橋掛リ、花道、盆 身体芸能としてのストリップ序説

——ストリップを観ながら『風姿花伝』を読んだ私の、花とは何か

序章 私の花とは何か

ストリップを観るようになって、震えるような感動に襲われることがある。16分ほどの身体と衣装による表現。にも関わらずそこで演じられるキャラクターが、その感情が目の前で生きている感じ。踊り子がその演目の中で、自分の身体を使って、時間や傷や欲望や祈りのようなものを立ち上げる瞬間に、どうしても身体が先に反応してしまうことがある。時には涙を流してしまうほどの情動の渦。

その涙は、映画や演劇を観て泣くときの涙とは少し違っていた。

物語の結末に泣いているのではない。
台詞に感動しているのでもない。
筋の巧みさに心を動かされているのでもない。

もっと手前で、身体が反応している。

踊り子が本舞台に立つ。花道を進む。盆に出る。曲が変わる。衣装がほどける。肌が見える。けれど、そのとき私が見ているのは、ただ裸になっていく身体ではない。

そこに、時間が現れる。

その人が生きてきた時間。その演目が重ねてきた時間。その曲に自分が持っている記憶。劇場に染み込んだ空気。観客たちのまなざし。
そして、その日、その場所でしか起こらない一回きりの震え。

その感覚をどう言えばいいのか考えているうちに、私は世阿弥の『風姿花伝』を劇場の暗がりで老眼鏡便りに読み直すことになった。

『風姿花伝』は世阿弥の代表的な能楽論であり、「年来稽古条々」「物学条々」「問答条々」などからなる、能の稽古論であり、演技論であり、観客論でもある。世阿弥はそこで、芸の魅力を「花」という言葉で考えた。

もちろん、世阿弥が語った「花」は、能役者の芸の花である。
ストリップの観客である私が、簡単に自分のものとして使える言葉ではない。

けれど、劇場で踊り子を観ながら『風姿花伝』を読むと、どうしても問いがずれてくる。

踊り子の花とは何か。演目の花とは何か。
そして、観客である私の花とは何か。

ここで言う「私の花」とは、自分が美しく咲くという意味ではない。むしろ逆である。

私の中のどこが、舞台の身体に反応してしまうのか。私のどんな記憶が、踊り子の身体によって呼び起こされるのか。
私は何を見ているつもりで、何を見返されているのか。私の欲望は、どこでただの消費になり、どこから見届けることへ変わるのか。

その問いを、私は「私の花とは何か」と呼んでみたい。

ストリップを観ることは、踊り子の花を見ることだけではない。
観客である自分の中に、まだ名づけられていなかった感情の花が咲いてしまうことでもある。

この文章は、その問いから始めたい。

第一章 映画でも演劇でもなく、能や歌舞伎に近い身体感覚

ストリップには、物語がある。

衣装があり、楽曲があり、登場があり、展開があり、終わりがある。踊り子によっては、少女の時間、恋の記憶、都市の孤独、神話、死者、祈りのようなものまで、ひとつの演目の中に立ち上げる。

けれど、私がストリップを観て受け取っているものは、映画や演劇の物語性とは少し違う気がしていた。

映画はカットで時間を組み立てる。
演劇は台詞や関係性で場面を立ち上げる。
ストリップは、もっと直接に、身体、音楽、距離、視線、反復、消失によって成り立っている。

だから私は、ストリップを観るとき、むしろ能や歌舞伎を観たときの身体感覚に近いものを覚える。

能を観るとき、私は物語を理解するより先に、身体の遅さに捕まる。橋掛リからシテが現れる。摺り足で、ゆっくりと舞台へ入ってくる。その人物が誰なのかを頭で理解する前に、空間の温度が変わっている。

歌舞伎を観るときもそうだ。役者が花道に現れる。七三で見得を切る。その瞬間、物語の時間が止まり、客席全体がその身体に吸い寄せられる。

ストリップを観ているとき、私の身体に起きていることも、それに近い。

踊り子が花道を進み、盆に立つ。盆が回る。正面だった身体が、横顔になり、背中になり、うなじになり、足先になり、またこちらを向く。

その回転の中で、ひとりの身体が、いくつもの意味に変わっていく。

可愛い人だったはずが、急に孤独な人になる。
強い人だったはずが、ふいに壊れそうに見える。
エロティックな身体だったはずが、一瞬、祈っているように見える。
観客に見られているはずの人が、気づけばこちらの欲望を見返している。

私はそのとき、物語を読んでいるのではない。
身体に宿った時間を浴びている。

この身体感覚から、能、歌舞伎、ストリップをつなぐ三つの場所が見えてくる。

橋掛リ。
花道。
盆。


第二章 原初の能――花は河原で咲いていた

現在の能は、静かな古典芸能として受け止められている。

面。装束。謡。囃子。鏡板の松。摺り足。橋掛リ。

そこには、幽玄、格式、沈黙、余白という言葉が似合う。

しかし、能ははじめからそのような古典だったわけではない。能の源流には、平安・鎌倉期の猿楽があり、そこには曲芸、物まね、寸劇、滑稽芸などの雑芸が含まれていた。さらに田楽も能を演じ、猿楽と田楽が競い合う中で、能は成長していった。観阿弥は曲舞のリズムを猿楽の謡に取り込み、猿楽の地位を高めたとされる。

つまり、原初の能は、もっと雑多で、庶民的で、身体的な芸能だった。

寺社の境内。河原。仮設の舞台。人々に囲まれた空間。神事と娯楽がまだ分かれていない場所。

そこでは、神も、鬼も、物まねも、滑稽も、曲芸も、舞も、声も、同じ芸能の場にあった。

このことを思うと、能とストリップの距離は少し近づく。

ストリップ劇場もまた、清潔に制度化された芸術空間ではない。そこには欲望がある。拍手がある。視線がある。香盤がある。劇場ごとの空気がある。踊り子を見に来る観客の熱がある。

能が古典になる前に持っていた、祭り、見世物、身体、群衆の熱。
そのいくつかは、ストリップ劇場にもまだ残っているのではないか。

もちろん、能とストリップは同じではない。
しかし、どちらも「身体を通して、人が人ならざるものになる芸能」である。

能では、人は死者になり、神になり、鬼になる。
ストリップでは、踊り子は少女になり、都市の女になり、神話になり、妖刀になり、亡霊になり、ときにはただの本人を超えた一瞬の花になる。

その変身を、観客が見届ける。

ここに、同じ地下水脈が流れている。

第三章 権威化された能――守られた花と、遠ざけられた身体

能は、観阿弥・世阿弥によって洗練され、武家権力に取り込まれ、やがて江戸時代には幕府の儀式に用いられる式楽となる。

ここで能は、権威化される。

身体は残った。謡も残った。面も装束も残った。
型も受け継がれた。

権威に守られたからこそ、能は数百年を超えて残った。
しかし、守られることで遠ざけられたものもある。

庶民性。見世物性。河原のざわめき。身体の危うさ。女性芸能者の実演身体。観客の熱狂。

能の成立には、白拍子や曲舞といった女性芸能者の系譜も関わっている。曲舞は白拍子から派生した芸能とされ、観阿弥は曲舞を学び、そのリズムを能に取り入れた。 

つまり、のちに男性中心の古典芸能として制度化された能の地下には、女が歌い、舞い、物語を運んだ身体が流れていた。

この事実は、ストリップを考えるうえでとても大きい。

能は、女性芸能者の身体と声を吸収しながら、男性中心の古典芸能になっていった。
ストリップは、女性の実演身体を中心にしながら、いまだ古典芸能としては認められていない。

この非対称性は、ただの文化的評価の差ではない。
どの身体が保存され、どの身体が周縁化されてきたのかという問題である。

「私の花とは何か」という問いは、ここでまた少し形を変える。

私は、何を美しいと感じるように訓練されてきたのか。
何を芸術と呼び、何を風俗と呼び分けてきたのか。
どの身体を古典として守り、どの身体を消費してきたのか。

ストリップを観ながら『風姿花伝』を読むということは、この区分そのものを問い返すことでもある。

第四章 歌舞伎――女の身体、河原、そしてスターの花道

能が権威化されたあと、もう一度、河原から立ち上がった芸能がある。

歌舞伎である。

歌舞伎の始まりには、出雲阿国のかぶき踊りがあるとされる。阿国が1603年に人気を得たのち、多くの女性芸人や遊女がその踊りをまね、京都の四条河原や江戸の吉原に舞台が作られ、女歌舞伎が演じられるようになった。 

ここには、女の身体、男装、三味線、都市の流行、河原の熱狂があった。

能が武家の式楽として上へ上がっていくなら、歌舞伎はもう一度、下から、都市の身体として現れた。

しかし、女歌舞伎は風俗を乱すものとして禁止される。やがて若衆歌舞伎も禁じられ、歌舞伎は成人男性による野郎歌舞伎へと移っていく。

ここにも、古典化の力学がある。

歌舞伎は、女の身体と都市の熱狂から始まった。
しかし、その危うさを管理することで、男性中心の様式芸能になった。

能と同じように、歌舞伎もまた、女性の身体を起点にしながら、女性の実演身体を舞台の中心から遠ざけていった芸能である。

ただし、歌舞伎は能とは違うものを残した。

それは、スター性である。

見得。六方。大向こう。役者評判。花道。

歌舞伎の花道は、単なる通路ではない。役者が客席を貫き、物語の人物が観客のすぐそばまで来る場所である。そこでは、舞台と客席の境界が揺らぐ。

能の橋掛リが、あちら側から死者や神が来る道なら、歌舞伎の花道は、都市のスターがこちらへ現れる道である。

この花道の感覚は、ストリップの花道にもつながる。

踊り子が本舞台から花道を進む。
遠くにいた身体が、近づいてくる。
物語だったものが、生身になる。
観客は、その近さに巻き込まれる。

能は、死者の身体を舞わせた。
歌舞伎は、都市のスターを花道に立たせた。
ストリップは、生きている踊り子の身体を、観客のすぐ前の盆で回転させる。

ここに、三つの身体芸能の三角形が生まれる。

第五章 橋掛リ、花道、盆――三つの通路

ここで、三つの場所を並べてみたい。

橋掛リ。
花道。
盆。

能の橋掛リは、舞台と鏡の間をつなぐ通路である。そこを通ってシテが現れる。そこから来るのは、ただの登場人物ではない。死者であり、神であり、鬼であり、かつて人間だったものの記憶である。

橋掛リは、あちら側からこちら側へ来る道である。

歌舞伎の花道は、客席を貫く。役者はそこを通って現れ、去っていく。客席は、ただ舞台を見る場所ではなく、役者の身体に貫かれる場所になる。

花道は、都市のスターが観客の中へ入ってくる道である。

では、ストリップの盆とは何か。

盆は、踊り子の身体が観客の視線の中で回る場所である。

本舞台にいた踊り子が、花道を進み、盆へ出る。そこで身体は、正面からだけ見られるものではなくなる。横顔、背中、うなじ、足先、肩、腰、振り返る目線。そのすべてが、回転の中で観客に差し出される。

盆の上では、身体の意味が固定されない。

可愛い。強い。寂しい。エロティック。祈っている。壊れそう。病んでる。見返している。

その意味が、回転するたびに変わる。

能の橋掛リが、異界から現れるための通路なら、歌舞伎の花道は、スターが客席を制圧するための通路である。
ストリップの盆は、身体が観客の視線を受けながら、その視線を反転させる場所である。

見ているつもりが、見返される。
消費しているつもりが、自分の欲望を問われる。
裸を見ているつもりが、裸にできないものを見てしまう。

この反転こそ、ストリップの重要な力だと思う。

泉沙織氏は、初期ストリッパーの実践について、踊り子が「芸術」志向や観客を見返す演技によって、一方的な性的客体化をひるがえし、自らを主体として位置づけようとしていたと論じている。 

この「見返す」という視点は、私がストリップを観て受け取ってきた身体感覚にも深く重なる。

踊り子は、ただ見られているのではない。
盆の上で、観客の視線を受けながら、その視線を変えている。

だから盆は、単なる回転装置ではない。
まなざしを回転させる装置である。

第六章 舞い方の違い――沈む能、決める歌舞伎、ほどけるストリップ

舞台構造が違えば、身体の使い方も変わる。

能の身体は、沈む。

摺り足で床を進み、余分な動きを削ぎ落とし、静けさの中に気配を立てる。能のシテは、飛び跳ねるのではなく、沈む。地上に引き留められながら、どこかこの世のものではない。

能の舞は、死者にふさわしい。
すでにこの世を離れたものが、もう一度だけ地上を踏むような身体である。

歌舞伎の身体は、決める。

見得を切る。六方を踏む。花道で止まる。大きく構える。観客の視線を奪う。

歌舞伎は、動きの過剰さと停止の力で、身体を意味に変える。感情は、内面として説明されるのではなく、形になる。怒りも、色気も、悲しみも、役者の身体が決めた瞬間に、客席へ放たれる。

ストリップの身体は、ほどける。

衣装をまとって現れる。
曲に乗る。踊る。
脱ぐ。
ベッドに入る。
盆がまわる。
ポーズをとる。
立ち上がる。

その過程で、身体は少しずつ意味を変えていく。

役だったものが、本人に近づく。
本人だったものが、また別の存在になる。
裸になるほど真実に近づくのではない。
むしろ裸になったあとに、なお演技が残る。

ストリップにおける脱衣は、単なる露出ではない。
役をほどくことであり、役を深めることでもある。

ナースがナースでなくなる。少女が少女でなくなる。女神が女神でなくなる。
けれど、何者でもなくなったはずの身体が、最後にもっと強く、何かになっている。

能は、身体を沈めて死者を呼ぶ。
歌舞伎は、身体を決めて都市を沸かせる。
ストリップは、身体をほどきながら、観客の視線の中で別の存在へ変わっていく。

この「ほどける身体」が、ストリップの舞い方の核心だと思う。

そして私の花とは、その「ほどける身体」によって、自分の中の凝り固まったなにかがほどける瞬間なのかもしれない。

第七章 演目の類型――神、女、狂、鬼から、少女、都市、傷、異界へ

能には、演目の類型がある。

神。男。女。狂。鬼。

神が現れ、武者の霊が語り、女が恋や記憶を舞い、物狂いがさまよい、鬼や怨霊が姿を見せる。

これは能だけの分類ではない。身体芸能が長く扱ってきた、人間の変身の基本形でもある。

神になる身体。死者になる身体。女になる身体。
狂う身体。鬼になる身体。

歌舞伎にも、これに近い類型がある。

女方。立役。娘。怨霊。鬼。変化舞踊。

娘が獅子になり、姫が鬼になり、人間だったものが人間ではないものへ変わる。

そしてストリップの演目にも、同じように、いくつかの類型があると思う。

神話の演目。少女の演目。都市の演目。恋の演目。
傷の演目。妖刀や天狗や亡霊の演目。
周年作や引退作のように、踊り子本人の時間を背負う演目。

神話的な演目では、踊り子は人間ではないものになる。天照、龍、月、鳥、天狗、妖刀。そこではコスプレではなく、身体が異界の気配を帯びる。

少女の演目では、可愛さが型になる。可愛いとは、自然に出るものではない。視線を受け止め、ずらし、操り、返すための技術である。あざとさもまた、芸である。

都市の演目では、恋や孤独やネオンや資本主義の中で生きる女が現れる。これは現代の鬘物かもしれない。待つ女、失う女、忘れられない女、東京の夜に立っている女。

傷や喪失の演目では、物狂いの系譜が見える。壊れること、探すこと、戻れないこと。それを舞台上で美しい型へ変えるから、観客は泣く。

妖刀や鬼や亡霊の演目では、切能の気配がある。人間ではないものに取り憑かれる身体。怒りや怨みや祈りが、裸の身体を通して立ち上がる。

周年作や引退作には、演目の役柄を超えて、踊り子本人の時間が濃く宿る。そこでは、演目そのものが芸歴の器になる。

世阿弥の言葉を借りるなら、若さの花だけではなく、時間をくぐった花が見える。

ストリップの演目は、ただ「何のコスチュームか」では捉えられない。

それは、踊り子が何者になり、何者から降り、最後に何を残すかの設計である。

第八章 謡、三味線、楽曲――私の記憶を呼び出すもの

能には謡がある。
歌舞伎には三味線と語りがある。
ストリップには楽曲がある。

この三つは、単なる伴奏ではない。

能の謡は、物語を運ぶ。死者の記憶、土地の由来、恋の執着、戦の記憶、神の祝福が、声によって舞台に立ち上がる。

歌舞伎の三味線や語りは、情念を運ぶ。役者の身体と音楽が結びつき、場面の色気、悲しみ、怒り、華やぎを作る。

ストリップの楽曲もまた、ただのBGMではない。

J-POP、歌謡曲、ロック、洋楽、映画音楽、クラシック、アニメソング。その曲が、踊り子の身体に重なる。歌詞が、観客の記憶を呼ぶ。メロディが、その人の肌に別の時間をまとわせる。

ストリップの楽曲は、その踊り子にとっての謡である。

同じ曲でも、誰が踊るかで意味が変わる。
同じ演目でも、どの週に見るかで意味が変わる。
周年なのか、復帰なのか、引退が近いのか。
観客自身がその曲にどんな記憶を持っているかでも、まったく違って見える。

ストリップは、ポピュラー音楽の記憶を使う芸能である。

能が古典文学や神話や和歌の記憶を呼び込むなら、ストリップは歌謡曲やJ-POPや映画音楽の記憶を呼び込む。

だから、ストリップで泣くとき、その涙は踊り子だけに向かっているのではない。

その曲を聴いていた頃の自分。失った時間。
忘れていた感情。もう戻れない場所。
それらも一緒に立ち上がっている。

踊り子の身体は、曲を浴びている。
観客の身体もまた、その曲を浴びている。

その二つの身体のあいだで、演目は成立する。

ここでもまた、私の花は踊り子の外側にだけあるのではない。
その曲によって呼び起こされてしまう、私自身の記憶の中にも咲いている。

第九章 夢幻能としてのストリップ

私は、ストリップに夢幻能の気配を感じることがある。

夢幻能では、旅の僧などのワキがある場所を訪れる。そこに前シテが現れ、土地の記憶や過去の物語を語る。やがてその人物は姿を消し、後場で霊や神や鬼として本来の姿を現す。

前シテ。
中入り。
後シテ。

人間の姿で現れたものが、実はこの世ならざる存在だったとわかる。

ストリップにも、これに似た構造がある。

踊り子はまず、衣装をまとって現れる。少女であり、ナースであり、花嫁であり、女神であり、アイドルであり、妖刀であり、都市の女である。

しかし曲が進み、衣装がほどけ、肌が現れるにつれて、その人は単なるキャラクターでも、単なる本人でもなくなっていく。

前シテとしての衣装。
後シテとしての裸。

ただし、ここで間違えてはいけない。

裸が真実なのではない。

裸になったあとに、なお残るもの。
裸になっても消えない役。
裸になることで、むしろ濃くなる演技。
そこに、ストリップの本体がある。

能では、面をつけることで、個人の顔を超えた存在が現れる。
ストリップでは、衣装を脱ぐことで、個人の身体を超えた時間が現れる。

能面は、隠すことで魂を出す。
ストリップは、あらわにすることで、なお見えないものを残す。

だから、ストリップの裸は、すべてを見せるものではない。
むしろ、見えないものを強くする。

そこに、夢幻能との深い接点があるような気がする。

第十章 観客の花――見ること、見返されること

能にはワキがいる。

ワキは主役ではない。けれど、ワキがそこへ来なければ、シテは語り出さない。旅の僧がある場所を訪れ、土地の記憶を聞き、亡霊と出会う。ワキは、死者の語りを引き出す存在である。

ストリップにおける観客も、どこかワキに似ている。

観客は舞台に上がらない。
台詞を返すわけでもない。
物語を直接動かすわけでもない。

けれど、観客がいなければ、演目は成立しない。

拍手。手拍子。まなざし。沈黙。リボン。タンバ。
差し入れ。手紙。観劇記。Xの感想。などなど

それらはすべて、踊り子の舞台を受け止める行為である。

もちろん、観客のまなざしは無垢ではない。そこには欲望がある。消費がある。身体を所有したいという錯覚が生まれる危険もある。

だからこそ、ストリップでは「見返される」ことが重要になる。

踊り子は、ただ見られているだけではない。
舞台の上から、観客を見返している。

その一瞬、観客は自分が見ていることを意識する。自分の欲望が、自分の視線が、自分の孤独が、舞台の身体によって照らし返される。

私は、ストリップの倫理はここにあると思う。

見ることを禁止するのではない。
見ることの暴力性をなかったことにするのでもない。
見ている自分が、見返されること。
その緊張の中で、観客は初めて、ただの消費者ではなく、見届ける者になれる。

私の花とは、たぶんこの緊張の中にある。

踊り子の花を見ようとして、私は自分の欲望のかたちを見返される。
裸を見ているつもりで、裸にできないものを見てしまう。
演目を消費しているつもりで、自分の中の傷や祈りに触れてしまう。

そこで咲いてしまうもの。

それが、観客である私の花なのだと思う。

終章 まだ古典になっていない花

ストリップを古典にしたいわけではない。

古典になれば救われる、と言いたいわけでもない。古典化は、守ることでもあるが、同時に危うさを薄めることでもある。

能は、古典化されることで残った。
歌舞伎も、古典化されることで残った。

けれど、その過程で遠ざけられたものもある。

庶民のざわめき。河原の熱。女性の実演身体。
性の危うさ。観客との近すぎる距離。

ストリップには、それらがまだ残っている。

だからこそ危うい。だからこそ偏見も受ける。
だからこそ制度的に不安定で、労働としても語られなければならない。

けれど同時に、そこには、まだ古典になっていない花がある。

『現代ストリップ入門』は、2010年代半ば以降に女性観客が増加し、ストリップが身体表現を多様な価値観で楽しむ文化として再注目されていることを紹介している。 
それは、ストリップが単に過去の大衆娯楽として残っているのではなく、いまも観客の身体感覚を更新している芸能であることを示している。

能は、身体を沈めて死者を呼んだ。
歌舞伎は、身体を決めて都市を沸かせた。
ストリップは、身体をほどきながら、観客の視線の中で回転している。

その回転の中に、私は花を見る。

守られていない花。
すぐに散ってしまう花。
曲が終われば消える花。
ポーズが終われば消える花。
盆の回転が止まれば、もう同じ角度では二度と見られない花。

だからこそ、書き残したくなる。

能には謡本がある。
歌舞伎には台本があり、型があり、役者評判記がある。
ストリップには、演目名、楽曲、衣装、ポーズ、観客の記憶、手紙、観劇記、ZINE、note、Xの断片がある。

それらは、未来の謡本なのかもしれない。

いま劇場で起きていることを、ただの裸として片づけたくない。

そこには、能が持っていた死者性がある。
歌舞伎が持っていたスター性がある。
そして、どちらも制度化の過程で遠ざけてきた、女性の身体、観客の欲望、恥、労働、近さ、親密さがある。

橋掛リを渡る死者を見るために。
花道に立つ役者を見るために。
盆の上で回る踊り子を見るために。

人は劇場へ行く。

身体は、ただ見られるものではない。
身体は、時間を運ぶ。欲望を跳ね返す。死者を呼ぶ。身体は、まだ名づけられていない自分を、舞台の上に連れてくる。

ストリップの源流を探るとは、その地下水脈をたどることなのだと思う。

能の花。
歌舞伎の花。
ストリップの花。

それぞれ別の場所に咲いているようで、地下では同じ水を吸っている。

そして、ストリップを観ながら『風姿花伝』を読んだ私の花とは何か。

それは、踊り子の身体に咲く花を見ているうちに、自分の中にも咲いてしまった、名づけがたい感情のことである。

欲望と祈りのあいだ。見ることと見返されることのあいだ。消費と見届けのあいだ。恥と美しさのあいだ。裸と、裸にできないもののあいだ。

そのあいだに咲いてしまうもの。

私はその花を、
ストリップ劇場の盆の回転の中で私は、
ただ見つめていたい。

参考文献・参照資料

世阿弥『風姿花伝』
本稿の中心にある「花」の概念の出発点。ここでは世阿弥の「花」をそのままストリップに適用するのではなく、ストリップを観る観客の身体感覚から読み替えるための補助線として参照した。『花伝』が世阿弥の代表的な能楽論であること、七篇から成ることについては文化デジタルライブラリーを参照。

日本芸術文化振興会「文化デジタルライブラリー」能楽関連ページ
猿楽・田楽・曲舞・観阿弥・世阿弥に関する基礎資料として参照。能の源流が猿楽・田楽などの雑多な芸能にあること、観阿弥が曲舞のリズムを謡に取り入れたことを確認するために用いた。

日本芸術文化振興会「文化デジタルライブラリー」歌舞伎関連ページ
出雲阿国、女歌舞伎、四条河原、吉原、女芸人・遊女による歌舞伎の広がりを確認するために参照。歌舞伎を「女の身体と都市の熱狂」から立ち上がった芸能として見るための基礎資料。

泉沙織「戦後日本における初期ストリッパーの実践――『芸術』志向とまなざしの転覆――」『年報カルチュラル・スタディーズ』10号、2022年
初期ストリッパーが観客の一方的な性的客体化に対して、「芸術」志向や「見返す」演技を通じて主体性を立ち上げたという重要な論文。本稿の「見られる身体から見返す身体へ」という論点の重要な支え。

武藤大祐・夏堀うさぎ編著『現代ストリップ入門』
2010年代半ば以降の女性観客の増加、ジェンダーやセクシュアリティをめぐる現代的関心、ライブ・パフォーマンスとしてのストリップを考えるための重要文献。

天野文雄『現代能楽講義――能と狂言の魅力と歴史についての十講』
能の歴史、夢幻能、現在能、舞台構造、能楽の制度化を理解するための基本文献として参照候補。

松岡心平『中世芸能講義――「勧進」「天皇」「連歌」「禅」』
猿楽・田楽・勧進興行など、中世芸能の雑多さと祝祭性を理解するための参照候補。

川添裕『江戸の見世物』
近世の見世物文化、観客が身体や異形や技芸を見に行く文化を考えるための参照候補。

橋本与志夫『ヌードさん――ストリップ黄金時代』
戦後ストリップの空気、踊り子、劇場文化を知るための回想・資料的文献として参照候補。

みのわひろお『日本ストリップ50年史』
日本のストリップ史を大きく把握するための年表的・通史的資料として参照候補。

早乙女宏美『ストリップ劇場のある街、あった街――浅草・新宿・船橋・札幌の〈ピンク文化〉とそれを支えた人びと』
ストリップを踊り子個人だけでなく、街、劇場、人びとの記憶として考えるための参照候補。

リチャード・シェクナー『パフォーマンス研究――演劇と文化人類学の出会うところ』
能・歌舞伎・ストリップを「作品」ではなく、観客を含む場で起きる身体的出来事として捉えるための理論的補助線。

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