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「教える」と書いて、「同じ高さに座る」と読む。〜一本の棒が、祖父と孫の距離を消してくれた。〜


孫と過ごす時間に、何をすればいいのだろう。

勉強を教える。
本を読む。
外へ遊びに行く。
ゲームをする。

どれも悪くない。

けれど、大人が子どもと向き合うとき、いつの間にか「教える側」と「教わる側」に分かれてしまうことがある。

祖父は答えを知っている。
孫は答えを知らない。

そんな関係が強くなるほど、せっかく一緒にいるのに、会話は少しずつ一方通行になっていく。

そんなことを考えていたとき、一本の棒を動かして、間違った式を正しくする遊びに出会った。

いわゆる、マッチ棒クイズである。

一見すると、単純な脳トレだ。

数字や記号を構成している棒の中から、一本だけを動かす。
そして、間違っている式を正しい式へ変える。

ところが実際にやってみると、これがなかなか奥深い。

計算が合っているだけでは、正解にならない。

動かす棒は一本だけ。
取り除いた棒は、別の場所で使わなければならない。
数字の形も、決められた書体に従わなければならない。

つまり、

「答えが正しいか」

だけでなく、

「条件をすべて満たしているか」

まで考える必要がある。

ある式を見て、私は別の答えを思いついた。

計算としては正しい。
ところが、棒を一本だけ動かすという条件では成立しない。

そこで初めて気づいた。

正しい答えを思いつくことと、正しい手順で答えにたどり着くことは、同じではない。

これは、仕事にも人生にも通じる話だ。

結果だけが正しくても、そこへ至る条件や過程が間違っていれば、本当の意味で正しいとは言えない。

しかし、この遊びの本当の価値は、そこだけではなかった。

祖父も、すぐには答えが分からない。

孫も、自分なりの考えを出す。

祖父が間違えることもある。
孫の方が先に気づくこともある。

すると、その瞬間、先生と生徒の関係が消える。

二人は、同じ問題を前にした挑戦者になる。

「そこじゃないんじゃない?」

「こっちを動かしたらどうなる?」

「計算は合っているけれど、一本ではできないね」

そんな会話が自然に生まれる。

私は、これこそが、祖父と孫のコミュニケーションなのだと思った。

大人が子どもの高さまで降りるのではない。
子どもを大人の高さまで引き上げるのでもない。

同じ問題の前に、二人で並んで座る。

そこには、年齢差も、知識差も、立場の違いもない。

あるのは、

「一緒に考える」

という時間だけである。

さらに、この遊びは自由研究にもつながる。

たとえば、一つの数字が、一本の棒の操作で何に変わるのかを調べる。

一本取ると何になるのか。
一本動かすと何になるのか。
一本足すと何になるのか。

ある数字は、一本取ると二つの数字へ変わる。
一本動かすと別の二つの数字になる。
一本足すと、さらに別の数字になる。

これを0から9まで調べ、グループ分けしていく。

すると、ただ問題を解くだけだった遊びが、研究へ変わる。

どの数字が一番変身しやすいのか。
変わりにくい数字はどれか。
偶数から奇数へ変わるものはあるか。
変化にはどんな規則があるのか。

問いが次の問いを生み始める。

ここで育つのは、計算の速さだけではない。

観察する力。
条件を整理する力。
分類する力。
仮説を立てる力。
試して確かめる力。
自分の考えを説明する力。

そして何より、

「間違えても、もう一度考えればいい」

と思える力である。

数学が苦手になる子どもの多くは、間違いを恐れる。

正解できない。
遅い。
恥ずかしい。

そう感じた瞬間、考えること自体をやめてしまう。

だが、祖父も一緒に迷えば、間違いは失敗ではなくなる。

「こっちも違ったね」

「では、もう一度考えてみよう」

そう言える関係の中では、間違いは発見の途中になる。

一本の棒を動かすだけの、小さな遊び。

けれど、その一本は、数字を変えるだけではない。

祖父と孫の立場を変える。
教える時間を、考える時間へ変える。
遊びを、研究へ変える。
間違いを、次の一歩へ変える。

コミュニケーションとは、たくさん話すことではないのかもしれない。

同じものを見て、同じ温度で迷い、同じように喜ぶこと。

そのための道具は、大げさなものでなくていい。

一本の棒と、一つの問い。

それだけで、祖父と孫は同じ高さに座ることができる。

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