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豊臣秀吉と千利休(1):エゴと残虐性が交わる時


はじめに

あまり知られていませんが、晩年の豊臣秀吉は凄惨な事件を次々と引き起こしました。

利休の切腹では、利休の首を利休を象った木像に踏ませて晒す。
秀次事件では、その妻子39名を、朝から夕刻まで衆人環視のもとで処刑する。
もはや常軌を逸していると言ってもよいでしょう。

しかし、その残虐性は晩年に突然現れたものではありません。

三木の干殺し、鳥取の飢え殺しといった戦歴が示すとおり、敵をより多く、より確実に殺めることは「戦の合理」です。
残虐性は、勝ち残りの過程で大きく貢献したはずです。

ところが、天下を手中に収めると、その役割は失われ、行き場をなくします。

そしていつしか、敵を討つための「鉾」から、自分の嘘を守るための「盾」へと姿を変えていったかもしれません。


エゴという防衛機能

人は、自分に何かが欠けていると感じると、不安や恐怖を覚えます。
そして、自分にとって都合の悪い現実を否定し、嘘を「真実」と信じ込もうとします。

この心の働きを、ここでは「エゴ」と呼びます。

エゴは「歪んだ自己愛」「誇大妄想」「独善」「猜疑心」「執着」といった、さまざまな「表現型」(外に表れた姿)を取って現れます。
どれも、きっと誰もが一度は目にしたことがあるはずです。

晩年の秀吉のエゴは、多くの人命や国際関係にまで影響を及ぼす規模にまで「肥大」していました。
これほどまでにエゴが暴走した例は、歴史上きわめて稀です。

なぜ、彼にそれができたのか。

まずは、背後にある「欠損」からみていきます。

秀吉の物質的欠損

秀吉自身が意識していた「欠損」は、少なくとも四つあったと考えられます。

そのうち三つは、人間にはどうしようもないものでした。
すなわち、出自・容姿・不妊。

欠損に固執し、欠乏感が増すほどに、エゴは膨張していきます。
すると、現実との乖離は徐々に進行します。

やがてそれが臨界点に達した時、「破壊」が幕を開けるのです。


残る一つ──形而上的(非物質的)な欠損──については、次回考察します。
また、本稿で取り上げる残虐事件は「欠損」と、次回以降で扱う「庭」という二つの軸から整理しています(図1)。


図1


晩年の残虐行為と「エゴの表現型」

聚楽第落首事件(天正17年/1589年)

2月25日夜、京都・聚楽第の白壁に落書きが貼られました。

激怒した秀吉は、僧侶や商人、子供から老人に至るまで処刑。
『多聞院日記』には「籤(くじ)で処刑者が選ばれた」とも記されます。

彼は長らく世継ぎに恵まれず、ようやく生まれた我が子・鶴松には”不義の子”という黒い噂がつきまといました。

もし落書きがそこを突いていたとしたら、「完璧に作り上げた虚構」を現実によって”穢された”ことになります。

この蛮行は、彼の肥大しきったエゴの「表現型」だったかもしれません。

異父弟妹惨殺事件(天正17年/1589年)

秀吉の母・大政所は、生活のために再婚を重ねていたとも伝わります。

ルイス・フロイス『日本史』には、彼が(一般には知られていない)異父弟妹を殺したと記されています。


──ある日、弟と名乗る人物が現れました。
真偽を問われると、母は認めることを恥じました。
婚姻と呼ぶにはためらわれる関係があったからかもしれません。

秀吉は男の言葉を否定し、その場で斬首。
数カ月後、”妹”を甘言で呼び寄せ、同じく斬首しました。

見知らぬ親戚が現れたのは、前代未聞の出世を遂げたからこそです。
その処刑には、同じ事態を防ごうとする意図があったでしょう。

また、フロイスは宣教師であるため、その人物評価はキリスト教への態度に左右されます。
「伴天連追放令」を発布した秀吉の評価は”ボロクソ”であり、この記述には誇張の可能性も指摘されています。

しかし、これが事実であったなら、その「弟妹」は、出世によって塗り替えたはずの過去を体現する存在に他なりません。
彼らがいる限り、それは常に暴かれる危険をはらんでいます。

この「不都合の抹消」にも、エゴの影が見て取れるかもしれません。

秀次切腹と一族の惨殺(文禄4年/1595年)

國學院大学教授・矢部健太郎氏は、秀次が自ら出奔した可能性を指摘しています。
また、切腹は秀次自身の意思であり、秀吉は本来、禁固刑にとどめる意向だったとみています。

もしこの説が正しければ、「秀吉が秀次に切腹を命じた」とする従来の説とは異なる構図になるでしょう。


ともあれ、秀次は高野山で切腹し、その首は罪人の刑場である三条河原で晒されました。

首は西向き――浄土の方角に設置されます。
それは「たとえ極楽を向こうとも、お前は(わしが定めた)罪人であり、成仏は許されぬ」という、強烈な呪詛とも読めます。

その首の前で秀次の一族が次々と処刑。
屍が投げ込まれた大穴は「畜生塚」と名付けられ、その頂には秀次の首を納めた石堰が据えられました。

極めつけに、秀吉の生前、彼らが供養されることはありませんでした。


残虐性の限界と「致命的な脅威」

このように、上記の事件は秀吉の「肥大したエゴ」を守ろうとした結果とみることもできます。

ただ、秀次事件と、次に取り上げる利休事件には、欠損という軸だけでは説明しきれない過剰さがあります。

そこには、図1で示した「庭」が関係しているかもしれません。


次回:


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