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「あるべきようは」

あらすじ
 S県庁で、長らく障害福祉や保育など、福祉の仕事に取り組んできた沢田は、時には上司に逆らってでも自分の意見を通し、部下にも筋を通すことを求めてきたが、ひきこもりの息子・尭に対しては全く無力な父親で、妻の由美子に頼るだけの男だった。
 だが、ひょんなことから尭が農業に携わるようになり、沢田もその手伝いに狩り出されるようになると、自然や生き物との触れあいから尭の気持ちが安定するようになるとともに、家族で農作業の打ち合わせを重ねるなかで、沢田との関係も変化してくる。
 ひきこもりを脱して自立していく尭と、尭と向き合うようになる沢田、そして二人を支える沢田の妻・由美子の物語 



序章
第一部 退職までの数年間
第一章 障害者の就労支援センター
1 知的障害者の作業所の頃
2 就労支援センターの全県展開をめざす
3 ブリーフィングの前夜

第二章 入退院の繰り返し

第三章 病院でのワークショップ

第四章 初めてのトマト
1      はじめは家庭菜園から
2      新米農家になる

第五章 キッズガーデン
1 「保育の緊急整備3カ年計画」
2 「わくわくガーデン事件」

第二部 退職から現在まで
第六章 退職祝いは地下足袋

第七章 家族会議

第八章 農家としての自立をめざして
 
 
 序章
 「ところでさ、再就職しないんだって?」
内海さんが行きつけの蕎麦屋の2階で、酒が気持ちよくまわってきた頃、内海さんは聞いた。
「ええ、やっぱりね、この話だろうと思ってました。再就職はしないつもりです。」
 沢田は、答えた。
 内海さんは、沢田の、S県庁の福祉部の先輩で、2年前に福祉部長を最後に勇退し、今は県の関係団体の理事長に収まっている。
 この春、沢田も定年で勇退する予定であり、県の関係団体に再就職するのが通例なのだが、沢田はこれを辞退するつもりでいた。こういう話は内密の筈なのだが、内海さんぐらいになると、蛇の道は蛇、どこからか漏れていくのだろう。
 「あれかい? 安木さんとウマが合わないとか?」
 「ははは、そんなことはありません。どうも、そういう誤解が多いようですが、私と安木さんはウマが合わないなんてことはないですよ。そう見られてるみたいで困ってるんですよ。」
 安木さんとは現在の福祉部長で、内海さんの後任であり、沢田の直属の上司である。ただ、内海さんと沢田とは、同じ福祉畑の先輩後輩で、30年来のつき合いだが、安木部長は、いわゆる官房系の人で、事業畑の人間とは肌合いの異なるところがある。
「内海さんだから言いますが、実は、息子のことがありまして。」
「尭君といったかい。どうなの? 元気にしてるの?」
「ええ、どうにか、実は最近、農家の真似事のようなことを始めましてね。これが、なかなか大変そうで。私と家内が手伝いに駆り出されるようになったんです。」
「ふーん、農家って、コメでも作るの?」
「いや、尭の場合は、もっぱら野菜です。それが有機農業ってやつで、農薬も化学肥料も使わない。虫やチョウチョは来るわ、雑草は生えるわで、作業が大変なんです。泥んこになりますしね。」
「チョウチョが来ると楽しいんじゃない?」
「何をのんきなことを。葉っぱ食べられちゃって、野菜が売り物にならなくなりますよ。」
「そうか、農家からすれば天敵なんだな。でも、手伝いということは、フルタイムじゃないんでしょう?」
「そうなんですが、中途半端に、再就職しながらってのも気が進まないので、ここは思い切って辞めとこうと決めました。」
「なるほどねえ。でも、今の時代、農業自体、なかなか厳しいんじゃないの?」
「そうなんです。どう見ても構造不況業種でしょう。でも、ほんとにそれでいいのかなという気もしますね。」
「言葉は悪いけど、見殺しだよな。この国は農業をつぶそうとしているようにしか見えん。」
「一方でSDGsなんて言っておきながら、その実は環境保全もおざなりで。私もにわか勉強ですが、自然相手の生きもの相手ですから生産性を上げればいいなんて単純なものでもなさそうです。農林行政もいろいろとありそうですし。」
「ここでも、沢田さんの血が騒ぐわけだな。でも、そっちが嵩じて尭君の農業を邪魔しちゃいいけないよ。」
「まさに、おっしゃる通り。現役を勇退するわけですから、そこはわきまえてやっていきます。」
「それで、尭君自身の様子はどうなんだい?」
「ええ、それが農作業ってゆうか、自然に触れているのが大分いいようです。」
「そうか、そう聞いて安心しました。まあ、余計な心配は要らないということだね。」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。今度、野菜ができたら送りますよ。タマネギかナスか大根かな。」
「スイカは作ってないの?」
「ああ、スイカは結構難しいらしいんです。外からは中の状態が分からないので手を出しにくいんだとか。いつか、できたら送ります。」
「あはは、これは長期戦になりそうだな。」

第一部 退職までの数年間
第一章 障害者の就労支援センター
1 知的障害者の作業所の頃
 時は、先輩の内海さんと呑んだ数年前に遡る。
 沢田が、その2階建ての施設の玄関のドアを開けて中に入ると、昔と変わらない光景があった。左手に壁一杯の下駄箱、右手には事務室があり、受付の小さな窓が開いている。正面には2階に上がる階段があり、廊下はその奥の方につながっている。
 この空気は変わってないなと沢田は思った。小さな施設の沈んだ空気。職員や利用者のらしい声が聞こえてくる。何かの機械の音もする。
 同僚や利用者に混じって楽しいことは楽しかったけれど、でも鬱屈していたなあ。この先、自分はどうなるんだろうと不安でしかなかったし、退屈だった。
 ほぼ30年ぶりに、またこの玄関のドアを開けて、当時の気分がよみがえってきたのだが、同時に矢張り懐かしい。俺のささやかな役人人生もここから始まったんだと、珍しく感傷的な気分になった。
 
 沢田はS県の障害福祉課長に昇進し、県内の主要な障害者施設に挨拶がてら視察に行くことになった。これは課長が交代したときに通例として行われることで、視察先も大体決まっているのだが、沢田は、そこに、知的障害者の作業所を加えてもらうように頼んだ。
 沢田がまだ20代の頃勤めていた施設は、知的の障害が中軽度の方が60人、毎日自宅から通ってきて、施設で軽作業を行って工賃をもらうという作業所で、職員は生活指導員を中心に、事務職、自動車運転手、給食調理員、用務員等で構成されていた。
 沢田は、ここに事務職として配属されたのだが、小さな施設なので、事務の仕事量は大したことがない。余った時間は、障害者に交じって軽作業の手伝いをしたりレクに参加していた。
 作業は、12色の色鉛筆をケースに入れる作業が主なのだが、知的障害者には、これが1人ではできない。そこで、1人が2色並べてケースに入れて次の人に送り、次の人が3色目と4色目の鉛筆をケースにいれ、また次の人に送る。この作業を繰り返して、6人で1ケースが完成するわけである。
 ただ、中には異様に早い人がいる。受け取ったケースをそのまま次の人に渡しているように見えて、よく見ると、ちゃんと受け持ちの2本が間違いなく入っている。
 明らかに沢田より早い。そのうえ、綺麗に入っている。
沢田も負けじと急いでやってみるが、どうしても雑になってしまう。
「先生、それじゃだめだよ、もっと綺麗にね。」
 土屋君にまた注意されてしまった。彼は沢田より5,6歳年長で、30代前半だったが、作業所の中では、最も仕事のできる部類だった。周りにたいする面倒見もよくて、いつか仕事の帰りに沢田が駅前の居酒屋に寄ったときには、先に来ていた土屋君が、「先生も頑張るよね、先生は事務なんだって? これは俺の奢りだよ」と言って、ビールを1本奢ってくれたくらいである。利用者から奢ってもらっちゃ、きっとまずいよなあと思いつつ、自動車運転の矢部さんと2人で、そのビールを空けてしまった。
 そんな土屋君だから、指導員が頑張って、色々なつてを頼って、土屋君を民間の企業に送り出すのだが、数ヶ月すると作業所に帰ってきてしまう。
ああ、また駄目だったか、というのが指導員達の毎度の繰り言だった。
「何で、駄目なんですか?」
 沢田が、指導員の青木さんに聞いてみると青木さんが答えた。
「作業所ではエリートなんだけど、一般の企業に行ったらエリートじゃないよね。こんなことも知らねえのかと怒鳴られることだってあるだろうし。
でも、他の人みたいに経験してきてないんだから、もう少し気長にみてやってほしいと思うんだけど、企業からすると、そんな余裕はないってことなんだろう」
 
 彼らが作業所で働いて得る工賃は、当時の金額で5,000円くらいだったと思う。これでは、とても生活していけない、1ヶ月働いた報酬がわずか5,000円にしかならないのか、だが、そうは言っても一般企業で働くのは難しい、あの土屋君ですら通用しないというのだから。
 
 県立の知的障害者作業所は、県内に数カ所あったのだが、そこで働く指導員達の実践報告会というのが毎年行われていた。そこで、沢田も、その報告会に参加してみたいと岩田所長に、おそるおそる聞いてみた。事務職は、そんなのに出なくていいよと言うのが普通の所長だろうが、うちの岩田さんは話が分かりそうだから、いいよと言ってくれるかな。
すると岩田さんが言った、「ああ、いいんじゃない。ただ、青木さんと沢田君の2人行っちゃうと、麻雀のメンツが足りなくなるかも知れないから夕方終わったら電話ちょうだい。」
 その報告会で、沢田の印象に残ったのが、県南の作業所の取り組みだった。利用者を企業に推薦して送り出した後、指導員が企業を随時訪問して、利用者の仕事ぶりを聞いたり、何か問題があれば、フォローもしているという。障害者の場合、どうしても調子の波が大きくて朝、会社に行くことがつらいことがある。一方、会社にとっては、これが一番困る。そこで、指導員が企業訪問をすることによって両者の橋渡しの役を果たしているという。
企業を訪問すれば、軽く1日がつぶれるだろう、本来業務に支障はないのか、という質問が他の作業所の職員から出ていたが、いや、これも本来業務の一部だ、もちろん作業所にいる他の指導員に負担はかかるが、皆で分担してやって、外部訪問する人を固定していないので、全体の理解は得られている。ただ、全体としての負担が増えていることは間違いない、と答えていた。
 なるほど、指導員全体で就職後のフォローをするのか、これは面白いと思ったのだが、青木さんの反応は違った。
「あの報告をした大槻さんという人が熱心なんだよ。でも、大槻さんも言ってたよね、全体の負担が増えているって。それで色々言う人もいるんだ。苦労に見合うだけの成果が挙がっているわけでもないらしいし。」
実際、雲をつかむような話だと思う。12色の鉛筆を何人かで箱詰めしている現状と、会社や工場で働くことの落差、これをどう埋めていけばよいのだろう。指導員がフォローするといっても、限度があるだろう。ないよりはましだろうが、本筋ではない。これでいいのかなあという物足りない気持ちを抱えつつ、利用者との楽しいやり取りに気を紛らせる毎日だった。
 
 それから程なく、沢田は転勤することになり、この課題からも離れることになったのだが、障害福祉課長になって当時のことを思い出し、久しぶりに訪ねてみたいと思ったのである。
そして沢田が驚いたことに、大槻さんが、まだ作業所にいたのである。沢田は大槻さんのことをよく覚えているが、大槻さんにとっては、沢田は、報告会に話を聞きに来た職員たちの一人にすぎない。
「始めまして、30年ほど前、実践報告会で大槻さんの報告を拝聴しまして、指導員全体で就労をフォローするというお話に感激しました。実は、今も作業所でお仕事されているとお伺いして感銘を受けました。」
「いや、始めまして、ご丁寧に恐縮です。私など、馬鹿の一つ覚えで、いつの間にか就労支援一筋になってしまいました。なかなか思うようにはいきませんが、それでも、少しづつ周りの理解も広がっているのかなと自分に言い聞かせています。」
 大槻さんと初めて面と向かって話し合って、大槻さんの髪が大分白くなっていることに気がついた。もう60歳近いのだろうか。
沢田は、作業所を出てから、その後は、係長、課長補佐、そして課長と、県庁のなかで人並みに職歴を重ねてきた。福祉の仕事にこだわって、上司の不興を買うようなこともあったが、そのようなことの一つや二つは誰にでもあること、自分は恵まれていたと思っている。
 一方、今、目の前にいる大槻さんは、ずっと作業所だけの人生、しかし、障害者の就労支援というテーマを追い続ける職業人生である。こういう生き方もあったのか。
 自分にはできなかった。今からやってみるかと聞かれても、やるとは言い切れないが、それでも、こういう風に生きた人もいるのだと思うのである。
 
2 就労支援センターの全県展開をめざす
 S県では、3年に1回、障害者計画を更新する。沢田の仕事の一つは、新たな計画を作ること、それは端的に言えば、新たな計画の目玉事業を作ることだった。
沢田には、手がけたい腹案があったが、そのことは伏せておいて、各係長や関係団体のヒアリングから始めた。
その結果、分かったことは、障害者団体の体質は昔と変わっていないということだった。
 障害は、身体障害、知的障害、精神障害の3種類に分かれ、身体障害は更に肢体不自由、内部障害、重症心身障害などに分かれている。それぞれに、その障害当事者や家族による団体があり、それぞれの団体と行政が個別に支援の協議を行っている。
 障害の種類が違えば、生活していくうえでの困難や課題も違ってくるので、それを支援するためには個別の協議が必要なことは言うまでもないが、残念なことに、そこにとどまっていて、相互に横の連絡がほとんどないのである。
 だが、それだけでよいのだろうか。障害をもつ人ももたない人も、ともに地域で暮らすという考え方を実現していくためには、障害者団体も、もっと横に連帯して、何らかの大きな課題に一緒に取り組むという構えがあってもよいのではないか、というのが沢田の思いなのだ。
 唯一、沢田の印象に残ったのは、ある団体の代表の言葉だった。
「自分が障害者だと知ったのは、高校生になった時です。それまでは、自分が障害者だと意識したことはなかった。高校生になり、母におんぶされて電車で通うようになったら周りから笑われて、初めて自分は障害者だ、他の人とは違うんだと気がついたんです。」
 この人の名は毛利栄一さん、東京は葛飾柴又の生まれ。骨形成不全といって、生まれつき骨が弱く、毛利さんの場合は足も弱かったので歩くのも不自由だった。
このため、お母さんがリヤカーに乗せて学校に送り迎えしたという。柴又の人たちは 「栄ちゃん、お早う、今日も自家用車で学校かい?」と声をかけてくれたので、いつもいい気分だった。それが高校は遠くてリヤカーでは無理なので電車で通うことになったら、電車のなかでおんぶされているのを笑われたそうなのだ。
 「だから、障害というのは、周りの人がどう受け止めるかだと思うんですよ。地域で暮らす仲間として普通に接するか、自分とは違う者として目を背けるか。」
 毛利さんは、自分が子供の頃の柴又には、そんな地域の生活があったという。でも、今住んでいるS県のS市にはそういう雰囲気が乏しいとも言った。
 「私は小さな塾をやっているけど、それこそ個人経営の塾ですけど、ここに通ってくる子供たちは、何か一人ぼっちで元気がない。でも、ここにいる間はホッとすると言っている。そして、ここで遊んでいると、そんなに勉強しない子でも、学校の授業の中身が少しづつ分かるようになる、って言うんですよ。学校だと、どうしても急き立てられるからでしょう。考えたりするペースは人それぞれなのに、待ってくれないんですよ。
学校は安心できる場所ではなくなって、それどころか、子供によっては緊張する場になっちゃってるんです。」
 
 そして、大槻さんの言うとおり、障害者の就労支援は捗々しくは進んでいなかった。大槻さんたちの努力もあって、県立の作業所には就労支援センターが新設され、専任のスタッフがおかれるようになっていたのだが、如何せん、県内に6カ所の支援センターでは物理的にも限度がある。1つの支援センターが複数の市を担当しているようでは、スタッフの数を今の何倍にもしなければ実のある仕事はできないし、移動時間ばかりが長くて効率も悪すぎる。
 こういう状況を打開していくためには、全ての市にセンターを設置して就労支援の体制を強化していくことが有効だろう。その場合、設置主体は県ではなく市にする。
 つまり、県内の30市が障害者の就労支援センターを設置することにし、県は、市の設置を財政的に、また技術的に支援するとともに、町村部は県が引き続き担当するという構図に変えるのだ。
 沢田は、障害福祉課の総括課長補佐の新谷と計画担当係長の園田を呼んだ。
 3人で相談してみると、新谷補佐は、「障害者の就労支援は重要な課題です。障害のある人とない人の交流を深めていくために、就労の場を広げることはとても重要な視点だと思います。しかし、課長もご存じのように就労支援センターは、実際にはあまり成果が挙がっていない。こういう事業は地域密着の方がうまくいくと思うので、市の設置に変えていくというのは有効な改革だと思います。
 ただ、重度の障害者団体は、なかなか乗りづらいだろうと思うんですが、その辺の感触はどうでしたか?」
「うん、正にその通り。就労支援を強化するのはいいが、逆にそのために、就労できる者とできない者という区分けができてしまうのなら断乎として反対すると言ってたよ。これは予想した通りで、勿論、そんなことを考えているわけじゃあないと説明してきた。
 自立の基本は自分のことは自分で決めるということ、自己決定であって、経済的に自立できるかどうかで決めるべきじゃあない。
その基本的なスタンスを明確にしたうえで、就労という切り口を、色々な障害者が社会に参画していく起爆剤にしたいんだと話したら、そういう構えが明確なら反対する理由はありません、大同団結すべきでしょう、と言ってくれた。
 まあ、時間はかかったけどね。最後は、あんたという人間に賭けると言ってくれたよ。」
「そうですか、それを聞いて安心しました。そういう大きな視野をもっているということは敬服すべきですが、それは反面で、それだけ長いこと、社会のなかで無関心や無理解と闘ってきて、団体の皆さんが鍛えられてきたということでしょう。そう思うと複雑ですね。
ところで、そういう理念は理念として、庁内調整のことを考えると、県職労は何だかんだ言うでしょう。」
「当面は、同時並行で行って、全市の広がり具合を見ながら、県立の方は段階的に縮少していくというのはどうかな?」
「その辺が落とし所かも知れません。逆に、職員課からは、早くはっきりさせろと言われるかも知れない。」
「財政課の方はどうだい?」
この質問には園田係長が答えた。
「市という基礎的自治体の役割の拡充という大義名分があって、実際には県の固定費が減るわけですから財政課はウェルカムですよ。市町村課は、ちょっと微妙ですが、表向き反対はしにくいですよね。」
「微妙っていうのは、どういう感じ?」
「同じ市と言っても30もあると力量に大分差があるので、手柄をあげたい市もあれば、できれば後回しにしてほしい市もある。市町村課に泣きつく市も出てくるかもね、です。」
「なるほどね。ところで、親父はどうだい?」
親父というのは福祉部長のことである。
今の内海部長は、沢田と同じく、言わば福祉一筋の人で数年先輩にあたる。内部調整に長けた人で、沢田のような直情径行型とは対照的なタイプである。部下の面倒見もよいので職員からも慕われていて、親父で通っている。
ここで、新谷補佐がやおら切り出した。
「実は、そこが私も気になるところです。率直に言いますが、課長、怒らないで下さいよ。
 障害者計画の目玉と言えば、普通は、いや、普通ということはないか、これまでの例を見ればということですが、義肢装具の研究センターとか、重症心身障害児の療育センターとか。」
「あはは、そこまで言われれば分かるよ。確かにそうなんだ。部長もそういうことはしっかり頭に入っているだろうからな。」
ここで園田係長が切り返す。
「でも、これからの時代、障害者福祉を充実していくためには、地域を固めていくことこそが大事なんじゃないでしょうか。いつまでも箱物の時代ではないと思いますが。」
あわてて新谷補佐が説明する。
「いや、勿論そうなんだよ。ただ、私が言っているのは、部長がどう考えるかということなんだ。」
「だから、そういう部長を説得するのが僕たちの仕事でしょう!」
ここで沢田が引き取る。
「まあ、そう無気になるな。そういうところが園田君のいいところだけどな。
 うん、確かに地味だよな。地域の相談支援体制を充実することは重要だって言えば、反対する人はいないだろうけど、それが目玉なの?映えないよねって言われちゃう気もするんだよ。
でも、2人と話してみて、私も腹が固まった気がする。今回はこれで行ってみようか。
それで、園田君には宿題だ。これまでの就労支援センターが必ずしもうまくいってないとして、その原因は何か、今回、提案する支援センターはここをポイントに改善するという作り込みをしっかりやっておくこと。パワーアップしたものを地域に手渡したいからね。」

 だが、口ではこう言ったものの、沢田には力が足りなかったという口惜しさも残った。実は、沢田が手がけたいと思っていたのは、精神障害者の訪問医療チームの創設だった。
 現在の精神科医療は、地域の通院のためのクリニックか入院かという2本立てだが、その中間が手薄であって、精神障害者が地域で調子を崩したときに、いきなり入院するのではなく、その手前でケアする体制が必要ではないかという考えなのだが、家族会など関係者へのヒアリングでは何も挙がってこなかった。
 そこで、沢田自身が精神保健課長(精神科医のポスト)と個人的に話し合ってみたのだが、何を、素人がトンチンカンなことを言ってるんだと言わんばかりの対応だった。この牙城を切り崩すのは容易でないだろうとは覚悟していたが、想像以上だった。これは、次の機会かなと思うしかなかったのである。

3 ブリーフィングの前夜
 いよいよ明日が部長ブリーフィングという夜、計画担当と総括のラインが残業しているときに、課長席の電話が鳴った。
「はい、障害福祉課長の沢田です。」
「お父さん、私です。尭がおかしくなって、すぐに帰って来て!」 妻の由美子が電話してきたのだが、その声がうわずっている。
「すぐにと言っても、今、みんなで残業しているんだ。どんな感じだ?」
「尭が暴れて。今、警察に来てもらったところなの。」
「けいーー」 警察と言いそうになって、思わず口を閉じた。沢田が急に声をひそめたので、総括補佐の新谷が異変に気がついたらしく、あらぬ方を向いている。
「明日、部長に大事な報告があって、今、課の皆で残業して最後のまとめをしている。そっちで何とかならないのか?」
「警察の人が、早く帰って来てほしいと言ってます。」
「そうか、うん、分かった。」 そう答えて電話を切った。
「新谷さん、ちょっといいかい? 実は、ちょっと息子の具合が悪いようなんだ。」
新谷補佐は、矢張りもう察していたようで 「課長、何か事情がおありのようですね、早く帰って下さい。後は、我々でやっておきますので。」
「すまん。」
沢田は、新谷補佐に、力なく頭を下げた。

 それから30分ほどして帰宅してみると、その光景に沢田は仰天した。
数人の警察官に尭が抑え込まれている。警察官は皆、いかにも屈強な感じだが、その数人が必死で抑えつけている。尭一人に、そんな力があるのか。
そこに一人立っている警察官が沢田に話しかけてきた。沢田は、話しかけられるまで、その警察官がいることにも気がつかなかった。
「お父さんですか。K署の者です。ご本人の安全のため、最寄りの精神科病院に護送したいと思いますが、ご了解が必要ですのでお待ちしていました。心当たりの病院があれば、そちらまで護送します。それから、護送途中の安全のため、身柄を拘束することをご了解下さい。」
 この人は、慣れているのか、落ち着いていて、説明に淀みがない。
幸い、かかりつけのA病院で緊急入院を受け入れてくれることになり、病院まで護送してもらって、尭は、またA病院に入院することになった。
取りあえず、病院で緊急入院の手続きをし、詳細は明日以降ということになったので、沢田と由美子はタクシーで家に帰ることにした。
 もう真夜中だが、沢田が、県庁の障害福祉課に電話してみると、新谷補佐や何人かの職員がまだ作業で残っていた。明日は出勤するというと、新谷補佐が、「明日のブリーフィングは10時30分からになりましたので、それまでにお越し頂ければ大丈夫です」と言ってくれた。涙の出る思いだった。
 
 最後のチェックもしないままで、俺は部長にのうのうと説明するのか、と思いつつ、それでも資料をまとめてくれた部下のためにも、首尾よく説明してこそ課長だろと気を奮い立たせて説明に臨んだ。
もっとも、そんなことは部長は知らない。
案の定、部長の受け止めは渋かった。
「説明は分かったけれど、これでお終い?」
「はい、そうです。」 沢田は憮然として答えた。
「そうか。」と部長は考えこんでいる。
一呼吸、置いて、沢田が言った。
「宜しいでしょうか。」
「そうだなあ、分かりました。」
「有り難うございました。」と沢田が締めくくり、ブリーフィングを終えた。
 
 だが、部長室から出てくると園田係長が言った。
「反対しないということはOKしたということです。」
沢田と新谷が驚いたことに、園田は部長に対して熱弁を奮ったのだ。
「障害を持つ人と持たない人がともに暮らすということは、具体的には日常的な交流を増やしていくということです。今の施設は、知的障害の施設、身体障害者のスポーツセンターなどのように、障害者だけの施設になっていて、一般の人は、自分には関係ないものと思っている。これじゃあ交流は生まれません。
図書館や公園のように、誰もが普通に使って、普通に出会いがあり、交流が生まれる。これが当たり前にしていかなければいけません。
私は、夜、市民プールに行くことがありますが、この間、ふと気がついたら目の前を、片足の人がクロールで泳いでいた。そして、私より速かった。これだと思いました。
 そして交流の場という意味で一番遅れているのが働く場です。学校や、文化やアートやスポーツでは、それなりに交流が進んでいる。
でも、仕事では無理だと皆、思い込んでいる。障害を持つ人が一緒に働くのは土台無理な話と皆、思い込んでいるんですが、現場の実態を知らない場合が殆どです。
 例えば、アパレルのバックヤードでは、商品を一番綺麗にたたみ直すのは障害者だとか、IC基盤の工場で検品するときに、一瞬で全体を把握しちゃうのは障害者だとかという実例があるんです。そんなことも知られていません。勝手に無理なことと決めつけて、実は可能性を奪っているのかも知れない。
 だから、一緒に働くチャンスを増やすことが、今、最も必要なことだと思います。」
 
「あはは、園田君も逞しくなったなあ」 新谷補佐もほっとしたようだった。
「うん、園田君の勢いに親父も圧倒されてたね。熱が人を動かすんだって、今日は思ったよ。」
 
 
第二章 入退院の繰り返し
 尭が最初、調子を崩したのは予備校に通っている時だった。
尭が相談したいことがあるみたい、と由美子が言うので、どうした?と聞いてみると、
「うん、ここんとこ、何だか気分がよくなくて。それでネットで調べてみたら心療内科のクリニックに行って見た方がいいって出てきたんだ。」
「何だ、そういうことなら、早く行った方がいいね。」
 そして、尭がクリニックに行くと、精神科の病院を紹介され、その病院では診察した後、即入院ということになった。
後になって、担当の看護師さんから聞いたところでは、「小鳥が震えているみたい」と感じたという。対人関係での不安がとても強いという診立てだった。
 調子を崩したきっかけは、授業中に先生から指されて答えた内容が見当違いだったのを周りから爆笑されて、学校に行くのが嫌になってしまったことだというが、そんなことは誰にでもあること。
だが、尭の場合は、それをきっかけに、高校生のときアルバイト先のレストランで先輩にいじめられたことや店長に叱られたことが次々に思い出されて苦しくなったのだそうだ。
 取りあえず、尭はストレスケア病棟というところに入院することになった。
 その病棟は、病名も年齢も色々な人が入るところのようで、尭の様子もそれほど深刻なようでもなかったので、当初、沢田は、尭の病気がそれほど長期化するとは思ってなかった。
 ところが、退院しても、家に閉じこもりがちになって、毎年のように入退院を繰り返すようになっていったのである。
比較的落ち着いているのかなと見える時などに、由美子が「高校の時のお友達に電話してみたら」とか「気晴らしに散歩でもしてきたら」と声をかけてみるのだが、「会いたくねえよ」とか「面倒くせえ」と言って自分の部屋に籠もってしまうのだ。
 そんなある日、沢田が2階の自分の部屋から降りていくと、尭はリビングのソファに寝そべってスマホをいじっている。
 沢田が、どう言葉をかければいいのかと迷っているうちに、尭の方から言葉が飛んできた。
「気に入らねえんだよ、その目つきがよう。」
尭が睨んでいる。
そうか、とだけ呟いて沢田は、また2階の自分の部屋に戻った。
下では、ドンという音がしている。尭が、また何かを叩くか、ぶつけるかしているのだろう。
 また、こんなことの繰り返しか、いつまでこんなことが続くのかと慨嘆するばかりで、沢田にはなす術がなかった。 県庁のなかでは、いっぱし福祉の専門家で通っているのに、家庭では、無力な男にすぎない。
 反対に、こんな時は、由美子の方が強い。
尭が暴れても、「私は怖くないの」と言っている。事実、尭が向かって行っても、由美子は平然としていた。
 
 だが、尭が暴れる時は、気持ちのうえで煮詰まってきているので、入院が必要な状態まできているのだ。そして、入院すると、大体3ヶ月くらいは入院することになる。
 家で暴れてやむなく入院という場合には、入院直後は保護室に入れられることが多い。保護室にはベッドと部屋の隅にむき出しのトイレしかない。
当初は、鎮静化のための強い薬が大量に処方されて、1日中ボーッとしているようになる。それが、1週間、2週間とたつうちに、少しづつ薬の量が減らされていき、普段の会話ができるまでに回復していく。そして、それと合わせて行動半径が広がってゆく。
 保護室から、最初は病棟内で5分ほどの面会、次に病棟に付設の面会室で面会、病棟を出て病院の敷地内の広場で15分ほどの散歩、病院の近辺散歩という具合いに広がっていく。病院の近辺まで許可されれば退院が近い。回復具合いを見ながら行動半径が段階的に広がっていくわけである。
しかし、退院して自宅に帰ったとしても、薬がまだ多量に処方されているため、しばらくはボウッとしている状態が続く。入院前の状態に戻るためには、更に1ヶ月くらいかかる。
 退院後の落ち着いた状態が1日でも長く続いてほしいと、毎回思うのだが、1年持つことはなくて、半年くらいでまた入院の繰り返しなのだった。
 
 沢田と尭の間には、ほとんど会話がなかった。
だから、というわけでもないが、家族との面会が許されるようになって、沢田が替えの衣類などを持っていっても、いざ面会室で待っていると、尭が出てきて、荷物を確認して、「はい、解散」とだけ言って病棟の中に戻ってしまうのだった。
1時間もかけて面会に来ているのに、これかと思いながら、でも、特に話すこともないなと自嘲するしかないのだった。
 
第三章 病院でのワークショップ 
 尭がお世話になっている病院では、患者の家族のワークショップが開かれていた。数人の家族が車座になって、それぞれの体験や思いを語り合うというものである。
 精神障害者を抱えた家族は、地域で孤立しがちである。悩み事を相談したり愚痴をこぼしたりしたくても、そのようなことを聞いてくれる人はまずいない。いきおい、家族は自分たちだけで抱え込むことになり、家族も精神的に疲れを溜め込んでいく。
 そのような家族にとって少しでも助けになればということで、この病院では語り合う機会を作ってくれているのだ。
尭との関わり方に思いあぐんでいた沢田も、このワークショップに思い切って参加してみることにした。当日、病院に行ってみると研修室という広い部屋に案内された。7~8脚の椅子を丸く並べたかたまりが5つある。そのうちの一つに案内されて沢田は着席した。
 沢田のグループは5人で、沢田以外は、皆女性だった。お互いに初対面の人ばかりのようで、まだぎごちない雰囲気である。
最初に、まとめ役のスタッフが、話の進め方を紹介する。
どんな話をしてもよいが、ここで聞いたことは外では話さないこと、ほかの人の話したことを批判しないことだそうだ。そして、スタッフは、自分の隣に座っている人から順番に話して下さいと隣の人を促した。
 最初の人(Aさん)は50歳くらいだろうか。質素な服装で、うつむきながら話し始めた。
「私の娘は、摂食障害で、高校生の頃から近所のクリニックにお世話になってます。でも、全然よくならなくて、5年前くらいから、こちらの病院に入院するようになりました。入院と退院を繰り返しています。娘が家で泣いていても、私もおろおろするばかりで、どうしたらよいのか分からなくて。そんなことの繰り返しなんです。」
 みな、言葉のかけようがない。
スタッフが「お母さんも、おつらいですよね」と声をかけると、みなが、少しほっとしたようだった。
次の人(Bさん)が話し出す。BさんはAさんよりもっと年配らしい。裕福そうな身なりだが、髪の乱れを意に介さないようで、沢田は不釣り合いな印象を受けた。
「うちの子は統合失調症なんです。もう、薬を沢山飲んでいて。調子のいいときはいいんですよ。でもね、それが続かなくて。爆発しちゃうんです。もう、そういうときはどうしようもなくて。こういう病院がなかったら、本当にどうなっちゃうか。
 頭のいい子だったんですよ。中学のときなんか、クラスでも、いつも1番か2番かぐらいで。それなのに病気になっちゃって。この先、どうなっちゃうのかなって思うんですが、考えてもしようがなくてーー。」
 スタッフが聞く、「お母さん、爆発しちゃうというのは、どんな時ですか、それから、どんな風になります?」
「もう、暴れちゃうんです。机の上の物を投げつけたり、「もう、俺なんか死んだ方がいいんだ」と叫んだり。
先生から聞いたんですけど、煮詰まっちゃってるっていうんですか。そんな感じで。」
 「それは、イライラが溜まってくるという感じですか」とスタッフが聞いた。
「どうなんでしょう。何で分かんねえんだよって怒鳴ったりして。でも、ホントによく分からなくて。
 それで、私らではどうしようもなくて、また入院です。本当に、病院がなかったら、どうなっちゃうんでしょう。息子が暴れたときなんか、もういっそのことって思うこともあるんですが、意気地無しで何にもできなくて。」
 Bさんは、最後には涙ぐんでいるようだった。スタッフが、「お母さん、つらいでしょうが、いつでも私たちに相談して下さい。決して、ご家族だけで思い詰めないで下さいね。」と優しく声をかけると静かに頭を下げた。
 次は沢田の番だった。Bさんの話を聞いて、沢田もいくらか動揺したが、咳払いをして話を始めた。
「うちの子は引きこもりです。予備校に行っている時に調子を崩して、知り合いの病院に相談したら、即入院ということになり、それ以来、もう10年以上、入退院を繰り返しています。お隣の方と似たような状況かも知れません。
 統合失調症の可能性もあると言われてるんですが、実はピンとこなくて、うちの息子も薬は沢山飲んでいるんですが、調子のいい時は、まあ普通なんです。
 それが、年に1回くらいですか、だんだん調子が悪くなって、そういう時は、もう私ら夫婦では手に負えません。
 でも、普段は、近所のクリニックに通っているので、なんか、緊急の時に1週間でも対応してくれるような所が地域にあれば、入院までしなくても済むのかなと思うことがあります。入院しちゃうと、どうしても2~3ヶ月は入院しちゃうことになって、退院して家に帰ってきても、しばらくは元の状態に戻るまでに時間がかかってしまうので。
 どうしてもという時は入院するしかないんですが、入院というのは劇薬というか、やり過ぎちゃうんじゃないかと感じています。
 それから、息子の場合は、ODをします。もう何回もやっていて、最初はびっくりして、こちらも動転してしまって、すぐ救急車に来てもらって、病院では胃洗浄をしてもらって。
 でも残念なんですが、何回もODをやるようになってしまいました。
 慣れるなんてことはありません。ODをされると、いつも腰が抜けるような気になります。」
 すると、沢田の次の番の人(Cさん)が言った。
「何も知らないのに、すみませんが、ODをするってことは、それだけつらいんじゃありませんか。
 うちの娘も、よく死にたい死にたいと言うんです。でも、見てると、本当に死にたいと思っている感じじゃあなくて、それぐらい、つらいんじゃないかって思ってしまうんです。」
 沢田は、はっとした。
「たしかに、うちの息子も死にたいと言います。でも、そんなことを軽々しく口にして、と思っていたんです。
 私が若い頃読んだ、ある作家の話なんですが、その方の息子さんが死を選んだと。
 その時に診てくれたお医者さんが作家に言ったのは、「息子さんは相当に強い決意のもとになさっています。この薬を飲んだ場合は、亡くなる可能性が大きいんですが、仮に死に至らなかったとしても意識のうえでは回復不能なほどのダメージを受ける薬なんです。」ということだったそうで。
 どういうわけか、このことが強く私の記憶に残っていて、死を選ぶというような決定的に重大な決断をする時には、そういう覚悟が必要なもんなんだという思いがしてしまって、ついつい歯がゆく見えてしまうのかもしれないんです。実は、このことを私が口にするのは今日が始めてで、家内にも言ったことはありません。」
 すると、Cさんが笑ったように見えた。
「うちのお父さんも同じことを言いますよ。覚悟が足りないとか何とか。
でも、そんなこと言っても仕様がないとお父さんに言ってるんです。死にたいほどつらいって言ってるんですから。男の人には、そういう気持ちは分からないもんなんでしょうねえ。」
「うーん、そうですか。いや、恥ずかしい話ですが、私には、力が入っちゃうというところがあって、そのために息子のことが見えなくなっちゃうんですかねえ。」
「いえ、私は、うちのお父さんを見ていて感じたことを言っただけで、お宅様のことにあてはまるのかどうか、勝手なことを言ってすみませんでした。」
「いやいや、そんなことはありません。」
Cさんは、はにかみながら続けた。
「娘が言うんです。病院で、自分たちのことを見てくれているのは、お医者さんではなく、看護師さんたちだと。お医者さんは、会うのが週に1回で、それも5分かそこら。どう、変わりない?と聞かれて、それでおしまい。看護師さんたちは、毎日、病棟の中での生活を見ている。だから、分かってくれるし、内緒で、相談に乗ってくれる人もいるんだそうです。娘が調子悪そうだなあと思うと、そばに来て隣に座っていてくれたり、一緒に歌を歌ってくれる看護師さんもいるらしいです。分かってくれていると感じることに救われるんだと言ってます。」
最後になったDさんは、まだ20代と見られる女性だった。何か運動をしているのか、体に張りがあるような雰囲気を漂わせている。
「兄が統合失調症です。今、33歳ですが、大学生の時に発症しました。それで大学を中退して、今は家にいます。怖い、怖いと言って電車にも乗れません。働いている友達とも、違う世界にいるみたいで会いたくないと言います。
ただ、家族と一緒にいると安心なようで、調子のよい時は、車で近所をドライブしたりします。運転は私がします。
病気になる前はエンジニアになることが夢だったので、今でも機械の話をしていると話が止まらないくらいです。大きな機械を作りたいと言ったりしてます。
あっ、それから、兄は病棟にいると認知症の人たちに人気があるんです。兄が歩いていると、認知症の人が後ろからついてくるんです。」
認知症の人に人気があるって、どういうこと? と皆が思ったとき、スタッフが微笑しながら説明してくれた。
「D君は優しいんです。それが認知症の人たちに伝わるんでしょうかね。D君がソファに座っていると、いつの間にか認知の人が隣に座っていたり、D君がトイレに行くと、トイレまで付いて行ってしまったり。
D君の妹さん、一つ聞いてもいいですか? D君は、自分の気持ちのなかでは、エンジニアの仕事をしたいと今でも思っているんじゃないでしょうか?」
「そうだと思います。それが、色んなことがあって、怖かったり、昔のいやなことを思い出してしまったりして、できない、できないって思っているのかなと思います。」
「何かのきっかけで、少しづつでもいいので、やったと思えるような経験というか、仕事みたいなものができるといいですよね。」
「はい、そうなると、本当にいいんですが……。」
 
 ワークショップの終わりに、各グループがまとめを発表することになった。そして、沢田のグループは、沢田が男だからというだけの理由で沢田が発表役をすることになってしまい、沢田は、次のような報告をした。
「このような家族のグループワークには初めて参加しまして、最初は気が重かったのですが、参加してよかったと思いました。
家族は、皆さん、それぞれ、つらい気持ちや大変な経験をしていると思いますが、今日教わったのは、それでも、一番つらい思いをしているのは患者本人なんじゃないか、それから、病院のなかで、その患者を一番よく見て、分かってくれているのは看護師さんたちだということです。そして分かってくれている人がいると感じることに救われるんだとも聞きました。
 実は、私自身が、息子とどう向き合えばよいのかよく分からなくて、ずっと悶々としてきました。尻込みしているというか、仕事に逃げてきただけだというのが正直なところです。
 でも、今日、グループの皆さんから色々な話を伺って、自分の息子もそれだけ苦しんでいるのかも知れない、もっとしっかりと息子と向き合わなければいけないのかなと思いました。
 そうは言っても、自分がすぐに変われるかは自信がありませんが、少しづつやっていきたいという気になっています。今日は有り難うございました。」
 
 最後にスタッフがまとめの挨拶をして締めくくった。
「本日は、皆様、お忙しいところ、家族の会にご参加頂き、そして活発に意見交換して頂いたようで有り難うございました。
 このような取り組みを行っている病院は、まだまだ少数でありますが、普段、なかなか家族という立場で意見や情報を交換する機会というのも難しいのではないかと思い、そして何らかの気づきの機会になればいいなと考えて、当病院では、この事業を続けてまいりました。
 報告をお聞きしておりまして、今回も気づきの機会になったのかなと思えるような報告がございました。私たちも、やってよかったと思っております。
 私たちスタッフが常日頃感じていますことを申し上げますと、心の病をもたれる方も、私たちと同じように社会に参加したいとか貢献したいという意欲をお持ちです。ところが、心の病という障害のために、それが果たせない。そのことがつらい。自分なんていなくていいと自分を責めてしまうんです。そして、誰も分かってくれない。一人前に扱ってもらえない。孤立しています。
 どなたかの報告にありましたように、一番つらい思いをしているのは本人なんだ、というのは正に私たちが日々感じていることです。一人ひとりの、そういう気持ちに寄り添うように支援したいというのが私たちの思いです。
 ただ、反省すべきご指摘もありました。一番よく見ているのは看護師だが、医師はろくに見てないと。私たちは、チーム医療と言って、お一人おひとり毎に、医師や看護師、心理、作業療法士、MSWなどがカンファレンスを定期的に行っているのですが、そういうことが十分に伝わっていないんだということを突きつけられた思いです。しっかりと効果のあるやり方を、もっと頑張っていかなくちゃいけないと思いました。
 ご家族の皆様に、気づきの機会を提供したいという思いから続けている事業ですが、反省すべきご指摘も頂きました。改めて御礼を申し上げます。
本日は、ご参加頂き有り難うございました。」
 最初は参加することに気が乗らなかったのだが、終ってみれば参加してよかったと沢田は思う。自分のなかにあるモヤモヤしたものを、今日初めて口にして、すっきりしたような気がする。それに、尭の表面的な言動からは伺うことのできなかった不安や焦燥に気づかせてくれた。こういうことに気がつくような接し方、それが自分にはできていなかったということなのか。
 
 翌週、次の面会日に行くと、「じゃあ、解散」と尭が言わないので沢田は内心、びっくりした。と言っても、ほんの2,3分、言葉を交わしただけだったが、今日はいつもと違ったなと思うのだった。
 その次の面会日は由美子が一人で行ってきて、尭からその時のことを聞いてきた。「あの時はね、親父から、いやだなあオーラが出てなかった。」
 そして由美子が言った。「だから言ったでしょ。写るのよ。尭が頑張ってるんだから、お父さんも頑張ってね。」
 
第四章 初めてのトマト
1 はじめは家庭菜園から 
 尭が退院して数ヶ月経った。3人で夕飯を食べていると、妻の由美子が聞いた。
「お父さん、このトマトはどうですか?」
「うん? トマト? おいしいよ」
「あ、そう。これはね、尭が作ったのよ。」
「えっ、尭が作ったの?」
尭は、うつむいて返事をしない。
「いや、おいしいよ。尭が作ったの? って、どういうこと?」
「別に。借りてる畑で作っただけ。少ししかできないし、安田のおばあちゃんは凄いよ。」
「安田のおばあちゃんって、あの地主さん?」
「そう。おばあちゃんは何でも作る。それが上手なんだよ」
由美子が近所を散歩していて、家庭菜園を見つけてきた。そして、尭に、「どうやってみる?」と聞いてみたら、尭がやってみるというのである。そんな、ひょんなことから尭の家庭菜園が始まった。安田のおばあちゃんとは、その地主さんで、聞けば色々と親切に教えてくれるらしい。
 
次は、キュウリだった。
「これも尭が作ったの? 驚いた。」
「俺が作ったわけじゃない。野菜は勝手に育つんだ。俺は、それを助けてるだけなんだ。」
「そうなの? 野菜は勝手に育つの?」
「そうだよ。野菜は生きてるんだ。野菜だけじゃない。畑では、土の中に微生物がごまんといて、それが土を豊かにして植物に栄養を与えているんだよ。」
「ちょっと、凄いこと言ってるね。そんな風に感じるのかい?」
「そうだよ。だから、畑で野菜が育つのを見ていると、なんか自分も元気になるんだよ。」
 
 それから間もなくして、尭は農家に弟子入りすることになった。沢田に話したようなことを行きつけの床屋さんに話したら、ああ、それなら知り合いの農家さんがいるから紹介しようか、ということになって、その農家さんを紹介されたらしい。
 その農家さんは中山さんという人で、彼自身、農家の跡継ぎではなく、脱サラして畑を借りて農業を始めたいわゆる新規就農者で、色々と苦労もしたらしい。
「農業は面白いけど、食っていくのは並大抵の苦労じゃあないよ。」
だが、尭がこの人のところで修行してみたいと思ったのは、違う理由からだ。
 尭の一番気にしていたことは、自分が働いた経験のないことで、「30にもなって働いたことがないんです。」と、勇気を振り絞って告げたとき、中山さんは次のように答えたそうだ。
「ああ、そういうこともあるよ。実はうちの家内もうつで、家にほとんど籠もりっきりなんだ。
でも、少しずつ変わってきてるから、尭君も気長に構えていればいいんじゃない。」
その言葉で、尭は救われた気がしたのだった。
 
 中山さんは、いわゆる有機農法の農家で、農薬や肥料は使わない。いきおい雑草の生え方が激しくなり、雑草との絶え間ない闘いになってくる。
このため近隣の農家の評判は芳しくない。あんなに草を生やしてしまって。
農家の生活は、狭いコミュニティのなかにある。みんな、お互いに見ている。草を生やしっぱなしにしている農家なんて、と腹のなかでは軽蔑している。
「農家の足音を聞いて野菜は育つ」というのが農家の常識で、わざと草を生やしているんだと言っても、そうは見てくれないのである。
中山さんは、草や落ち葉から堆肥を作って土を作っているため、必然的に尭もそういう農家になった。
 近所の公園に行って落ち葉をもらってくる。60Lのゴミ袋に100袋分の落ち葉を集めるのだから、かなりの量である。その葉を、5m四方ほどの木枠を作り、その中に敷き詰め、次には米ぬかと水を蒔き、また葉を敷き詰めるという作業を繰り返す。
 そして、その上に乗って両足で踏み固めるという作業を延々と繰り返すのだが、足で踏み固めるのにはコツがいる。尭一人では疲れるので沢田と由美子も引っ張り出されるのだが、リズムよく踏むのが案外難しい。尭は器用にやってのけるが、沢田にはうまくいかない。
 そこで、尭が、クイーンの「We will rock you」のリズムでやってみよう、手拍子叩いて、と言い出してやってみたのだが、リズムがとれなくて沢田はこけてしまった。
「こんなにリズム感がなくて、それでも歩くのは歩けんだねえ」尭が呆れて言った。
 
2 新米農家になる
 中山さんに弟子入りして定期的に畑に出るようになると、これで自信がついたのか、尭の気持ちが安定するようになった。
そして、中山さんの紹介で、農家から畑を借りることになった。中山さん自身は、尭が就農することには反対で、「尭君には無理だ。家庭菜園でいいじゃないか。農家でやっていくのは、とてもじゃないけど大変なんだ」と言っていたのだが、自分にはこれしかないんですという尭の言葉に最後は折れてくれたのである。
 
 さて、畑を借りて野菜ができたら、その野菜をどこかで売らなければならない。
尭は、スマホを見ながらマルシェの情報を引き出して出かけていくようになった。
 ある時は、キャベツを出荷すると言って、沢田と由美子も手伝いに引っ張り出された。尭の見よう見まねで、キャベツを畑から包丁を使って切り出し、水で洗って重さを測り、透明な袋に詰める。その袋に、尭が「農薬不使用」と書いたラベルを貼っていく。
「おつ、これは1Kgもあるぞ」と大きいことに喜んで30個あまりのキャベツを送り出したのだが、後日クレームが来た。いくつかに、とうが立っていたのである。
 とうが立った野菜を出荷するなど、農家としては論外だが、「なるほど、とうが立つとはこういうことか」と沢田は感嘆した。何しろ、生まれて初めての経験だったのだ。
 
 こうして、手伝いになっているのか、なっていないのか分からないような手伝いをするようになって、尭と沢田の関係に変化が表れた。
改めて分かったことは、野菜や畑のことを沢田が全く何も知らないということで、手を焼いた尭が、ときどき打ち合わせをやりたいと言い出したのである。
 沢田は、1反、2反と言われてもピンとこない。畝と畝間の区別も知らない。これでは話が噛み合わない。ごく基本的な話を尭がすることになったのだが、尭が何かを一緒にしようと提案してきたのは始めてのことだった。
尭によると、畑も肥沃な方がよいというわけでもないのだった。野菜によっては、むしろ痩せているような土の方が向いているのだそうだ。
そういう基礎知識のなかで沢田が面白いと思ったことの一つがコンパニオン・プランツである。
 種類の違う野菜を並べて植えると、虫や蝶が寄ってくるのを抑えたり、互いの成長を促進し合うことがあるという。例えば、春菊やレタスの香りがモンシロチョウの来るのを防ぐので、キャベツやブロッコリーにいいらしい。葱やニラの根に共生する菌が病原菌を殺すのでウリ科やナス科にいいという。ただ、根の深さが野菜によって違うので、それは揃える方が有効だそうだ。
沢田には初耳の話ばかりだったが、こういう時、尭は楽しそうに話している。
「そう言えばさあ、益虫と害虫の顔が違うって分かる?」
「えっ、全く見当もつかない。」
「益虫は怖い顔をしてて、害虫はかわいいんだよ。」
「そうなの? なんか逆なような気もするけど。」
「あはは、野菜を食べちゃうから害虫、だけど野菜食べるんだから草食系。そして、その害虫を食べて退治してくれるのは益虫だけど肉食系。つまり、害虫は草食系で、益虫は肉食系なんだよ。」
「なるほど、人間から見てのことなんだ」と感心しながら、尭とこうして笑いながら話すのはいつ以来だろうと沢田は思った。
打ち合わせの合間には、ふと、こんな一言を漏らすことがあった。
「社会に認められたい、社会の一員になりたいと思ってた。」
「もしかしたら、農業じゃなくてもよかったのかも知れない。」
 「うん、そうか。」と答えながら、沢田は、いや、一歩を踏み出したじゃないかと思うのだった。

第五章 キッズガーデン
1 「保育の緊急整備3カ年計画」
 障害福祉課長の後、沢田は保育課長に転任することになった。S県では保育所に入りたくても入れない子供達、いわゆる待機児童が1,000人を越えていて、県政全体のなかでも重点課題になっていた。
 このためS県では、保育所法に基づく認可保育所だけでなく、県独自に認可する「キッズガーデン」という施策を数年前から打ち出して、待機児童の解消に努めてきたが、目に見える成果までには至らなかった。
 沢田には、これは県民の実際のニーズに即した、よくできた施策だと思われるのだが、待機児童解消の決定打にはなっていなかった。どうも認可保育所の経営者や団体が面白く思っていないことが一因らしかった。
 しかし、沢田からすれば、業界団体の意向や思惑に合わせておけばいいというものではない。保育サービスを必要としている子供たちとその親がいる、それなのに、保育の受け入れ枠が足りないために利用できない子供が現にいる、このこと自体が行政としては放置できないことである。保育所に入れた子供と入れない子供との差は、まさに天と地とである。こんなことを放置はできない。
 何か施策に大きな問題があるのかと調べてみたら、そうではなく、関係者の漠然たる消極性にあるのだとしたら、行政がそれに引きずられるわけにはいかない。
 そこで、沢田は、対応策を早急に検討するため、保育課のなかにプロジェクト・チームを作ってはどうかと思い、総括課長補佐の宇原に相談した。
「宇原さん、保育の緊急整備計画を作ってみたらと思うんだが、どうかね。宇原さんをキャップにして課のなかでPTを作って検討してもらえないか?」
宇原はヴェテランだけに呑み込みが早い。
「いいですね」と即答した。「で、メンバーは?」
「任せます。ただ、最少人数で。関係者調整のための眠たい会議じゃあないので。」
「うわっ、はっ、は。 よくわかりました。それから期限はどれくらい?」
「まあ、一月かな」
「おお、これは、ちょっと大変ですね。」
「宇原さんなら余裕でしょう。」
 
 そして3週間もしないうちに宇原補佐は答えを出してきたのである。
「3カ年計画」と銘打って、緊急整備の目標値や誘導策を列挙してある。認可保育所とキッズガーデンそれぞれの目標値を設定して、それぞれの団体への配慮が施されているのは勿論だが、沢田が舌を巻いたのは、既に、部の総務課に話しを通してあったことである。どこをどう攻めれば事業が回るのかをこれほどよく分かっている部下がいれば課長は楽である。
 ただ、宇原は、更に重要なポイントを指摘してきた。
「この計画が具体化すると、保育所やキッズガーデンの整備数が増えますので、当然、新設の審査や経営指導の事務量が増えます。ですが、それに見合う職員増はなかなか難しいでしょうから、職員の負担が増えます。そこを、課長から職員に丁寧に説明してもらうことが必要になると思います。」
「宇原さん、さすがだね。心してやります。」
 
 こうしてS県の「保育整備緊急3カ年計画」ができあがり、保育所の整備は順調に進んでいったが、宇原補佐が心配した通り、職員の残業が常態化していった。
 特にキッズガーデンの新設を審査承認する施設整備係の残業時間が突出していた。係長の渡辺は真面目で明るい男で、愚痴を言うような人間ではないが、宇原補佐には係の内情を相談していたらしい。職員にも、それぞれ家庭があり、個人的な事情もある。いくら大切な仕事とはいえ、家庭の事情をすべて犠牲にするわけにはいかないし、健康を損ねては元も子もない。
こういう事情は、沢田も宇原もよく分かっていたので職員の増員にも努力し、若干は増員できたのだが、残業を大きく減らすところまではいかなかった。
 
 年が改まると、課長は課の職員に対して新年の挨拶をする。
沢田は、待機児童を早急に解消するために「緊急3カ年計画」に取り組んでいることに触れて、皆さんには大変な苦労をかけているが、全員の力で乗り切っていきたいと述べたうえで、次の2つのことを強調した。
「これは、私が常々言っていることであり、人によっては、沢田がまた言っているよと思うだろうが、そこは勘弁して聞いてほしい。
 皆さんにお願いしたいことの一つは、組織の歯車にはなるなということ。
規則をその言葉通りに適用していれば一応仕事をしているように見えるかも知れないし、満足感も得られるかも知れない。
 でも、それで本当に目的を達することができるか。杓子定規になってないか。
 そもそも、規則は何のためにあるのか。制度の目的は何か。常に、その目的に立ち返って制度のありようを検討することが大事で、このことを常に心がけてほしい。
 私たちの仕事の先には、県民の生活があるということを肝に銘じてほしい。
 二つめは、筋を通すということ。何を青臭いことを言ってるかと思う人もいるだろうが、どこに出ても胸の張れる仕事をしてもらいたい。ヴェテランになるほど、現実の重みというか大変さが分かってくるのだろうが、それだからこそ原理原則が大事。
「あるべきようは」という言葉を聞いたことがあるでしょう。判断に困る場合は、自分の「あるべきようは」を考えてみてください。
 それは自分を大切にするということでもある。現実に流されて自分自身を見失うようなことがないようにね。
 それで、困ったら、係長か宇原さんに相談することです。一人で抱え込むことはないよ。宜しくお願いします。」

 組織の歯車になるなというのは沢田の口癖のようなものだが、以前、障害福祉課の園田係長から、「課長は欺瞞的だ」とからまれたことがある。
 その通りだよ、俺だってそう思ってるよ、でもね、そう言わなければ分からない奴が多いのも事実だろう? だから言うしかないんだよ。俺たちは、県民のために仕事してるんだろう? そうだとしたら、考え続けなくちゃあいけないんだよ。 
 挨拶の後、また、同じことを言っちゃったね、と宇原補佐に声をかけると、「いや、課長のおっしゃることは分かります。」と返してくれた。
 
2 「わくわくガーデン事件」
「課長、わくわくガーデンの件で、ちょっとご報告したいことが起こりまして。会議室を取ってあります。」 宇原補佐がいつになく神妙な面持ちで報告に来た。
2人で会議室に行ってみると、施設整備係長の渡辺と保育計画係長の大倉が既に来ている。
「何だい? 何か楽しいことでもあったかい?」
宇原補佐が答える。
「例のわくわくガーデンのことなんですが、革新党が情報公開請求してきました。」
「ほう。で、何の情報公開請求なの?」
「わくわくガーデンの新設申請書類一式です。」
「ああ、それは、まあ、あり得ると思うけど、何で新設申請書類なんだろうね?」
「それがですね、渡辺係長が改めて申請書類を見直してみたら、職員配置数が足りなかったんです。」
「えっ、今、問題になっているわくわくの職員数が、申請段階で足りなかったというの?」
「はい、そうなんです。」
ここで渡辺係長が泣きそうな声をだして「すみません、うちの係が見落としました。」
 わくわくガーデンは、子供の処遇がずさんで保護者からクレームが出ている所なのだが、つい最近、職員配置にも不足があるのではないかという疑問が出されていた。
 そこで保育課としても調べているところだったのだが、申請の段階で職員数が足りないことを担当係が見落として承認してしまったという。わくわくガーデンからすれば、申請数は確保しているのだから、問題があるとすれば、承認した保育課の方に責任があると言い出すだろう。
 これだけでも大失態だが、あろうことか、革新党が情報公開請求してきたという。となれば、保育は重大施策であるだけに、これが県議会で取り上げられることは必至だろう。
 これは厄介なことになってきたと思い、沢田も考え込んでしまった。宇原以下、大倉も渡辺もじっと沢田のことを見つめて押し黙っている。
 ふと、沢田は思いついて聞いた。
「それにしても、革新党の動きも早いね。」
宇原が答える。
「私もそう思いました。多分、地元では、もうわくわくガーデンの経営者が公言しているんじゃないかと思います。」
「なるほど。そうすると、地元の市議さんとかマスコミにも、もう漏れているかも知れない。
ところで、ナベさん、気に病むな。あんたの係には随分負担をかけちゃったんだよな。責任は課長にあるんだからな。」
 渡辺係長は更に深々と頭を下げたが、宇原補佐が背中を叩いて言った。
「おいおい、ナベさんらしくないぞ。今日は残業は無し。みんなで呑みにいくよ。ね、課長」
 
 こうなると、沢田の動きは早い。
翌日、渡辺係長だけを連れて部長室に飛び込んだのである。厄介な話ほど早めに報告するのは組織人の鉄則である。
ところが、安木部長の指示は沢田の予想を裏切るものだった。
安木部長は、その申請書類を紛失したことにしろというのである。
「そんなこと、できるわけがありません。」
「分かっているのか? この申請書が情報公開されたら議会対応がどうなるのか?」
「勿論、分かっております。しかし、公の文書を紛失するなど、考えられないことです。」
「何を、子供みたいなことを言っているんだ。」
「いや、ごく当たり前のことを申し上げているだけです。」
「そういうことなら、責任をとってもらうぞ。」
「お言葉を返すようですが、責任は、もとより覚悟のうえです。この件は、保育課の審査の不備から始まったこと、すべては、保育課長である私の責任であると思っております。」
 部長が思いっきり睨みつけてきたので、失礼します、と一言だけ言って部長室を出てきた。渡辺も青ざめてついてきた。
 
 沢田は渡辺に言った。
「いいか、このことは誰にも言うな。一切他言無用。」
そして、沢田は、宇原補佐と大蔵係長も呼んで、3人に申し渡した。
「情報公開を淡々と進める。部長にはそう報告してきた。しばらく忙しくなると思うが、宜しく。」
 
 保育課の失態が県議会で追及されることは目に見えている。
そこで沢田は、これまでの新設申請書類の総点検をすることにした。本来なら、総点検は保育課以外の部署でやらなければ手ぬるいと批判されるだろうが、部長との行きがかり上、部内の他の課に応援を求めても部長の了解が得られる保証はない。
 このため、当該係の施設整備係を除いた保育課の全体で総点検を行うことにしたのだが、その結果、見逃したのはわくわくガーデンの1件だけであることを確認できた。
 沢田も宇原も口には出さないが、他の審査が正確に行われていることを確認してホッとした。
そして、予想した通り、県議会では、保育課の審査手続きの杜撰さが糾弾された。
だが、この件の発覚後、時間をおかずに総点検を行ったことや、総点検の結果、審査手続きの不備はわくわくガーデンの1件きりであることを確認したためか、革新党の追求は予想ほど厳しいものではなく、失態を責めるのは形ばかりのものになった。
 それどころか、保育課の審査体制の強化が急務ではないかという方向に重点がシフトする結果になって、沢田以下、保育課の面々は、ひとまずは胸をなで下ろしたのだった。
 
 議会が終って、しばらく経った日、沢田が議会棟の廊下を歩いていると、革新党の幹事長とすれ違った。沢田が黙礼して通りすぎようとすると、幹事長が 「ご苦労さん」と声をかけてきた。
 沢田が、「いや、ご挨拶を控えておりました。先日の議会では、ご理解のあるご指導を頂き有り難うございました。」と答えると、幹事長は、
「あはは、私たちだって分かっていますよ、誰が、どういう仕事をしているかってね。ただ立場があるから、言うことは言わせてもらったけどね。」と言い、じゃあと手を挙げて立ち去った。沢田は静かに頭を下げて見送った。
 
 その翌年度、沢田は保育課長を最後に県庁を勇退することになった。福祉畑一筋となった沢田にとっては障害福祉、保育という重要な分野で課長として働けたことは幸せなことだった。
 勿論、やり残したことは沢山あるが、それは後代の人たちに任せればよい、それよりも、自分のような、周りをハラハラさせてばかりいた直情径行型に、よくも大事なポストを任せてくれたものだと思うのだった。
 
第二部 退職から現在まで
第六章 退職祝いは地下足袋
 管理職で辞めた場合、県の関係団体に就職を斡旋される慣例があるが、沢田は断った。
 尭の農業が忙しくなってきたので、由美子と2人で手伝う時間を増やすことは自然な流れだったし、今までは自分の仕事にかまけて、家族としっかり向き合ってこなかったという思いがある。職員に対しては、折に触れて「あるべきようは」と問いかけてきたのに、自分自身に対しては、この問いかけが甘かった。退職は、それを見直す絶好の機会である。
 それに、沢田は自分自身驚いたことに、農作業が嫌いではなかった。
農作業といっても、まだ沢田が何とか手伝えるのは草刈りぐらいだが、これが意外にやりがいがあるのだ。
 草の生命力は想像力を絶する。あっという間にはびこってしまう。しかし、草刈りに入ると、1時間、2時間で着実に草の量が減り、景色が一変する。やった跡がはっきり目に見えるのである。それに草を刈っていると、バッタが飛んだり、コオロギの泣き声が聞こえたりする。季節によってはキジが寄ってきたり、ムクドリが群れで寄ってくることもある。ヒバリが飛ぶ季節はうるさいくらいだ。
 疲れたときには、思いっきり草の上に寝そべる。草の匂いに囲まれる。誰も邪魔する者はいない。見えるのは空の雲だけ。風を感じる。こんな豊かな時間があるだろうか。
 野菜を育てていると自分も生きる力をもらえるような気がすると尭が言っていた。まだまだ自分は序の口だが、植物や動物、風や光、土や草の匂いなど、様々な自然の織りなす世界に包まれているような気がしてくるのだった。 農家の人たちは、今でも、こういう自然を感じながら、日々を過ごしているのかも知れない。
 もう一つ、沢田にとって意外だったのは、軽トラの運転が楽しいことだった。
 軽トラは、シートが硬くサスペンションも硬いのだが、これがいいのである。路面の振動を直に受ける。40Kmも出せばエンジンがうるさい。まるでゴーカートを運転しているようなものだ。
 大体、沢田は車の運転が苦手だった。注意力散漫なのである。それなのに軽トラなら運転しやすい。どうも、運転席が微妙に高いことや姿勢がよくなることが影響しているらしい。
 反面、農作業による疲れは大変なものだ。泥だらけになって2~3時間も働けば、家に帰って必ず昼寝が必要になる。健康にいいといえばいいのだが、ここまで疲れるとなると、他の仕事は勘弁してもらいたい。
 それにせっかく退職したのだから、本を読む時間ぐらいは自由に取りたい。どうせ、もともと貧乏な生まれ。金がないのには慣れている。
そういう話をしたせいか、尭からの退職祝いは地下足袋だった。
 
 退職してからしばらくして、保育課の面々が送別会を開いてくれた。その2次会で、何人か残ってくれた職員と酌み交わしていると、大倉係長が話しかけてきた。
「課長、今だから、もう聞いてもいいですか?
実は、例のわくわくガーデンの情報公開のとき、文書を破棄しろという声があったのに課長が断ったという噂があるんです。やっぱり、本当はそうなんですか?」
「あはは、そんな噂があるの? でも、それはデマ。そんなことはないね。」
「そうですか。いや、沢田課長らしいとみんなで話してるんですよ。」
「それはあり得ない。」
宇原補佐が言った。
「そうですか。課長がそうおっしゃるなら、事実ではないんですね。」
「そりゃあそうさ。じゃあね、あくまでも仮定の話だけど、私が文書を破棄しろなんて言い出したら、宇原さんやみんなは、はい破棄しますと言うかい?」
「まさか、何、とち狂ってんだと噛みつくでしょうね。」 すぐさま大倉係長が否定し、宇原さんもニヤニヤしながら頷いている。
「そうだろう、それでこそ、我が福祉部だ。だから、文書を破棄しろなんて誰かが言うわけないんだよ。ああ、そう言えば思い出した。こんな機会はもうないだろうから言っておこうかな。
俺は、昔、宇原さんに怒られたことがあるんだよ。」
「えっ、何のことです?」と宇原がとぼける。
「まだ俺が課長補佐の頃さ、沢田補佐、筋が違いますってね。」
「そんなことがあったんですか?」と早速、大倉係長が飛びついてきた。 「それにしても、選りに選って沢田課長に筋が違うと怒っちゃう宇原さんも凄いですね。 一体、何があったんですか?」 他の何人も、聞き耳を立てている。
「いや、細かいことは忘れたよ。でもね、こういうところが我が社のいいところだ。胸張って仕事やっていってくれよ。」
 
第七章 家族会議
 沢田家の農作業についての打ち合わせは結構続いていて、尭はいつの頃からか、家族会議と呼ぶようになった。
 季節や野菜に応じて、今週は何をやるかというのは、かなり変化があって、沢田には新鮮だった。尭が毎回、プランを説明するのも、なるほど農家というのは、こんな風に考えているんだなと感心させるものだった。
尭にとっても話し合いが有効なようで、「話を聞いてもらっていると落ち着く」という。
「何かがきっかけで昔の嫌なことがフラッシュバックしてきた時でも、話し合いで落ち着いていると、ああ、今、フラッシュバックしているな、でも、これは昔のことだ、今の現実じゃあないと対処できるんだ。」
「怖かった。何をするのも怖かった。」
「尭は何でもできるから、将来はどうなるんだろうって思っていたんだよ。」と沢田が言うと、尭はこんな話をした。
「予備校で、試験の成績がよくて定期試験のたびにクラスが上がっていったんだ。現代文の先生が職員会議で言ってくれたらしい。でも、クラスが上がると、クラスの雰囲気が全然違っちゃう。最後なんか、メガネかけたガリ勉ばっかりで、すっかり怖くなっちゃった。こんなとこ居られないと思って、それで精神科に相談したいって言ったんだよ。」
「分かってほしかった。怖いのを分かってほしかった。でも、あの頃のお父さんは全然聞いてくれなかった。頑張れって言うばかり。頑張ってるよ。でも、怖いんだよ。それを分かってほしかった。」
「そうか」 沢田には、それしか言えなかった。
「でも、今は違う。こうやって、家族で話ができるようになって、随分、楽になったよ。」
「そうか、うん。」 沢田には言葉がなかった。
 
 そして、沢田を驚かせた極めつけは、尭が近所のレストランに飛び込みで営業に行ってきたことである。
だって、どっかで使ってもらわないといけないから、と尭は言ったが、レストランに入って行って、自分の作った野菜を使って下さいなんて、自分には絶対にできないと沢田は思う。
それを尭がしてきたというのである。10年も引きこもりの生活をしてきたというのに。
どこに、そんな元気や勇気があるのだろう。
「でも、昔だったら、行けなかったろうね。平日に外に出るのもつらかったし。」
 
 そんなあるとき、今度は小さな文章かエッセイのようなものを書いて、皆で持ち寄ってはどうかと尭が言い出した。「文章にした方が、うまく伝わるような気がするんだよね。」
文章といわれても、困ったな、書けるかなと思い、由美子も困ったような顔をしているが、どうせ3人しか見ないんだからと尭が言うので、じゃあ、取りあえずやってみるかということになった。
 そうして、由美子が最初に書いた文章は 『子どもの頃』という題だった。

『子どもの頃』
 小さい頃、私のまわりには子どもたちが沢山いた。姉はもちろん、お向かいの団子屋や綿屋、洋裁店、隣の文具屋などのお店をはじめ、裏の家々の子どもたちが沢山いて、群れをなして遊んでいた。
 鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり、ゴムとび、お手玉、ビー玉、パッタ(メンコ)など、近くの空き地で日が暮れるまで、遊びほうけていた。
 しっかり者のガキ大将やお姉ちゃんがいて、ずーっと離れた川の土手に群れなす子どもたちを10人以上引き連れて歩いていった。土手の草叢をゴロゴロと転がり落ちたり、段ボールをお尻に敷いてすべり降りたり、好き放題遊んだら帰るのだ。
 春は土手のヨモギやツクシを摘んだ。ヨモギは団子屋さんに持って行くと、ご褒美に団子をくれた。
 母からもらった10円を握りしめて、肉屋さんに走りコロッケを買ったり、とすけもの屋(駄菓子屋)でお菓子を買ったりした。紙芝居のおじさんがくると飴を買って紙芝居をみた。おかねがないときはまわりからのぞいたりした。
 近所の大人たちは、みな子どもたちを知っていて、声をかけたり、悪さをすると叱ったり、困ったときは助けてくれた。
 私は、堀をとんで遊んでいるうちに飛びそこなって落ちたり、鬼ごっこしているうちに畑の肥えだめに落ちたりしたが、その都度大人が引き上げてくれたり、井戸端で洗ってもくれたりした。
 でも、道路を目をつぶって歩いているうちに、間違ってどぶに落ちた時は、自分で這い上がって、泥だらけで家に帰り、母に叱られた。どぶはとても臭かった。
 桜の山に登り、夏の花火を楽しみ、川の土手の上で沈む夕日を眺めたり、冬は桶屋さんで小さな竹スキーを作ってもらって、雪の積もった斜面で滑って遊んだ。
 自動車は走っておらず、馬車が荷物をはこんでいた。馬糞が道に転がっていた。つながれた馬のオシッコは物凄い大量だった。
 小さい頃、公園も素敵な遊具もなかったが、安心して遊びほうけていた自分がいた。
 とても幸せだったんだなあと60を越した今思う。
 
  ※竹スキー   
    足の幅に合わせて割った竹の先を曲げてつくる。
 
 由美子の文章を読んで、「東京と東北では随分違ったんだなあと思ったよ。」と沢田が言った。「近所に馬車はなかったと思う。それに近所の子ども達で遊ぶといったって、10人も居なかったなあ。」
「ドブに落ちたとか、お金がないときは紙芝居をよそから覗いたってのがいいね。お母さんらしいね、変わってないんだね。でも、なんか、楽しい感じが伝わってくる。」と尭が言った。
 
沢田の書いたのは 『スギナを茶にして飲んでみた』

『スギナを茶にして飲んでみた』
 今日の草刈りはスギナ。畑一面にびっしり生えている。
根が深く、30cmくらいになるらしい。
その根から取らないと、またすぐに生えてきてしまうという。
 だが、いざ掘ってみると、そんなに深く取るのはとても無理。
それに生えている数が半端ではない。
取りあえず、片端から引き抜くことにして、堆肥置場に運んでいく。
 
 引っこ抜いているときは単調だが、まとめて堆肥置場に運んでいくときは案外楽しい。少しづつだが、スギナの山が大きくなっていくからだ。
 
 これは永遠に続きそうだと思いながら引っこ抜いていると、
しかし、雑草の生命力というのは大したものだなあ、という気になる。
そして、呆れかえっちゃうなあと思いながら、ふと思いついた。
こんなに強いのだから、食べられたら、いいんじゃないか?
大体、野菜かどうか、雑草かどうかなんて、
人間が勝手に決めたものだろう。
 
 そう思って、家に帰って調べてみたら、正に、スギナ茶というものが
あった。強烈なだけに、食べるというよりは煎じて飲むぐらいがちょうどいいようだ。
 
 そこで、スギナを刈ってきて、きれいに水洗いし、天日干しにしてみた。
1週間ほど干したものを小さく刻んで急須に入れて、お湯を差してみる。
3分くらいではほとんど色がつかないが、5分ほどいれると、
うっすらと黄色みが出てくる。
茶碗を口に近づけるだけで、スギナの香りがぷーんと鼻につく。
香りが強くて、味はさほどでもない。
 
 確かに、これは薬草というものなんだろうという味である。
色々と、体にいいことが書かれているので、しばらくは飲んでみようかと思う。
何か、変化が現れるだろうか。
 
畑では厄介なものであるスギナ。
だが、野菜や果物だって、元々は似たようなものだったろう。
野生の植物を、私たちの祖先が、それこそ何千年もかけて、
現在の姿に改良してきたものだ。
だから、草を、ただの雑草として捨てるだけでは勿体ない。
お茶にしたぐらいで大袈裟だと笑われそうだが、自然との距離が一歩縮んだ気分だ。
 
「これが売り物になったらいいね。」と尭は言ったが、結局、そうはならなかった。沢田が、毎日、スギナ茶を淹れて3人で飲み、それはそれでゆったりした時間ではあったのだが、1週間もすると飽きてしまったのである。
従って、スギナの草刈りは、相変わらず沢田の仕事である。
 
 尭の文章は 『好きを仕事にして良かったこと』

『好きを仕事にして良かったこと』
わたしは書くことが好きだ
わたしは写真が好きだ
わたしは農が好きだ
 
好きを仕事にして、後悔をたくさんした。
好きでやっていたことが、
やらなければならない責任を負うことに変貌してしまって、
嫌いなわけではないが、それをやることにワクワクやウキウキを
失ってゆくことを感じるのだ。
けれども好きを仕事にして良かったこともたくさんある。
好きが嵩じて書くことの能力の高さを褒めてもらったり、
わたしの普段の会話では言い表しきれない思いを
書くことを通して伝えられるようになった。
写真を撮るときのワクワクも完全に消えたわけではない。
見てくれる人がいる、ぽちっとハートマークを押してくれる人がいる、
その人の存在を意識にのぼらせながら、携帯で写真を撮る。
好きというより、好きというしかなかった農業がメリメリ好きになってくる。
「仕事に情熱を注ぐ」
一番憧れていたことを自然とできるようになった。
すり減ることも多い。特に農に人を交えてからはすり減ることの方が多く、疲れる。
身も心もボロ雑巾のような時もある。
だが、好きに囲まれている時間がしあわせだ。
ひとり、静かに弾けもしないウクレレを脇に抱え、ぼろろ〜ん。
あーあ、全然好きなことをやれてないと言いながら
好きなように生きている今に、ありがとうを伝えたい。
 
「どんなことでも一旦仕事になると、別物になるんだろうね。」と沢田が言うと、尭が「人間関係でこんなに疲れるとは思ってなかったけど、仕様がないよ。やるしかないんだし。」とこぼした。「大丈夫、慣れていくわよ。」と由美子が言い、尭はしぶしぶ頷いた。
 
次の回に由美子の書いた文章 『登山口』

『登山口』
 先日、夫婦で足利に行った。
 以前私が「いつか富士山に登りたい」と言ったことを覚えていて、主人が足馴らしに行こうと誘ってくれたのだ。
「そうだよね。足を鍛えなくちゃね。」と、軽い気持ちで同意した。

 旅立ちの朝は、夜中に降っていた雨はあがっていたが、まだどんより曇っていた。
 しかし、足利に着くころには、素晴らしい晴天に変わっていた。

 登山靴に履き替えて、歩き出す。
 足利の古い街並みを過ぎると、織姫神社の階段を登る。一歩一歩ゆっくり登るのだが、これが長い。
 登っても登ってもなかなか本殿に辿り着かないのだ。
 「うそでしょ!」と、言いたくなるが、周りの人達は黙々とのぼっているので、やむなく、休み休み登っていった。
 やっと登り切ると本殿の前が開けており、足利の街はもちろんのこと、ずーっと遠くの秩父や日光の山並みを遮るものもなく見渡すことができる。天は青く澄み渡り、ところどころに秋の雲が浮かんでいる。

 うっとりながめていると、「さぁ出発だよ!」との声。織姫神社の裏に両崖山(りょうがいさん)への登山道があるとのこと。
  お昼ご飯をたべていなかったので、「お腹がすいた」とだだをこね、社殿裏のレストランにむかったが、あいにくお休み。食べるのは諦めて、山道に向かう。
 「ゆっくり、ゆっくり」と、心の中で声を出しながら歩く。
 山の稜線沿いの道を登ったり降りたりしながら、少しずつのぼっていく。
 そもそも山道に慣れていない私には歩きにくいことこのうえない。林の中の道もあったが、岩場も多い。 ハアハアいいながらも、木もれ日や途中途中で見える景観に助けられて、何とか歩けている。
 遮るもののない秋の絶景は、「来てよかった」との思いを強くしてくれる。

 両崖山頂は足利城址となっており、神社があったらしいが、2年前の山火事で消失したらしい。 またも「うそでしょ!」と言いたくなったが、嘘ではない。
実際山林は黒く焼け焦げた木々がずーっと奥の方まで続いている。
 地元の人の話では、山火事はすぐにはおさまらず、4~5日は続いたらしい。煙がもうもうと町の中まで降りてきて焼け焦げた匂いが充満し、本当に怖くて大変だったそうだ。

 それでも、まるこげになった林の木々が、焦げた枝から小さな枝を伸ばし、葉を大きく広げているのにはびっくりした。
「あなた、生きてたんですかぁ」 「凄いですねぇ」と声をかけたくなる。焦げた林の道を抜けて、天狗山に登る。山頂近くには、短いが岩場があり、鎖を伝ってしか登れない。こういう鎖場は私の性格に合っているのか、全然こわくない。一歩一歩ゆっくり登れば、自ずと道が見えてくる。
 時折、息子が言ったことを思い出す。
「お母さんはこわがらない。恐れを知らないから、勝手なことをやり始める。
 お父さんはこわがりだ。だから慎重に準備し練習を積み重ねて確実に自分のものにする。」
 なるほど。よく見ているなぁと思う。
 実際、山登りを終わってみれば、足が、とりわけ太腿の内側や足の裏が痛くて、歩くのが辛くなっている。
 これではとても富士山には登れない。
 もっと練習が必要だと実感する。
   山への登り口は、まだまだ遙かに遠いと思う。
 それでも登りたいと思うのは、懲りることをしらない性格だからなのだろうか。
 私にもわからない。
 
 「お父さんはこわがりかい?」と沢田が聞くと、由美子と尭が二人で目配せして笑っている。これは、私の知らないところで、二人でそんなことを話しているに違いない。まあ、お母さんはこわがらないというのは本当だから、私のこともそうなのだろう。しかし、そんな風に見られているのか。知らぬは本人ばかりなり、か。
 
沢田の書いた『鬼コーチ』

『鬼コーチ』
 40歳からランニングを始めて、20年以上続けているが、怪我はつきものである。
ふくらはぎの肉離れとか足底筋を痛めるとか。
大体、ひと月も休めば治るのだが、今回は違った。

膝を痛めて、もう1年以上痛みがひかない。
ちょっとよくなったなと思っても、すぐぶり返す。

整骨院に行ったり、鍼の治療をしたりしても一向によくならない。

まわりも少しづつ引退していくし、もう65歳、そろそろ潮時かなと思いながら、ダメ元の気分で、もう一カ所、新しい整骨院に行ってみた。

そこでは2人の先生が、15分くらいかけて、膝から曲げたり伸ばしたり、ひねってみたり、股関節から大きく回してみたりと丁寧に診てくれて、
「わかった」と言った。


そうして治療が始まり、20代の女性が担当になった。
最初は膝回りを揉みほぐすことが主だったが、何回か通ううちにほぐれてきたのか筋トレが始まった。

「まっすぐに立つ筋肉が弱いんです。だから、その筋肉を強化していきます」と教えてくれた。
筋トレは、スクワットや片足スクワット、ランジなどを1セット10回やるのだが、先生は結構厳しい。

「はい、息をとめない」
「今のは1回に数えません。」

バランスクッションを持ってきて、この上で片足スクワットやれと言う。
「これは、ちょっと難しいです。」
「サッカー選手は、この上でリフティングやりますよ。」
誰に言っているのかなと思う。

「鬼コーチですね」と私。
「いえ、やさしいです」

でも、おかげで膝がかなりよくなり、また気持ちよく走れるようになった。
いつか、鬼コーチと一緒にレースに出て、鬼コーチに勝って恩返しをしたい。
秘かにそう思って、今日も筋トレに励んでいる。
 
 「この20代の女性って、木下さんでしょ。あの人、いいよね。」と尭が聞いた。そして、
「気が強いんだよ。いつか院長先生に怒られたときも、はあ、なんて言って、全然応えてなかったもんね。」と笑って言った。
「ははは、確かにそんな感じだな。サッパリしてるから、患者としてもやりやすいよ。」
「レースに出て恩返しっていいけど、木下さんも走るの?」
「いや、知らない。ま、そうなればいいなってところ。」
 
 そして、ある時は、同じ題で書いたものを持ち寄ろうということになった。
 最初のお題は「ひらがなの力」だという。それぞれ書いて、2週間後に読み合わせをするというのだ。

沢田の書いた 『ひらがなの力』
 旅先であった、ちょっとしたことを短い文章にして息子に読んでもらったら、
「いいね、ほっこりする。ただ、この中身だったら、 文章の題の『小さなこと』は、『ちいさなこと』 とひらがなに直した方がいいよ」と言った。
 
ハッとした。
そこまで考えてなかった。
中身のことばかり考えて、「小さな」ことを漢字で書くことについては
何も考えてなかった。

実は、文章の中身の方に不安があったのだ。
息子は精一杯生きている。
妻もそれを全身で支えている。
そういう毎日を生きている家族に対してこんな小さなことを伝えていいんだろうか、
気楽でいいね、でも、そんなことは決して口にはしないだろうけど、と思いつつ。
そうしたら、息子から、いいね、と言われたのである。
そして息子は、スマホの画面をだして見てごらんと言った。
画面には「小さなこと」と「ちいさなこと」の2行が並んでいる。
並べてみると、確かに「ちいさなこと」の方がやわらかい。
やわらかい、その文字には、雪国のかまくらのような、包み込むやさしい力があった。
やわらかい気持ちだからこそ、相手に伝わるものがある。 
息子は漢字になることもあるが、今日の息子は、ひらがなである。

 
由美子の書いた 『ひらがなの力』
 息子からテーマは「ひらがなのちから」と申し渡されてから、かれこれ1週間以上経っている。
息子はあっという間に書き上げ、旦那はコツコツ書いて確実に締め切りに間に合わせている。
私はといえば、締め切り前日になっても書くことができないでいる。息子には「何で夏休みの宿題みたいなことやってんの!」と怒られる始末である。

そんなこと言ったって……

「あんたみたいに、ちゃっちゃか書ける人と違うんだから…」
と言いたいような気がする。

「大体さぁ 『ひらがな』って 『力』ありましたっけ?」 と言いたいような気もする。

……ひらがな、ひらがな、ひらがな……

「ひらがな」というと、子どもが幼い頃を思いだす。
「オギャー」と生まれたときは、ただ、ただ可愛くて、笑ったといっては喜び、泣いたといっては、抱っこしたり、オムツが濡れてないかと触ってみたりしていたものだ。
そのうち、たちあがったり、ハイハイしたりしながら、「ママ」とか「まんま」とか、言葉がではじめる。
「今、ママっていったよね?」なんて、大騒ぎしたものだ。
また、クレヨンや鉛筆などを固く握りしめて、紙の上に、点や線を書くことに興味を示し始める。
親は、そんな小さな変化を成長の証(あかし)と感じ、その都度大喜びする。
潰れた〇のような線を描いて、小さな指で指差しながら「ワンワン」なんて言おうものなら、大変だ。
「『ワンワン』って、言ったよ!」
「この〇が『ワンワン』なんだって! すごいね~。 『ワンワン』ってわかるんだね。」
「お利口だね~。」
なんて、子どもの頭をなでたり、ほっぺにちゅーしたり、抱きあげたりしてしまう。

歩いたり、走ったり、お友だちとおしゃべりしたり、遊んだり、絵本を読んだりできるようになってから、わが家の子は「ひらがな」で少しずつ「自分の名前」を書けるようになった。
保育所の4~5歳くらいに、「ひらがな」をお絵かき帳に書いてたっけなあと、思いだすと、ほのぼのとした気持ちになる。

たかが「ひらがな」されど「ひらがな」

こうやって振り返ってみると、「ひらがな」は、子どもが生まれてから、何年もかかって、たどり着くものなんだなあと、しみじみ感じた。…笑ったり、泣いたりしながら…
 
 由美子の文章にある通り、尭は文章を書くのが異様に早いのだった。沢田や由美子は、さて何を書くかなと考えだして、ああでもない、こうでもないとブツブツ考えながら、少しづつ書いていくのだが、尭は違う。
書き出すと、ほんの1時間ほどで、1本書いてしまうのである。
何で、そんなに早く書けるの? と沢田が聞いたら、「だって、いつも考えているから」と尭が答えた。
そうか、いつも考えているのか。そこが自分とは違う。自分はどうか。何も考えてはいないのである。そりゃあ、いつも考えてたら頭が疲れるよな。何か、無心になれるものがあるといいんだろうな。
 
そして、尭の書いた『ひらがなのちから』
 言葉には、ちからがある、そう思う。
自分のこころの中でつぶやく言葉も、発する言葉も、‘キツイ’言葉を使ってると、自分自身のこころも表情も、精神的にも’キツく’なっていく。逆にやさしい、あたたかな言葉を使っていると、自分もなんだか、こころがなごみ、やわらかくなって、やさしい人になったり、すこし余裕を持ったりできる。
先週の家族会議(わたしたちは「ずっこけ家族会議」と読んでいるが。笑)で、繰り広げられたのは、漢字とひらがなのテクニック論。
 
わたしが「漢字は少しキツかったり固い印象になる。
でも、ひらがなは、丁寧だったり、やわらかく、あたたかい、’ほんわかしたよろこび’みたいなものが伝わるよ」と話した。
すると、お父さんは
「あぁ、そうかぁ! それはひらがなの’ちから’だなぁ!」なんて感心したかのように、素直にそのことを受けとめ、息子の話に感動し、自分の文章に生かそうとしている。
 昔は、お父さんは怒ってばかりでおっかなかった。
けれど、今は素直に息子の話に感動している。
そんなことが嬉しくて、そんなことが夢のようだ。
 
こころが辛かった10代、20代。
暴れ、苦しみ、家族全員で悩んだあの日々が、すこしずつ?いや、大きく変容して、こんな日々が、’わたしたちの日常’にある。
家族ひとりひとりの、もがき、悩み苦しんだ日々の結果が、今、こころでつぶやく言葉をあたたかなものにしている。
そんな「ひらがなの’ちから’」から、「ちから」をもらった、ほっこりしたいつもの日。
 
 この文章を読んで由美子が言った。
「尭も変わったわね。随分、頑張ってるからね。」
尭は頷いて言った。「うん、畑に出ても、前より疲れなくなったような気がする。」
だが、沢田は情けなかった。
 自分は、どう仕様も無い奴だな、それを認めたくなくて見ないようにしている。
 ところが尭は自分の思いをしっかり言葉にした。言葉にするには葛藤があっただろうに、それをした。自分はしなかったのに。
 口では、そうか、としか言えなかったが、尭も由美子も、沢田の心持ちを察して黙っていた。
 
別の日には、尭が次のような文章を書いてきた。

『やることになっちゃったから、やっちゃったら、うまくいっちゃった』

 4年前、カウンセリングセンターで「逃げたい!」叫んだものだ。
ひきこもりを脱出して農家になると言って、ハッタリかまして、
約300坪、オリンピックの競技用プール50mよりひろい畑を借りてしまったのだ。
 
借りてからと言うもの、どうしようが止まらない。
畑の脇で綺麗に咲く桜なんかきれいになんて見えない。

「やることになっちゃった。どうしよう。
 やるって言っちゃった。どうしよう。」
 
今までは、ありとあらゆる社会への挑戦を、今じゃない、とか、
あなたには無理だとか、なんなら施設を紹介されてきた俺が、
畑をやることになってしまったのだ。
だってやるって言っちゃったから。
でも、それを言ったのには、ずーっと抱えてきた劣等感が陰にはあった。
その時カウンセラーは、覚悟を決めたかのように笑顔で言った。
「やることになっちゃったから、やっちゃったらうまくいっちゃったになるといいね!」
 
あれから4年。
野菜を植えるたび怖い。
畑が広がる度怖い。

しかし、病院や家の外で働くことに喜ばなくなったことが嬉しい。
友達と軽い調子で、どう最近?と連絡を取り合えることが嬉しい。
当たり前ではなかったことが、当たり前になっていくことに涙が溢れる。
気持ちは今でも逃げることもある。
でも、現実に立ち向かう。
自分の意見を販売店さんに主張できる機会も増えた。
少しずつ少しずつ、ビビりながら畑に行っていたあの頃はどんどん思い出となって、桜に笑いかける季節を楽しみにしている自分がいる。
なんて、しあわせな怖さだろう。なんて、嬉しい当たり前だろう。
そんなことを書き綴りながら、寒桜を心で眺める白い朝。
 
第八章 農家としての自立をめざして
 沢田が毎週手伝いに入るようになると、自然、隣や近所の農家とふれあうようになる。
 最初に沢田が面食らったのは、農家がやたらと物をくれることだ。自分の畑で、今収穫してきた色々な野菜、ウドとかキュウリとかマクワウリとか、ほら持っていけ、とくれるのである。
こんなもらっちゃっていいのかなと思うのだが、尭がいいからもらっておけと言う。自分の畑でお返しできる物ができたらお返しするから、今はもらっておけという。
 尭が気にしていることは、一にも二にも草の管理だ。まずは、道路際や隣の畑との境の草を刈る。自分の畑の中の草は、その次だ。
周りに迷惑をかけないこと、あるいは周りに迷惑をかけないよう注意しているように見えることが大事で、ちょっと手を抜くと何を言われるか分からない。
とにかく草の管理だけしておけば、後は何をしても、そうとやかく言われることはない。
もっとも、草の管理の仕方にも流儀があるらしい。
尭が、借りている畑のアプローチまで気を利かせて草刈りしたら、隣の地主の薄沢さんからここは俺たちが共同管理しているんだから、余計な手を出すなと叱られた。
「あのー、うちの地主の鈴本さんに聞いたうえでやったんですが」と答えたら、
「鈴本なんかの言うこと、聞くこたあない。薄沢が本家だが、鈴本は分家だ。」と言われたそうだ。
 薄沢さんには子供がいない。そのせいか、尭のような新参者の前でも、薄沢さんは、奥さんのことを「この役立たずの豚」などと平気で罵る。奥さんはじっと黙っているのにも驚く。
だが、こんな薄沢さんでも、尭の草刈り機が故障した時には、すぐに来てくれて、「こりゃあ、プラグがやられてるな、交換すりゃすぐに直るだろう」と助けてくれた。どうやら、薄沢さんは、電気技術士とやらの資格も持っているらしい。
「この辺は狸が出るからな、落花生はやめておけ」とも教えてくれた。聞けば親切に教えてくれる。農家は、誰でも聞いてくるのを待ってるんだとも言われた。
 農家さんは、ちょっとした故障なら自分で直すし、助けてくれる。いちいち農機具屋さんに修理を頼んでいたのでは、金も時間もかかってしまうからだろう。
 沢田が感心したのは、これに限らず、農家さんというのは、色々な技術を持っていることである。
畑の排水が問題になったときは、地主の合田さんが、竹を3M位の長さに切りそろえて何十本も持ってきて、畑の脇に溝を掘り、そこにこの竹を敷き詰めて、簡便な排水路を作ってくれた。こういうもんで排水がうまくいくもんなのかと沢田が訝しんでいると、その表情から察したのか、合田さんが言った。
「畑の水脈を読めばいいんだ。縄文時代から、こうやっているよ。」
 
そんな農家さんが、障害者の作業所をどう見ているか。この近所にも、障害者の作業所で農作業を取り入れているところがある。流行りの「農福連携」だ。
それを尭が教えてくれて、沢田はハッとした。
「農家は、羨ましいと言ってるよ。補助金が毎月、きちんきちんと入ってくるからね。」
 
 障害者の作業所が羨ましいのか。
確かに、決まった額の補助金が毎月、きちんと入ってくる。この安定感が、農家から見れば、どれほど羨ましいことか。
農家は、常に不安を抱えている。種を蒔けば、うまく苗が育ってくれるか、苗がうまく育って実をつけてくれるか、規格外にならないか、収穫の適期はいつか、ちゃんと売れるか、それまでの間、天気が暴れ出さないか、次の野菜は何を植え付けるかなどなど、心配の種はつきない。これらが、すべてうまく行って、初めて収入になるのだ。
そんな農家から見れば、決まったことを毎日やっていれば、収入の心配がないというのは、とても羨ましい世界に違いない。
勿論、作業所側からの反論はあるだろう。俺たちの仕事の難しさや苦労が分かってるのか、と。
だが、障害者の作業所が羨ましいと見られていることは、沢田にとっては、盲点を突かれた思いだった。
障害福祉は歴史は長いが、最近では児童や高齢に光があたりがちで、いきおい障害分野が陰に隠れがちだ。それは端的に言って予算配分に現れる。障害側から見れば、いつも児童や高齢の後回しになっていると思えてしまうのである。
その障害分野の作業所が、外から見れば羨ましいということなのだ。自分は何とか障害の分野に光を当てようと努力してきたつもりだが、それは所詮福祉という枠の中でのことだった。より広い世界から見れば、もっと別の見方があったということだ。
 
 障害者の作業所が羨ましく見えてしまうほどに、農家の生活は苦しい。「米を作っていてはメシが食えない」という言葉すらあるそうだ。
 尭のような新規就農者に対しては就農補助金という制度があるのだが、その制度では、新規就農者の5年後の所得の達成目標額が250万円だという。営農を継続して、5年後に250万円に達するように計画を立てるのだそうだが、始めて聞いたとき、沢田は何かの聞き間違いかと思って確認したくらいである。
5年もやって、やっと最低賃金の水準か。これが、今の日本の農家の実態なのか。
尭の農業も経営という意味ではまだまだで、とても経済的に自立しているという水準ではない。だが、農家の全体がこういう厳しい状況に置かれているとしたら、それは個々の農家の経営努力の問題だけではないだろう。
 食を支える仕事、併せて自然環境も守っていく仕事、こんなに大切な仕事をしているのに、その仕事をしている人たちが生活していけないのか。
一方で、農家の生活をひっくり返してしまうような動きは昔からある。
かつて、高度成長期の頃は、高速道路や工場の用地のために農地が転用され、10倍、百倍の値段で買収された。しかも、こういう動きによって田園地帯は分断され、その後は集約が難しくなった。
 最近では、更に巧妙な手法が表われている。農家の生活の基盤は、言わずと知れた土地であり、先祖から受け継いできた土地を次の代に引き渡すことは、農家の最大の義務のようなものである。だが、今時、農家を継ぐ子供は少ない。ここに、農家の気持ちの負担を軽くする奇妙な方法が出て来て、徐々に広がっている。それは定期借地権という手法で、50年後には元通りになって返ってくる。土地を手放さなくてよいのだ。
 地主の合田さんは農業委員も務めていて地域の情報通である。合田さんが聞いた話では、特別養護老人ホームの敷地にするので土地を貸してくれという話で、その代金として、一時金が2億円、年間借地料を600万円で50年間払うという。そのうえ、50年後には元通りにして返ってくるのだそうだ。
農業で苦労して毎年600万円稼ぐのは相当に大変なことである。それが、何もしなくて毎年安定的に収入が確保され、億単位の一時金まであり、しかも土地はいずれ返ってくる。ご先祖様に申し訳ないと詫びる必要もない。
こんなおとぎ話のような話があるのだから、飛びつく者が出てくるのも不思議ではない。
 もっとも、合田さんによると、その地主の倅は、「もう農業をやり尽くした」と言っているそうで、周りの顰蹙を買っているらしい。その倅が農業にどれだけ取り組んできたかは、周囲の人間はよく知っているからだ。
合田さんが尭に言った。
「中山さんや尭君たちのように、農業が好きだといって新規で農業を始める人たちの方が、本当は農業のことを分かっているのかもなあ。
でも、あいつらも可哀想なところもあるんだよ。農家に生まれて好きでもない農家を継がされて、農業高校に行けばバカ校とバカにされるし。やっと運が回ってきたと勘違いしちゃうのも無理はないのかもな。それでも、農業をやり尽くしたなんて、お前の親父の苦労も知らねえのかって言われてるけどな。」
 沢田からすれば、市の農政課は農家の味方であってほしいと思うのだが、尭から聞く限りでは、農家の人たちの評価は微妙だそうだ。
 いつか、尭が農政課の職員の言葉についてこぼした時には、近所でスイカを作っている徳川さんが、「何だ!俺が今からバキュームカーで乗りつけて、うんこばらまいてくる」と息巻いてくれたそうだ。
 
 夕飯の時、珍しくワインが出ている。由美子は飲めないので、由美子がアルコールを食卓に並べることは滅多にない。
「今日は3周年のお祝いよ。」 由美子が唐突に言った。
「えっ、3周年って何だっけ?」 沢田が聞くと、尭が、はにかみながら答えた。
「3年前の今日、退院したんだよ。それから、今日まで入院しないで来られたんだ。3年間、入院しないって凄いでしょ。」
「そうか、もう3年経ったのか。これは凄いよ。よく、ここまで来たなあ。」
「うん、最初に入院して以来、3年も入院しないのは初めてだよ。頑張ったよ。」
「そうだなあ、よく頑張ってるよ。うん、じゃあ乾杯しよう。しかし、3年かあ。これは、よく頑張ったなあ。」
「何だよ、何回も。」と尭は混ぜっ返したが、尭自身が一番嬉しいのだ。10年以上、入院が当たり前の生活をしてきたのである。
「入院がアデイクションみたいになっていたんだ。スタッフが優しくしてくれるからね。
 でも、病棟で、死にたい、死にたいって言ってたら、スタッフが切れちゃってね、生きるしかないんだって。その時は反発したんだけど、特に、その人はとっても優しい人で、いつも、うん、うんって話を聞いてくれる人だったので、びっくりしちゃったこともあるんだけど、何でわからねえんだよ、あんたもかよって、こっちも怒鳴っちゃって。
 でも、今は違うよ。心底心配してくれていたんだって分かる。
坂本さんっていうんだけど、坂本さん、元気にしてるかなあ。坂本さん、入院しないで3年になったよって伝えたいなあ。」
「いつか、坂本さんに尭の野菜を届けられたらいいわね。」と由美子が応じる。
「ああ、尭のタマネギやナスを食べたら、みんなびっくりするんじゃないか。でも、3年も経ったのも、言われるまで気がつかなかったなあ。」と沢田が言うと、尭が答えた。
「うん、気がついてみたら3年経ってたんで、夢中だったよね。種を植えたら苗が出るか、いつもヒヤヒヤだし。定植した後だって、雨がいつ降るかな、いつ降るかなって待ってるしかないし、ヤキモキしちゃう。」
「うん、去年は雨が降らなかったから、ナスがどうなっちゃうかって心配で、年末に降ったときは安心したね。」
「有機の会の皆さんにもお世話になってるしね。」と由美子が言った。有機の会とは、S市で有機農業に取り組んでいる新規就農者の会で、一緒にマルシェを開催したり、情報交換を行なっている。ここの人たちから教わることは多いらしい。
「野菜づくりの方はね、自信がついてきたんだけど、毎月の例会に行くのはまだ怖いよ。前の日は眠れなかったりするし。」と尭が言うので、沢田が「今でも怖いと思うの?」と聞くと、「うん、楽しいし、勉強にもなるけど、やっぱり怖いのは抜けないね。」と尭は言う。
「慣れるわよ。尭は大丈夫。」と由美子が言い、尭は微笑みながら頷いた。
 
 沢田は、なかなか草刈り機に慣れない。機械は体は楽だが、神経が疲れる。小刻みな振動が手に伝わって、30分もすると、機械を止めても手が震えている。
 そんな苦手意識があるためか、今日も、草刈り機のレバーを力任せに引いて壊してしまった。そうしたら、「父さん、心配ないよ」と尭が慰めてくれた。
 そんなところに、中山さんがほっこりあらわれた。
「あっ、中山さん、お久しぶりです。」
「やあ、尭君、どう元気でやってる?」
「はい、なんとか」
「そう、元気そうでよかった。お父さんも久しぶりです。」
「いや、こちらこそ。すっかりご無沙汰してしまいまして。」
「ちょっと、こちらに来る用事があったので、そうだ、久しぶりに尭君の顔を見てみようと思って来ちゃいました。 この間ね、カフェのチロリン村に行ったんだよ。そしたら、マスターの植木さんがえらくほめてたよ。尭君に枝豆頼んだら、甘みがあって香りも強くて、凄くいいもの持って来たって。随分腕を上げたなって感心してた。」
「えっ、本当ですか? 植木さん、僕には何も言ってませんでした。」
「ああ、まあ、本人には面と向かっては言いにくいだろう。それに、植木さんはああいうタイプだし。」
そこで沢田が言った。「せっかくだから、中山さんと一緒に昼飯にするか。中山さん、どうですか? 大丈夫ですよね?」
 3人は、畑の近所の蕎麦屋に行った。ここは、この地域に昔からある蕎麦屋なので、少々泥で汚れた客でも気にしない。沢田たちが気兼ねなく使わせてもらえる、数少ない店だった。
そして好物の天ぷら蕎麦を食べながら、中山さんがポツリと言った。
「令和のコメ騒動なんて言ってるけど、またいつの間にか忘れられちゃうんですかねえ。」
「でも、コメの値段、結局、安くならないみたいですよ。」と尭が言うと、中山さんは、「うん、そうなんだけど、みんな慣れちゃうのかなあ。諦めちゃうのかもねえ。」
 ここで沢田も、一言、口を出したくなる。「テレビを見ていると、コメの値段が上がった下がったばっかりで、一喜一憂してるだけだけど、ちょっと違うだろうと思います。なんと言ってもコメは日本人の主食でしょ。生きていくうえで基本中の基本なんだから、安定していてくれなくちゃあ安心して生活していけないですよ。」
「そうなんですよ。政府は長年続けてきた減反政策を見直すとか言ってますけど、どこまで本気なのやら。また、いつの間にかうやむやになっちゃうような気がします。」
「でも、それって、何か、国民をバカにしているような感じです。」と尭が噛みついた。
「うん、そうだよ。だってさ、さっきお父さんが言われたように、主食であるコメをどうするかって話でしょう。ただ、減反政策をやめますだけじゃ終らないよね。これからはコメについてはこうしていきますっていうのを見せてくれないと。」
「それは、ビジョンみたいなものですか?」と尭が聞いた。
「そう。私たち農家も、買う側の消費者も、両方の側の納得のいく方法を考えて、これからはこういう仕組みでいく、だから、みんな心配しないでねってところまでの話が必要だと思うよ。」
「確かに、生産者は安心して生産を続けられる、消費者は安心して買い続けられるという仕組みが基本ですね。」
沢田がこう言うと、尭が聞いてきた。
「でも、そんな都合のいい仕組みってできるの?」
「ああ、そう思うよな、でもね、10年くらい前には農家の所得保障という制度があったんだよ。だけど、政権が変わったらすぐに無くなっちゃった。だから、政治って何なんだと思うよね。こういう社会の基本に関わる仕組みというのは、政治的な意見や立場に振り回されちゃあいけないんだ。」
中山さんが、しみじみと言った。「ほんとにそう思います。大部分の農家はかつかつでやっているんで。政治につき合っている余裕なんてないんです。」
「すいません。うちの父親が話すと、いつも話が変にでかくなっちゃって困ってるんです。」
「あっ、そうか、失礼しました。私の悪い癖で。」
「いや、ホッとします。こういう話は大事ですよ。この間なんか、ひどかったんです。役所の農政課の人と話していたら、中山さんは、国民はもっとコメを食えと言いたいのかと言われちゃって、絶句しました。もう、がっかりしましたよ。」
「えっ、農政課の人がそんなことを言うんですか?」
沢田が驚いて聞くと、尭が冷めた声で言った。
「農政課はね、農業委員会なんて潰せって言うくらいだからね。あの人たちの口癖は、大規模化と生産力だから。この間なんかね、じゃあ、大規模化って、どうやって進めるんですか? これだけ田んぼや畑が小さくて分散しているのに、って聞いたら黙っちゃった。それなのに、これは国民の声です、なんて言うんだよ。じゃあ、僕たち農家は国民じゃないのかよって言いたかったよ。あの人たちは、できあがった世界のなかで息しているだけなんだ。」
「うーん、そういう話を聞くと、役人のOBとしては、情けない気分になってくるね。まあ、でも、どこにも真っ当な人間がいるものだから、農政課にもちゃんと分かっている人がいるんじゃないかな。
 いや、失礼、そんな話はどうでもいいね。ことは、食に関する価値観というか基本的な話なんだから、農政課の人たちには真っ正面から取り組んでほしいなあ。
 ところで、これも素人考えで申し訳ないんですが、矢張り当事者が物言うことが一番重要で、説得力もあると思うんです。そういう意味からすると、例えば農協なんかはどう考えているんでしょう? 農協からの発信というのはあるんですか?」
「いや、私も農協には入っていないので、よく知りませんが、農協はそういう団体じゃあないでしょう。農林行政と長年、一緒にやってきたところですし。」
「うーん、本当ならね。農業は自然相手、生きもの相手なんだから工業とは全然違うんだとか、食料の生産なんだから生産者が安心して生産を続けられることが社会にとっても基本なんだとか、当事者が言うのが一番説得力があるんですがね。」
ここで尭が言った。「こんなんじゃあ社会がもたないよね。」
「ほんとだね。尭君の言う通りだ。みんな、自分のことで精一杯で、社会のことまで気が回らないのかな。もっとも、俺たちがこうして話してみたって、どうなるもんでもないけどね。」
「僕は、親父と違って制度とか仕組みの話は苦手なんだけど、こんなこと言うと、ちょっと見当違いかも知れないけど、みんな野菜の美味しさとか知らないんじゃないんですか。」
「ああ、それは俺も同感だなあ。スーパーで買ったことしかないから本当の味を知らないし、だから安ければいいとか、無いなら外国から買ってくればいいって思っちゃう。今度、尭君の枝豆を食わせてやればいいんだ。」
「ええっ、誰に食わせるんですか?」
「実際、私自身、都会のサラーマンにすぎないので、安い方がいいというふうになりがちなのも分かります。食料品といっても、チーズでも牛乳でも、加工食品の方が多いんじゃないですか。工場で作ってるんですよね。
結局、普段、自然に触れていないから、自然というのを実感として理解できなくなっちゃっているんじゃないかな。私が、最近感じているのは、野菜の生命力なんですよ。最初はね、手伝いを始めた頃は、雑草の生命力には参るなあなんて考えていたんですが、ナスでもオクラでも凄いですよね。毎日変わるし、オクラなんか大きくなるのが早くて1日に2回収穫しないと間に合わない。雑草どころか、野菜の生命力が凄い。」
「ホントに、収穫時期は毎日、これでもかあっていうくらい収穫が続くから。追い立てられているものね。とにかく自然に合わせるしかない。」
「農家は自然に合わせるしかないけど、でも、本当は自然の恵みですね。
お米が何で日本人の主食になったかと言えば、コメの栽培が日本の気候に適していたからで、温暖な気候で雨の量も多いのは、世界の中でも日本から中国、インドの一部にまたがる地域に限られているそうです。
ですから、せっかく美味しいコメを作れる条件っていうか自然の環境があるのに、しかも作りたいという農家がいるのに、自然の恵みを活かさないで、生産を減らせとか、コメが足りなくなったら外国から輸入すればいいとか、見当違いな方向に走っているような気がして仕様が無いです。」
「自然との共生とか言ってるけど、自然に反することを無理にやっている感じがしちゃう。」
「それからね、これは農家の端くれとして言うんだけど、今あるコメだって、昔からあったわけじゃなくて、ご先祖様たちがいろいろと工夫して改良して、今のコメになったわけでしょ。弥生時代か、もっと前かな、そこまで遡っちゃえば、雑草に毛の生えたものぐらいだったのかも知れない。そういうものを少しづつ改良して今の姿に変えてきたわけだから。」
「なるほど。野生の植物を、少しづつ人間の食料として有用なものに作り替えてきたのだと考えると、これは文化の結晶と言えるかも知れない。」
「あはは、また親父の話はでっかくなるけど、減反とか外国から買えばいいなんてのは、日本の文化に反するわけだ。」
「なんだ、尭の方こそ話がでかくなってるぞ。でも、それは、あながち間違いとも言えないだろうね。文化っていうのは地域と切り離せないんだから、地域や風土、これに根ざした衣食住。こういう関係が都市の生活では壊れてきてしまっている。それの象徴が、食の問題かも知れない。」
「つまりさ、もっと美味しさにこだわった方がいいってことかな?」
「そうだよ。チロリン村の植木さんが喜んで使ってくれると思うと尭君も力がはいるだろうし、植木さんの方だって、尭君の枝豆だから、きっと張り切って使ってるよ。」
「ええ、チロリン村でお客さんに喜んでもらえると思うと、何だか力が湧いてきます。」
「うん、俺や尭君がもっと美味しい野菜を作って、皆さんに食べてもらって、美味しいというのを実感してもらうことだね。」
「いやあ、とても中山さんにはかないません。タマネギでも、ナスでも、美味しいものができたなあと思いながら、中山さんのを思い出すと、また元気がなくなっちゃうんです。」
「でも、タマネギは、ホントにいいのができたんですよ。大きくて美味しいです。」と沢田が言うと、
「ああ、あれは実は施肥設計を間違えまして。」
「えっ、どういうこと?」と中山さんが聞いたので、「必要な肥料の計算を間違えました。計算は苦手なんで。有機野菜でこんな立派なタマネギ見たことないって言われました。」と尭が照れ笑いをしながら答えた。
「ああ、そういう失敗は何度でもすりゃあいい。野菜づくりは、毎回、理科の実験やってるようなもんだから。
でも、美味しさを感じてもらえるってのが、俺は農家の醍醐味だと思うね。農家の経営がもう少し楽になったら、新規就農の希望者が増えて、みんなが、もっと美味しいものを安心して食べられるようになるよ。それにしても、私は羨ましいです。尭君とお父さんが、こうして熱心に話してる。私には、こういう話をする相手がいないんですよ。」
「いや、僕らも、こういう話をしたの始めてです。中山さんのおかげですよ。中山さんが居なかったら、親父と二人じゃこういう話にはならなかったんじゃないかなあ。」
「私もそう思います。実は、尭とこうやって話し込んだのは、いつ以来だったかなと、今ずっと考えてたんですよ。こういう時間が持てるようになったんだと思いました。」
「そうですか、じゃあ、これは尭君の枝豆のおかげかも知れませんね。」
 
その帰り道、尭が軽トラを運転し、沢田は助手席から延々と続く畑を眺めている。里芋の畑、ネギの畑、落花生の畑もある。
「力が湧いてきます」と尭が言ってたな。随分、力強い言葉が出てきたものだ。
 そういえば、いつ頃からだろう。自分が尭に励まされるようになってきた。
毎日、畑に出て、いい野菜が作れるようになって自信がついてきてるのかな。土の具合いはどうか、雨が降らないか、虫はついてないかなど、心配事は尽きないが、自然に合わせるしかない。でも、自然と向き合うことで、尭は、自分の生活を組み立てだしたのかも知れない。
 そうか、向き合うということは、それだけの力をもっているのか。だとすると、向き合うということはただ怖いことではなくて、自分の力を引き出してくれるものなのかも知れない。
 ようやく、沢田はあるべきようが見えてきたように思った。 

                         (了)     

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