掌編小説|映された私
「ねえ、私のこと、本当に見えてた?」
問いかけても、彼はすぐには答えなかった。ただ、ゆっくりと瞬きをして、私を見つめ返す。その視線は穏やかで、なにも変わらないように見えた。
「なんで、そんな顔するの?」
彼はようやく口を開いた。吐息だけで私の憂いをなぞるような、柔らかすぎる声だった。血色の良い赤い唇が、どうしても薄情に見える。
「あなたが見てる私は、本当の私?」
「君は、君だよ」
その曖昧さに気づいた瞬間、鳩尾のあたりから冷たさが逆流する。
落ちてきた雨粒は、徐々にアスファルトを自分の色に染めていく。そういえば、さっきから湿った匂いはしていた気がする。
私はそのすべてを遠くへ押しやって、その瞳の中だけに留まろうとしている。ピントが合うほど、彼が遠くにいるという事実だけが濃く映るのに。
「ねえ、私、どんな顔をしてる?」
彼は少しだけ考えるふりを見せたあと、静かに答えた。
「……綺麗だよ」
その言葉の輪郭は、もう掴めなかった。
「どうせ騙すなら、私が飽きるまで騙してくれればよかったのに」
言うつもりはなかったのに、口が先走る。
「騙したつもりはないよ」
わずかに目を細めた彼は、一度深く息を吸った。。
「……じゃあね」
私は踵を返して歩き出す。雨に濡れ切ったパンプスが、いつもより綺麗に見える。振り返らないと決めているのに、数歩進んだところで、一瞬だけ足を止めた。
それでも、もう戻らない。自分の足音が、徐々に小さくなっていく。
