埠頭の向こうに|シロクマ文芸部
港まで桜の花びらが落ちていた。
春先の紺碧の海面が輝いていた。
潮の匂いはもう慣れてしまって、鼻孔に届かない。やけに甘い匂いの感じたのは、春の匂いそのものだったのだろうか。
離島の桜は、本土より少しだけ早咲きになる。
島の両岸を暖流の対馬海流が流れているからだ。
港を望むように見下ろす丘に、豊漁を祈る神社がある。
境内に立ちつくす古木は、風に吹かれるたび、まるで雪のように花びらを落としていた。
彼女は埠頭に、赤いBROMPTONで現れた。
春先の軽装に、紅い革製のヘッドギアをかぶっている。BROMPTONには荷物が前後に満載になっていた。
「やっぱり、来てくれたの」
僕は息を切らして頷く。
知らされていなくとも。
どうしても、この瞬間、この場所に来たかった。
「この島、あの海、とっても好きだったの」
彼女はそう言って、視線を遠くに外した。
もう何度も聴いた声のはずなのに、その声には、どこか旅人の言葉のように聞こえた。
「次は、どこ行くの?」
僕が聞くと、彼女は少しだけ笑って、
「遠いところよ」とだけ答えた。
それ以上、聞かなかった。聞けなかった。
この日取りのことも彼女は僕に告げていない。
ただ離島では隠し事ができるはずもない。もう荷造りを終えて、離島便で荷物は送っていると聞いた。
最期に残ったのが赤いBROMPTONだけだ。愛車を畳んでフェリーに積み込んで、その遠いところに行くのだろうと思った。
「最期に、ちょっといいかな」
彼女の愛車を借りて、埠頭の周りを一周する。小さな車輪が、落ちた花びらを軽く踏んでいく。
「ねえ、これ、似合う?」
漕ぎながら声をかけた。
「うん、ずっと似合ってた」
その“ずっと”が、既に過去形になっている。
桜の花びらが、風に乗って海へ流れていく。
きゅ、っと彼女の正面に戻ってブレーキをかけて静止した。この島に一台だけ存在した、この赤いBROMPTON。

フェリーの汽笛が急かすように鳴る。
遠い島影の隅からゆっくりと入港してくる船が見える。
「じゃあ・・・」
と彼女は愛車を受け取って掌をあげた。
僕は結局、最後まで言葉を呑み込んだ。
また逢いにいくよ、その言葉が出せなかった。
桜の時期は駆け足で過ぎていった。
ただ、あの赤いBROMPTONだけが、今でも時々、夢に出てくる。
