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掌編小説|迷子


人混みに溶けるということは、思っていたより簡単だった。

河川敷へ向かう人の流れに足を合わせる。去年、あの人と約束した花火大会へ、私は一人で向かっている。

冬に別れてから、一度も連絡は取っていない。

首元の伸びたTシャツを指で引っ張った。今年は浴衣を着なかった。期待して来たと思われるのが嫌だったからだ。

誰に。
たぶん、あの人に。

いや、本当に嫌だったのは、期待していることを自分で認めることだった。

浴衣の袖が腕に触れる。知らない人の体温が一瞬だけ肌へ移り、また離れていく。はっとして反射的に肘を引いた。触られた皮膚が、そこだけ変に冷たい。

どこを見ても浴衣。浴衣。浴衣。

そういう私も去年は浴衣を買った。正確には、買ってもらった、だったか。

半分ずつ払ったんだった。

あの人が金魚柄を指して「こっちの方が似合う」と言って、私は「じゃあそれで」と答えた。

私は金魚。あの人は七宝。

あの浴衣は、今もクローゼットに掛かったままだ。

来るわけがない。そう思いながら、去年決めた待ち合わせ場所へ向かっている。

「あ、」

七宝が屋台の向こうへ消える。
私は足を速める。
脇道まで追う。

誰もいない。

私は来た道を戻り、人の流れにもう一度身体を押し込んだ。

焦げた醤油の匂いが風に乗る。焼きとうもろこしだろうか。綿菓子の甘い匂いも混ざる。

匂いというのは、不公平だ。顔なんて簡単に忘れるくせに、匂いだけは勝手に去年を連れてくる。

そう思ったけれど、たぶん違う。

私が勝手に戻っただけなのかもしれない。

「迷子にならないでね。」

呉服屋の鏡越しに、あの人は笑った。

迷子。
あれは誰のことを言っていたんだろう。私だったのか。
それとも。

考えてみれば、花火大会で本当に迷子になる大人なんて、そうそういない。

あの人は比喩で言ったのかもしれない。……そんなわけないか。あの人は比喩なんて使わない。

カタカタ、と下駄の乾いた音が鳴る。ふわっと、甘い匂いがする。

七宝。
いる。そう思ってしまった。

息が止まる。
私はスニーカーの底を擦る。
人を押し分ける。
肩が見える。

その肩に触れようとして、指先が空を切る。振り返ったその顔が視界いっぱいに広がる。

違う人だった。

知らない男は隣の恋人の手を握り直し、そのまま人混みへ溶けていく。

私は短く息を吐く。

「ちょっと、どいて」

しばらく同じ場所で立ち止まってしまった。後ろから歩いてくる人たちの肩が私のあちこちにぶつかり、通りすがりに睨まれる。止まるのは、悪いこと。肩に残った痛みが、そう言っている気がした。

「すみません」

私は視線を落とし、また歩き始めた。

河川敷へ出ると、川面が夕焼けを細く揺らしていた。

風が少しだけ涼しくなる。向こう岸の草が一斉に倒れて、また起き上がる。去年の風もこんな風だっただろうか。思い出そうとして、やめた。草はもう、別の形で揺れている。


ドーン。
腹の底へ低い音が落ちる。人々が一斉に立ち止まり、暮れかけた空を見上げた。

前のカップルが立ち止まり、道を塞ぐ。二人の背中は、思っていたより簡単に壁になった。

突然の音に、私は無意識に伸びたTシャツの裾を両手で握りしめていた。爪が指の腹に食い込む。

私はカップルの間をするりと抜け、歩いたまま、足元を見る。かかとの擦り減ったスニーカー。薄くなったゴム底越しに、昼の熱がまだ残るアスファルトを感じる。

花火より先に、地面の方が近かった。

あの人の笑い方。
歩幅。
靴を脱ぐときの、爪先の向き。
思い出せると思っていたものほど、輪郭から崩れていく。

花火がもう一つ開く。赤い光が川へ落ちて、細かく砕ける。人混みは歓声を上げる。

その向こうに、七宝が見えた。

まただ。
今度こそ、と足が前へ出かける。
甘い匂いがする。
去年の匂いだと思った。
私は立ち止まる。

そのとき、視界の端で屋台のおじさんが鉄板へ醤油を垂らした。

ジュッ。焦げた醤油に、隣の屋台の綿菓子の甘さが混ざる。

人の波が横切った。もう一度顔を上げたとき、七宝は見えなくなっていた。

浴衣の袖が腕に触れる。知らない人の体温が一瞬だけ肌へ移り、また離れていく。今度は肘を引かなかった。

去年と同じ匂いだと思った。
去年も、本当にこんな匂いだっただろうか。
……そう思うことにした。


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