読書エッセイ「ワンダーランド満州への鍵」
一 緒方貞子『満州事変 政策の形成過程』 一
地球鉄道「あじあ号」(スピンオフ)
『地球鉄道「あじあ号」』を書き始めてから、私は長く遠ざけてきた「中国」や「満州」に関する資料を収集し、目下、手当たり次第に学んでいる。
そんな中で、とうとう鍵となる一冊の書にぶつかった。
緒方貞子著『満州事変 政策の形成過程』である。

「五・一五事件」で暗殺された時の首相・犬養毅を曽祖父に持ち、戦後、世界の難民支援に尽力してきた
緒方貞子さんが、1963年に University ofCalifornia, Berkeley に提出した博士論文である。
のちに1966年、日本語版として出版された。
難民たちから「5フィート(小さな)の巨人」と称えられた彼女が描くのは、関東軍参謀・片倉衷が残した機密日誌の『満州事変機密政略日誌』を軸に、「関東軍の独走」「中央政府の逡巡」「世論の熱狂」、そして「国際社会の無力」が、まるで国家の歯車がひとつずつ外れていくように積み重なった時期である。
誰かが明確に「決断」したわけではない。
むしろ、誰も止められないまま、日本はより大きな戦争へと漂流していった。
張作霖爆殺事件から満州国建国、そして国際連盟脱退に至るまで、日本政府、陸軍中枢部、関東軍という三者の意思決定のズレと対立が克明に追究されていく。
興味深いのは、日本政府や陸軍中枢部ですら、当初は張学良政権の後に「親日的な地方政権」を構想していたのに対し、関東軍だけは、中国の主権そのものを否定する「満州国」建設へ向かって暴走していった点である。
緒方貞子さんは、その分岐点を感情に流されることなく、ただ事実の積み重ねによって浮かび上がらせていく。右にも左にも寄らない。善悪を二元論では判断しない。それは、敗戦の価値観すらまだ定まりきらない時代に、
「未曾有の敗戦を経験して以来、日本は自己を破滅へ導くような膨張政策をなぜとらなければならなかったのであろうかということが、私の絶えざる疑問であった。」と。
ーー曽祖父を暗殺された者としての「ただ真実を知りたい」という静かなまなざしと、曽祖父を慕う温かな心を同時に抱えながら、一心に研究を続けてきた
緒方貞子さんだからこそ到達できた境地なのだろう。
今まで歴史の教科書で、太字で「満州事変」と記され、数行だけで語られていた記憶が、冷めた視線と温かな心によって、ゆっくりと溶け出していく。
熱狂とは、怒号ではなく、静かに進行する。
国家は、ある日、突然壊れるのではなく、少しずつ「止める人」がいなくなった時に、流されるように
壊れていく。
そのことを、この本は「満州事変」より90年以上の時を超えて、静かに語りかけてくる。
誠に名著である。
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