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続・小説が読めなくなっている(2014年2月2日)

 前々回、子どもたちが小説を読めなくなっていることを話題にとり上げました。

 メルマガの方では現在、昨年夏の学会・研究会のまとめをしていますが、解釈学会全国大会の国語教育学分野でも、子どもたちの読みの質の変化ついて研究発表がありました(日本女子体育大学教授 稲井達也先生「小説の読みに与える社会的状況の影響―中学2年の教材『アイスプラネット』と『盆土産』に即して」)。

 メルマガ記事は、また別の機会にnoteで掲載したいと考えています。

 子どもたちが小説を読めなくなっている事実は、国語科教員に共有されるべき問題となっているのです。

 さて、前々回の「小説が読めなくなっている」の中で、実際の例として示しました作品「沖縄の手記から」ですが、なかなか読み終えることができません。
 そしてとうとう、これまでなら考えられないような語意の誤りに愕然としました。

 助からないとわかっている負傷兵たちの世話をするために、病室壕に残ると言って譲らない「娘」に対し、「私」はたまらず「あなたにはお父さんやお母さんがいるだろう」と、怒鳴りつけてしまいます。すると、「娘はくずおれるように私の足もとにうずくまり、両手で顔を覆って嗚咽(おえつ)し始めた」のです。――この作品における最重要の場面です(娘は、沖縄戦が開始された地である慶良間の出身で、娘以外の家族はすでに皆、亡くなっていたのです)。

 「嗚咽」は、娘・当間キヨのものと思われる白骨化した死体を前に、「生きていた時の当間キヨと同じ嗚咽が、その時、私の胸にも込み上げてきた」という作品のラストにも再び登場する重要な語であるため、その意味をもちろん確認します。
 ――が、何人もの生徒が「オエッ」と物を吐く真似をし出し、「吐いたんでしょ?」と、答えるのです。正直、私はその場で〝くずおれ〟そうになりました。別のクラスを教えている担当教員も、同じことを嘆いていました(幸いにも、意味のわかる生徒たちが何人かで「違うよね。泣いたんだよね…」とささやきあっていて、くずおれるのだけはとどまることができました)。

 しかし、こうなったら気を取り直し、語の意味を調べさせればいいのです。
 「吐くのは〝嘔吐(おうと)〟でしょ?」という生徒もあり、それについても漢字を板書したりして、確認を行います。 原因は不明ですが、五年前の授業ではなかった語意の誤りです。ただ一つ言えるのが、子どもたちがいったん考えてみることなしに、目の前に初めて現れたはずの語・事実を、これまで知っている単純な語・事実と同一視したり、組み込んだりしていく安直な姿勢があるのことです。特に小説においては、それまでの流れかあって、今この段階での登場人物の言動が導かれるているはずなのに、その展開を無視して、発問された場面・行動だけを切り取って、自分の感覚・行動原理で判断しようとします。自己中心的と言えばそれまでなのかもしれませんが、これだけ貧しい語彙と短絡的な態度の中で、小説を読むことはもちろん、他者を思いやることが困難なのは当然だと思いました。

 先日ブックオフで、河合塾新宿校校舎長・齊藤淳一氏の『偏差値60以上のできる子の習慣 50以下のできない子の習慣』(中経出版)を購入しました。偏差値50以下の子どもたちには、勉強以前の問題としての生活習慣、物の考え方があることを、偏差値60以上の子どもたちのそれらと比較して指摘された本です。その中で、衝撃的な例があがっていました。
 ――講師の先生が、受講生から〝なぜ国語には英語の単語帳や日本史の用語集のようなものがないのか〟と質問され(それだけでも「まったく意味不明で、めまいがした」レベルですが…)、〝国語辞典を引いたことはないのか〟と聞いたそうです。その生徒は電子辞書を手にしていました。答えはノーなのすが、なぜならその生徒は『広辞苑』が国語辞典であることを、この時まで知らなかったからだというのです。――河合塾に通う生徒がこのレベルなのかと知り、私もめまいがしそうでした。

 しかし、「沖縄の手記から」では、希望も見えました。
 比較的早めに作品を読み進められたクラスで、復習を兼ねて、簡単な問いに答えて作品を確認するという作業を行いました。記述問題なので、答えには幅があることを事前に伝え、自分で考えて書いてほしいと伝えたところ、真剣に取り組む姿勢があったのです。そして、作品の最後の場面で「私」が「嗚咽」した心情について問うた問題では、それを表す語が一つではないはずだということを理解し、「悲しみ」のほか、語彙が豊かな生徒からは「喪失感」といった語も上がりました。あるいは「(私は娘を)助けられなかったと思っている」と答えた子に、別の言葉にできるかと聞くと「後悔だ」と答えたり――様々な段階にある生徒たちの状況を教員がそのままに受け止め、生徒たちにとってそれが各々の気づきに結び付くように仕向けるしかないと、覚悟を決めました。個人の読書ではなく、授業で小説を扱う意味の原点に戻れました。

 英会話のレッスンでも、私は現在、言い換えを先生方が奨励している段階です。英会話の学習を始めた当初の教務主任の先生が〝(英語の実力とは)最後は言い換え〟とおっしゃっていたのを思い出します。
 語彙の習得は、その語をどれだけ使用したか、特に実際の場面で使用したかです。先に紹介した『偏差値60以上のできる子の習慣 50以下のできない子の習慣』にも、〝偏差値60以上のできる子〟の一人が、「何でも覚えようと思って覚えられるもんじゃないですよ。でも、大事なこととして教わったことは、大事である理由や経緯があるし、そのことを考えれば、できること・使える場面が増える。それで『できる瞬間』がともなったら、忘れないです」とも言っていました。」とありました。覚えることにとって肝心なのは、「何回、覚えたいことに出合える機会を用意するか」にあるというのです。
 彼らが自分でそれができるようになるまでは、本当に〝体験させたい〟語は何かを作品の中から教員の側で精選し、それらを調べさせ、子どもたち同士で表現させ、さらに言い換えさせるといった、地道な努力しかないのでしょう。

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