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短編小説|白い膜


 課長は、内容証明が届くと必ず先にコーヒーを飲む。その日は決まって、コーヒーの減りが遅い。

 私は総務課へ来るまで、その理由を知らなかった。

 薄い封筒よりも少しだけ重みのあるそれを、いつも通り総務課長のデスクへ置く。

「また?」
「はい、たぶんそうです」

 課長は送り主が表記されているあたりをちらっと見てから、封を切る前にマグカップの中のコーヒーを飲んだ。

 たぶんそうです、と答えたけれど、何が「そう」なのかは分からない。ただ、それを読む人だけは、少し静かになる。

 自席に戻ろうと踵を後ろへ引いたとき、課長が封筒の中からホッチキスで留められた紙の束を取り出した。

 課長がページを捲った拍子に見えた紙には、読む前から疲れそうなほど文字がびっしり並んでいた。見るつもりはなかったけれど、読むために書かれた文章というより、証拠として並べられた文字に見えた。

「鈴木さんの欠勤届、今日出てる?」
「鈴木さんのですか?今日は出てないような気がしますけど」
「気がするでは困るねん、ちょっと確認してきて」
「分かりました」

 言われるがまま、申請書やら何やらが保管されているファイルと、パソコンのメールの履歴、それから最近、スマホのトークアプリでも申請ができるようになったらしいので、それも確認した。

 どこにも見当たらない。

「課長、ほんとにないです」
「今日以外の分は出てる?」
「えー……昨日の分はありました」

 そう言って、トーク画面を印刷したA4の紙を課長に渡した。そこには、鈴木という名前が記載され、その下の欠勤理由については、「体調不良につき、病院」とだけ書いてあった。

「もう総務に慣れたか?」
「お腹減ったら上に食べにおいでや」
「ここ最近、雨が続いて売り上げ悪いわ」

 私が総務課に来て三ヶ月、社員用駐車場の奥に進んだところの角っこが私のスペースで、その隣が鈴木さん。そこからバックヤードまでの道のりを、よく並んで歩いた。だからと言って、仲がいいわけでもなく、あの人の事情なんて私は知らない。

 午後になると、課長はネクタイの形を軽く整え、三回くらいため息を吐いてから人事部に書類を持って行った。

 人事部は隣のフロアだけれど、わりと長いこと話していたらしく、戻ってきた時には、課長のデスクに置きっぱなしのコーヒーはとっくのとうに冷めていた。

 翌日から、ホテル内のあちらこちらで、鈴木さんの名前が飛び回った。

「鈴木さん、何したんやろうなあ」
「でも、ホテル側がなんか言われてるんじゃないの?」
「いやあの人、なんか変やったやん、だんだん腰も曲がってきて」
「それは関係ないやろ」

 具体的な内容は分からないし、「それ何の話?」と聞いてしまうと、話が長くなりそうな時ってあるもんで、私は端っこに立って雑談している社員たちから顔を背けるようにして、ととと、と踵を持ち上げて走った。

「今日も休み?」

 朝礼後、課長はポットを抱えたまま、私の後ろで立ち止まった。

「鈴木さんですか?はい、休みですね。有給申請になってます」
「そう来るよな、もう三日目か」
「はい。なんかあったんですか?」

   振り返ると、課長がちょうどポットを傾けたところだった。じょろじょろと流れの悪い注ぎ口から黒い液体が細長く伸び、課長のマグカップに吸い込まれていく。

「そこの棚の一番端のファイル取ってみて」

 課長がポットをデスクに置き、ファイルだらけの棚を指さした。指定のファイルを取り、中身を見ると、そこに鈴木さんの「減給通知書」の控えが挟まっている。

「減給ですか」
「うん」
「急にですか?」
「いや、ちょっと上とトラブルがあって」
「どんな?」

 これは聞いたほうがよさそう、そういう雰囲気が、私の近くに座っている社員の座り方で分かる。みんなが知りたがっているんだから、代表して聞きなさい、そういう、ちょっと前のめりだけれど、こちらへは視線を向けまいとする座り方だ。

「うーん」

 課長はこのやり取りを何度もさせられたのか、肩を一瞬後ろに下げては、長い息を吐いてから口を開いた。

「味付けのクレームとか続いてな」
「へえ、」
「最終的に、料理長降りてもらうことになって」

 傍で聞き耳を立てていた社員たちも、なんだそんなことか、とでもいうように首をぐらぐら動かして、自分の業務に戻っていく。

「あとは、まあ、いろいろ」

 課長は目を半分くらいだけ閉じ、眉尻を下げた。誰かが何かを知っている時は、決まって眉尻が下がる。とはいえ、私には、よくある話にしか見えなかった。

 次に誰かが転べば、噂も一緒に移っていく。

 鈴木さんが来なくなって一週間。その日、デスクの固定電話が鳴ったのは、就業時間を迎えてすぐのことだった。

「お電話ありがとうございます、芦田と申します」
「弁護士法人杉松法律事務所の榊と申します」
「すみません、もう一度お願いします」

 長すぎて聞き取れない。メモをとる手も覚束ない。

「内容証明に関する件でご連絡いたしました」

 あいにく代表へ繋げる時間じゃない。かと言って私がすべて把握していると思われて、いきなりこの電話で法律の話を始められたら困る。急いで伝言だけ預かる判断に切り替えた。

 平仮名で「さかき」と記した付箋を、課長のデスクに貼った。案の定、課長はそのメモをざっと流し読みしてから、デスクの端、少しでも風が吹けば飛んでいきそうな位置に置いた。

 私の勤めているホテルはチェーンではない。一応社長はいるけれど、毎日ホテルに出向くのは支配人なわけで、出勤してきたばかりの支配人は、課長からメモを受け取るなり眉間をポリポリ搔いていた。

「俺何した?」

 支配人の呟きは、この総務課の人の波やコピー機の音に掻き消され、誰の耳にも届いていなかったらしい。だから私も、聞こえていないことにする。

 正午には役員会議が始まる。今は暑いから熱いお茶はいらないと言われたので、私は人数分、自販機で適当な缶コーヒーを買った。

 コーヒーをテーブルに並べて回る。支配人の前にブラックコーヒーを置いた時、いきなり顔がこちらを向いた。

「あかん……俺が飲み込まれそうや」

 言いながら、頭を搔きむしっている。彼はそのあと、結露のついた缶のプルタブを開き、飲めたのか飲めていないのか分からない程度の量を、ちょびっと口に含んだ。今だけは、そのスーツの艶が冷や汗に見えてならない。

「何にですか」
「空気や」

 もう危なそうな気がする。何にかは知らない。私はお盆を抱えたまま一度だけお辞儀して、そそくさと会議室を出た。

 すぐ傍にある窓の向こうがえらく曇天で、雨間近という天気だけれど、それよりもあの会議室のほうが、よっぽどどんより湿って重かった。

 オフィスへ戻ると、さっきまで椅子の背もたれにふんぞり返って談笑していた社員たちが一斉に振り向き、私の顔を凝視した。

「どんな感じやった?」
「空気最悪やった?」
「この職場どうなるんやろうなあ」

 こういう時に、何も知らない人間が口を開いては余計に物事がややこしくなると聞いていた。けれど私の口元にみんなが集中するもので、何か言わないと場が持たないような流れになってしまって、「こういう時は一杯やりたいね、と仰ってました」とだけ言って席についた。

「え?」
「……ん?」

 色んな場所から疑問符だけが飛んでくる。私は缶コーヒーを置いて回っただけだ。背中に一滴、冷たい汗が垂れ落ちた。

 そのあとは、何やら期待外れとでも言いたげな首の傾げ方や、社員同士が何度もちらちら目を合わせてまわる儀式の時間を過ぎ、ようやく仕事のモードに戻った。

 みんなが知りたいのは、支配人でも鈴木さんでもなく、話そのものなのかもしれない。だとしたら、たぶん私は、出す情報を間違えた。

「訴訟になった」

  そう聞いたのは、何日目だったか忘れたが、だいぶ経ったころだった。

「芦田さん!鈴木さんの退職届、持ってきて」
「処理済みです、判子ください」

 課長の手がパソコンから離れるのを待ち、左手をかざされてから書類を差し出した。朱肉をたっぷりつけた判子が、正方形の枠の中に綺麗に収まる。課長は判子をぐっと円を描くように紙に押し付けた。赤く強調されたその丸を手でぱたぱたと煽ぎながら、課長が言う。

「彼の代わりの人、来週から勤務することになったよ」
「そうなんですか、はやいですね」
「そやし、更衣室のロッカーの名前、貼り直しておいて」
「来週までにやります」

 私は、判をもらった退職届を、それ専用のファイルの一番上に乗せて綴じた。紙の端を親指で流すと、名前が何枚も続いた。

 ファイルを閉じた。

「そういえば、次の料理長、東京のホテルで働いてたらしいで」
「それほんま?」
「しかも、まあまあ若い」
「あんた結婚してるやん」

 後ろでは、もう新しい話。鈴木さんの代わりの人は、伊藤さん、というらしい。それだけメモして、私はそのまま更衣室に向かった。

 ずらっと並んだロッカーの真ん中らへんに、油性ペンで「鈴木」と書かれた白いテープが貼り付けられている。扉を開けてみたけれど、中はもう空っぽだった。


 ドン。扉を閉める鈍い音が、誰もいない更衣室に響く。

 テープを少しずつ剥がしていくけれど、どうしても、ねっとりとした白い膜が残ってしまう。爪でガリガリと削っても、なかなか綺麗に取れない。半分ほど取れたところで、私は諦めて、上から新しいテープを貼った。

 「伊藤」と大きく書く。

 爪には、白い膜だけが残っている。

 少し離れる。

 「伊藤」のテープは、真っ白だった。


──完──


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