。
何が楽しかった。
勉強は分かるか。
将来は何になりたい。
けれど、子どもは必ずしも答えたいとは限らない。
その点、マッチ棒クイズには、答えを強要しない余白がある。
二人が同じものを見ている。
同じ条件の中で考えている。
正解したら一緒に喜び、間違えたら一緒に笑う。
それだけで、自然に言葉が生まれる。
コミュニケーションとは、たくさん話すことではないのかもしれない。
同じものを見て、同じ温度で迷えること。
そして、大人が子どもに教えるだけでなく、子どもの発見に本気で驚けること。
一本の棒は、数字を別の数字へ変える。
だが、この日、その一本はそれ以上のものを変えた。
脳トレを遊びへ変えた。
遊びを研究へ変えた。
正解探しを、別解探しへ変えた。
そして、祖父と孫の時間を、対話の時間へ変えた。
孫と何を話せばいいか。
その答えは、無理に話題を探すことではなかった。
二人の間に、一つの問いを置くことだった。
一本の棒と、一つの問い。
それだけで、祖父と孫は同じ高さに座ることができる。
