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QUEENとガガとプッシー・ライオットの黒とピンク。『BREAK FREE』とは何か?

2026年の7月中旬、川崎ロック座の劇場の闇に深く身を沈めていた時、風花カフカさん『BREAK FREE』の黒とピンクが目に飛び込んできた。黒い衣裳のなかから赤いリップが取り出され、そのあとに鮮やかなピンクの髪が現れる。そして最後にその衣裳は剥がされ、身体そのものが剥き出しになる。

ストリップ劇場では見慣れた光景だが、私はその色の移り変わりが、なぜだかずっと身体に残っている。

黒からピンクへ。そのあいだに、ほんの小さな赤が差し込まれる。

舞台の上では一瞬の出来事だったはずなのに、その赤を見た途端、私のなかで、時代も場所も違う二つの映像が勝手につながりはじめた。

ひとつは、1984年に発表されたクイーンの「I Want to Break Free」のミュージックビデオである。

口ひげを残したまま、ピンクのトップスと黒いミニスカート、ストッキングとハイヒールを身につけ、掃除機を押しているフレディ・マーキュリー。クイーンの四人がドラァグ姿でイギリスの長寿ドラマ『コロネーション・ストリート』の家庭風景をパロディーにした、あまりにも有名な映像だ。

もうひとつは、42年後の2026年5月6日、ヴェネチア・ビエンナーレのロシア館前に現れたプッシー・ライオットの姿である。

黒い服に、鮮やかなピンクの目出し帽。ピンクや青や黄色の煙が立ちこめるなか、プッシー・ライオットとFEMENのメンバーたちはロシア館の前を塞ぎ、反戦の言葉を叫んだ。ロシアによるウクライナ侵攻後、四年ぶりに同国がビエンナーレへ復帰したことへの抗議であり、ロシア館は一時的に閉鎖された。

もちろん、風花カフカさんが、クイーンからプッシー・ライオットへと続く黒とピンクの歴史を、意図して演目に織り込んだと言いたいわけではない。

これは『BREAK FREE』の解説ではない。演者本人の意図を代弁するものでもない。ただ、あの舞台を観た私の身体のなかで、フレディ・マーキュリーの黒とピンクがヴェネチアの黒とピンクへと流れ込み、その二つがカフカさんのピンクの髪のなかで出会ってしまった。

そして、その二つの映像のあいだに、あとからもう一人、鮮やかなピンクの髪をなびかせたレディー・ガガが割り込んできた。

まったく勝手な妄想である。
けれど舞台を観るとは、ときどきそういうことではないだろうか。
目の前にある身体に触発されて、そこにはないはずの記憶が呼び起こされる。記憶が別の記憶を連れてきて、遠く離れた時間や場所が、観客の身体のなかで突然隣り合う。演目が一つの答えを示すのではなく、観た者のなかで、まだ名前のない思考が動きはじめる。

『BREAK FREE』の黒と赤とピンクは、私にとって、そんな思考の始まりだった。

掃除機を押すクイーン

クイーンの「I Want to Break Free」に登場する黒とピンクは、まず笑いの色である。

世界的なロックバンドの男たちが女性の服を着て、朝の家庭内労働を演じている。けれど、彼らは女性へ完全になりきろうとはしない。とりわけフレディは、口ひげを残したままピンクの服と黒いスカートを身につける。男性である痕跡を消し、女性として自然に見えることを目指すのではなく、本来なら同じ身体の上に並ばないとされてきた記号を、あえて衝突させている。

その姿を見ていると、「男」と「女」の境界が消えるというより、そもそもその境界が衣服や仕草や役割の反復によってつくられていたのだと気づかされる。

ロックスターであるはずの男が主婦を演じ、欲望する側に置かれてきた身体が、同時に見られる身体になる。私たちはそれらを互いに反対のものだと思っている。けれどフレディは、そのすべてを一つの身体に乗せ、掃除機を押しながら、分類しようとするこちらの視線を笑っている。

だからあの映像における自由とは、女装を脱ぎ捨てて「本当の男」に戻ることではないのだと思う。
自分の奥底に、たった一つの本当の姿が隠されているわけでもない。

黒を着ることも、ピンクを着ることもできる。男でありながら女の役割を演じ、女の記号をまといながら男である痕跡を残す。そのたびに別の自分が現れ、どの自分も嘘ではない。自由とは、記号を持たないことではなく、自分を縛ってきた記号を、自分の手で動かせるようになることなのかもしれない。

フレディの身体の上では、黒とピンクは対立しない。
反抗や強さを思わせる黒は、かわいさや柔らかさを思わせるピンクを打ち消さない。むしろ二つが同時にあることで、かわいさは不穏になり、強さはどこか滑稽になる。どちらの意味も安定せず、身体は一つの読み方から逃げ続ける。

その逃げ続ける身体を、もっと人工的に、もっと巨大に、もっと傷つきながら踊るものへ変えたのが、私にとってはレディー・ガガのピンクだった。

傷を踊らせるレディー・ガガのピンク

2020年に発表された「Stupid Love」の映像で、レディー・ガガは鮮烈なピンクの髪と衣裳をまとい、荒涼とした惑星を踊っている。

その世界では異なる色をまとった集団が争い、ガガが率いるピンクの者たちは「Kindness Punks」と呼ばれる。平和を遠くから祈るのではなく、争いのただなかへ身体ごと駆け込み、音楽と踊りによって関係を変えようとする「優しさのパンクス」である。

ここでのピンクは、柔らかく受け身な優しさの色ではない。

ガガの髪も、化粧も、衣裳も、あまりに鮮やかで人工的である。身体から自然に滲み出た色というより、生身の身体の上へもう一つの身体をつくるための色に見える。棘や金属のような装飾をまとったピンクは、かわいらしさの記号であると同時に、彼女を世界から守る外骨格でもある。
ピンクなのに、鎧なのだ。
しかもそれは、傷つかないための無敵の鎧ではない。ガガは『Chromatica』を制作することを、自らの痛みと向き合うための営みとして語っている。痛みを消し去ってから明るい音楽をつくったのではなく、痛みを抱えたまま、それでも踊るための音楽をつくった。
私はそこに、ガガのピンクの奇妙な強さを感じる。
傷を黒い場所へ押し込み、なかったことにするのではない。かといって、傷口を生のまま観客へ差し出すのでもない。痛む身体に人工の髪をつけ、巨大な衣裳を着せ、ビートに乗せる。言葉だけでは形にできなかったものを、過剰な色と動きへ変換する。

ガガは傷を説明するのではなく、傷ついた身体ごと踊らせる。
踊っているから苦しくないのではない。癒やされたからピンクになったのでもない。苦しい身体が、苦しいまま踊りはじめ、その姿に呼び寄せられた別の身体が加わり、いつの間にか一人の痛みが群舞になっている。

フレディのピンクが、男と女の役割は着替えられるのだと笑ってみせた色なら、ガガのピンクは、その着替えによって人は生き延びることもできるのだと示す色である。

衣裳を脱ぎ、化粧を落とした先にだけ「本当の自分」がいるのではない。
生身のままでは世界に耐えられない日には、昨日とは違う身体を自分でつくる。怪物と呼ばれたなら、もっと大きく、美しく、誰にも飼い慣らせない怪物になる。女らしさを押しつけられたなら、それを過剰に拡大し、棘を生やしてしまう。

そうしてガガのピンクは、クイーンの笑いに呼応しながら、笑いだけでは包みきれない痛みを引き受けていく。

そして、その群舞が架空の惑星を飛び出し、現実の国家の前に立ったとき、ピンクはさらに別の顔を持ちはじめる。

発煙筒を掲げるピンク

クイーンの黒とピンクから42年後、ヴェネチアに現れたプッシー・ライオットの黒とピンクは、もっと切迫した政治の色になっていた。

本来、目出し帽は顔を隠すためのものだ。とりわけ黒い目出し帽は、兵士や特殊部隊、強盗やテロリストといった、匿名の男性的暴力を連想させる。

ところがプッシー・ライオットは、その覆面を蛍光色のピンクに変えてしまう。

少女の衣服や玩具、甘い菓子、化粧品や下着を連想させるピンク。社会が長い時間をかけて、女性をかわいらしく、従順で、無害な存在として囲い込むために使ってきた色が、国家に抗議する者の覆面になる。

その瞬間、ピンクは奇妙な怖さを持ちはじめる。

かわいいのに、こちらを威嚇する。顔を隠しているのに、黒い覆面よりもはるかに目立つ。個人の顔は見えなくなっているのに、そこに立つ者たちが何を拒絶しているのかは、あまりにも鮮明に見える。

ピンクはそこで、女らしさを表す色ではなく、女らしさの意味を奪い返すための色になる。

お前たちは、この色を弱さだと思っていた。女性の身体を、飾られ、眺められ、消費されるためのものだと思っていた。それならば、弱いと決めつけられた色をまとったまま国家の前に立ち、叫び、煙を焚き、その道を塞いでやる。

プッシー・ライオットのピンクは、黒い反抗を捨てたあとの明るさではない。黒がピンクの内部へ入り込み、かわいさそのものを不穏な抵抗へ変えてしまった色なのだと思う。

そしてそれは、ガガの「優しさのパンクス」と奇妙に呼応する。

ガガのピンクが、傷ついた一人の身体を群舞へ変える色だとすれば、プッシー・ライオットのピンクは、その群舞を現実の権力の前へ連れ出す色である。

架空の惑星で争う者たちのあいだへ飛び込んだピンクが、ヴェネチアでは国家のパビリオンの前に立ち、現実の道を塞いでいる。

ただし、ガガのピンクからプッシー・ライオットのピンクへ、一直線の歴史があるわけではない。目的も状況も、背負っている危険も異なる。これはあくまで、私の身体のなかで起きた連想である。

それでも、掃除機を押すフレディと、ピンクの荒野を踊るガガと、発煙筒を掲げるプッシー・ライオットの姿が、私のなかで離れなくなった。

片方は家庭を舞台に変え、もう片方は傷ついた身体をダンスフロアへ運び、最後の一つは国家の威信を示すパビリオンを抗議の舞台に変えた。

規模も深刻さもまるで違う。けれど、三つの身体は、与えられた記号をただ捨てるのではなく、あえて身につけ、自分の身体の上で暴走させている。

かわいいまま、反抗する。
傷ついたまま、祝祭をつくる。
欲望される姿をまといながら、自分も欲望する側であることを手放さない。

その身体の運動が、クイーンからレディー・ガガを通り、プッシー・ライオットへ、そして『BREAK FREE』の舞台へと、私のなかで勝手に流れ込んできた。

黒とピンクのあいだにある赤

『BREAK FREE』のはじまりにあった黒は、何かに閉じ込められている人の色にも見えた。

けれど黒は、抑圧だけを意味する色ではない。身体を他者の視線から守り、簡単に読まれないための色でもある。黒い衣裳は、私はあなたのものではない、私の意味をあなたが先に決めるな、と世界とのあいだに境界を引いているように見えた。

その黒のなかから、赤いリップが取り出される。

私は、その小さな赤が妙に気になった。

黒からピンクへ、すぐに移るのではない。二つの色のあいだに、赤が差し込まれている。その赤は、黒とピンクをつなぐ蝶番のようにも、黒の内側から引き抜かれた一本の血のようにも見えた。

赤は、身体のなかを流れている。

怒りで熱くなる血、傷口から流れ出す血、誰かを欲望したときに皮膚の下へ集まってくる血。普段は見えない場所に隠されているのに、身体が傷つき、興奮し、恥じ、怒るとき、赤は皮膚の表面へ近づき、私たちが生きていることを隠しきれなくする。

そしてリップは、唇に触れるためのものだ。

唇は身体の外側にありながら、内側へと続いている。食べることも、話すことも、叫ぶことも、誰かに触れることも、同じ場所から始まる。言葉と欲望が、一つの柔らかな肉に重なっている。

だから黒い衣裳から取り出された赤いリップは、単に女らしさを付け加えるための化粧道具には見えなかった。

誰かに見られるための唇をつくるものでありながら、同時に、自分の声がここから出ていくのだと示すものでもある。かわいいと言われるためだけではなく、歌い、笑い、拒絶し、欲望を口にするための口。その輪郭を、自分の手で選び直すための赤である。

口紅は、女性らしさを強いる記号として使われてきた。けれど、その記号を自分の手で取り出した瞬間、意味はわずかに反転する。

誰かによって女の顔に仕立てられるのではない。

この顔をどのように世界へ差し出すかを、自分で決める。

赤いリップは化粧であると同時に、身体に書き込まれる署名になる。

ここにも、レディー・ガガの人工的な身体が呼応している。

化粧やかつらや衣裳は、生身の身体を隠す偽物なのではない。生身のままでは外へ出せなかった感情に、目に見える形を与えるものでもある。赤いリップを引いた顔も、鮮やかなピンクの髪も、身体に意味を押しつける記号であると同時に、その意味を自分の手へ奪い返すための道具になる。

黒の内側で言葉にならずにいた怒りや、飲み込まれてきた声や、誰にも見せなかった欲望が、その小さな赤によって外へ連れ出される。そして、その赤を通過したあとに、ピンクが現れる。

そこにあるのは、何も知らず、何も傷つかなかった人の無邪気なピンクではない。
血の熱を知ったあとのピンクである。
黒に守られながら生きてきた身体が、その内側にあった赤を取り出し、もう一度、柔らかな場所を世界へ開こうとする。ガガのピンクが傷の上につくられた第二の皮膚だったように、カフカさんのピンクの髪もまた、黒の下から発見された本当の素顔というより、黒と赤を通過した身体が自分で選び取った、新しい皮膚のように見えた。

だから『BREAK FREE』の色は、黒からピンクへと明るくなっていく単純なグラデーションではない。

黒から赤を経て、ピンクへ。

身を守る身体から、口を開く身体へ。傷つかないように閉じていた身体から、再び誰かに触れ、触れられる可能性を引き受ける身体へ。

黒は消えていない。黒を克服したから、ピンクになったのでもない。

黒のなかにあった赤が取り出され、その赤を抱えたまま、ピンクが現れたのだ。

だから、そのピンクはかわいいだけではない。

拒絶を知っているかわいさであり、怒りを通過したエロティシズムであり、孤独の記憶を抱えた祝祭である。「私を見るな」と身を守っていた黒い声が、赤い唇を通過することで、「見てもいい、けれど私の意味をあなたが決めるな」というピンクの声へ変わっていく。

ストリップ劇場で自由になること

ストリップ劇場で「BREAK FREE」が踊られることには、そこにしかない倒錯がある。

ストリップとは、衣服を脱いでいく表現である。けれど、衣服を脱げば記号から自由になれるわけではない。裸になればなるほど、その身体は「女」「性」「商品」「解放」といった言葉によって、いっそう激しく意味づけられる。

裸は、衣服の下に隠されていた「本当の身体」ではない。

むしろ、もっとも多くの視線と意味を押しつけられる身体である。

だから『BREAK FREE』とは、すべてを脱ぎ捨てて、何者でもない無垢な自分へ戻ることではないのだと思う。見られない場所へ逃げることでも、誰からも欲望されない身体になることでもない。

見られる場所に立ちながら、見る者と見られる者の関係をずらしていくこと。

女らしさから自由になるために、女らしさを捨てるのではなく、それを自分の手でもう一度選び、誇張し、歪め、誰にも意味を固定できないものへ変えてしまうこと。

欲望されながら、自分もまた欲望する主体であり続けること。

クイーンの黒とピンクは、男と女の境界を笑いによって揺らした。

レディー・ガガのピンクは、傷ついた身体を人工の皮膚で包み、その痛みを一人の告白から群舞へ変えた。

プッシー・ライオットの黒とピンクは、その群舞を現実の権力の前へ連れ出し、無害とされてきた女性性を国家へ向けられた抵抗へ変えた。

そしてカフカさんの『BREAK FREE』を観ていた私のなかでは、その三つのピンクが、黒い衣裳から取り出された赤いリップを通り、舞台上に現れたピンクの髪へと流れ込んでいった。

その流れのなかで、『BREAK FREE』という言葉も、少し違って見えてくる。
自由になるとは、身体にまとわりついた記号をすべて振り落とすことではない。

自分を縛ってきた記号を、自分の身体の上で踊らせはじめることなのだ。

人の身体にある黒と赤とピンク

そして最後にそのピンクに黒が混じったウィッグが剥ぎ取られたとき、私は人の身体そのものにある黒とピンクだけが目に飛び込んでくる。

髪の黒、瞳の黒、腋や陰に生える毛の黒。光が届かず、身体の輪郭が闇へ沈むときの黒。目を閉じたとき、誰にも見せずに抱えている内側の黒。そして皮膚と内臓の境界線でもある陰部とそれを守る陰毛の黒。

黒は身体を隠し、守り、外の世界とのあいだに境界をつくる。
けれど、その黒のすぐそばには、いつもピンクがある。

唇や瞼の裏側、頬に血が集まったときの皮膚。乳首や粘膜、傷口からのぞく肉の色。興奮や羞恥、寒さや熱によって、隠していたはずの感情が皮膚の表面へ滲み出すとき、人の身体はわずかに色を変える。

そして黒とピンクのあいだを、赤い血が絶えず流れている。

黒い瞳の奥にも、柔らかな粘膜の下にも、同じ赤がある。赤は普段、身体の内側に隠れている。けれど身体が傷ついたとき、怒ったとき、誰かを求めたとき、赤は表面へと近づき、ここに命があることを知らせる。

赤いリップとは、その見えない血を唇の上へ描き出すものなのかもしれない。本当には流れていない血を、あえて外側にしるす。

そして人の身体には、はじめから黒と赤とピンクが同居しているという当たり前の事実を再発見する。
黒だけでは生きられない。すべてを閉ざし、誰にも触れられないままでいれば、身体はやがて自分自身を閉じ込める檻になる。
けれど、ピンクだけでも生きられない。柔らかく、傷つきやすく、他者に触れられれば痛む場所を、いつまでも剥き出しにしておくことはできない。
だから人は、黒で自分を守りながら、その内側に赤い血を流し、柔らかなピンクを抱えている。
風花カフカさんの剥き出しになった裸の黒と赤とピンクを見つめながら、
私はなぜか少し涙が出た。

それは、傷つかなくなった身体の色ではない。
見られ、欲望され、誤解され、消費され、再び傷つくかもしれない。それでも黒のなかに閉じこもるのではなく、自分の柔らかな場所を、自分の意志で光のなかへ差し出す身体の色である。ただし、それは誰かに明け渡すことではなかった。

これは私の身体であり、私の黒であり、私の赤であり、私のピンクである。どこを隠し、どこを見せ、どんな言葉を口にし、誰に触れさせるのかは、私が決める。
『BREAK FREE』とは、黒を脱ぎ捨てることではない。黒に守られてきた身体が、赤いリップを取り出し、その血の熱を抱いたピンクとして、
欲望され/欲望する光のなかで自らの足と手で、
自由に踊りはじめることだった。

——などと、私は風花カフカさんの舞台を観ながら、クイーンの掃除機からレディー・ガガのピンクの群舞を通り、ヴェネチアの発煙筒まで、42年分の黒とピンクを勝手につないでしまった。

私は演目の考察をして正解を求めたいわけではない。
けれど、あの舞台に触れた私の身体のなかで、黒と赤とピンクが一つの血の流れのようにつながってしまったことだけは、本当であり、そのことを忘れないために、この妄想の軌跡を言葉として記録しておこうと思った。テレビの中では、ワールドカップの3位決定戦のフランス🇫🇷対イングランド🏴󠁧󠁢󠁥󠁮󠁧󠁿戦が、6対4で壮絶な点取り合戦を繰り広げている。その芝生の上で跳ねる、フランスのゴールキーパーの鮮やかなピンクを眺めながらなぜか、風花カフカさんが『BREAK FREE』の曲に合わせて裸で踊る姿を思い出していた。

2026年7月19日 皐風青


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