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大内青巒著「六祖法宝壇経講義」を読む(序文)


[本投稿の趣旨]

六祖壇経は中国禅宗の第六祖慧能の説法集である。
素晴らしい内容だが、後世の改変が多いこともよく知られていて、読み解くには注意が必要だ。
本投稿は大内青巒師の「六祖法宝壇経講義」を手がかりとして読み解く。
大内青巒師は明治~大正時代の仏教学者で、修証義を編纂した中心人物である。
講義の中で後世の改変についての解説もされている。例えば、ある場面で神秀禅師の心中への言及があるが、「(慧能禅師が)神秀禅師の心中を知る由もないし公衆の面前で説くわけもない、これは後世の人(慧能禅師の流派の人が北宗の流派を不当におとしめようとして)付加した記述であろう」などと解説されている。
江戸時代の曹洞宗の天桂禅師の注釈がよく引用されている。六祖慧能の伝記については景徳伝灯録なども参照されている。
「六祖法宝壇経講義」の著作権が切れているようで、国立国会図書館デジタルコレクションとGoogleブックスで見つけた。
旧字は新字に改め、文字がつぶれていたりして読みにくい部分は現代語訳するが、原文の文意を損なわないようになるべく加筆修正しないようにする。
凡例:原文の講義本文に対して、半角の括弧[]()で補足を追加した。
[大意]、[感想]、[解説]の後にnote記事作者による要約や感想を付加した。
講義本文の前には[壇経講義本文]と示す。

(序文)

[大意]

「六祖法宝壇経」を教科書とした理由が語られる。
日本に伝わる禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)は全て六祖慧能禅師の流派であるためであると。
インドにて28伝して達磨大師に至り、中国へ禅宗が伝えられた経緯も説かれている。

[壇経講義本文]


講師 大内青巒 講述

井上(哲学館)館主より禅宗の教科書を何に定めたらいいか相談があったが、碧巌録は禅宗の学問修行を成就した後のありさまを示したもので、あたかも剣術や槍術の名人と名人が試合をしたようなものであれば、教科書とすべき性質のものでない、特に一禅宗というものの、臨済宗あり、曹洞宗あり、黄檗宗あり、それら各々風習が異なり、臨済宗は主として碧巌録を用い、曹洞宗は従容録を重用する風習があるので、諸宗諸派に属する学生に、禅宗のだいたいを教授しようとする本館において、一方にかたよる書を用いるのは適当でない、元来禅宗なるものは達磨が始めて支那(中国)に伝えた宗旨である、彼はもとより他と異なった宗義を伝えたことは間違いないが、当時いまだもって一宗を形成したものとはいえない、達磨以後二祖三祖等次第に相承して衣鉢を伝えてきたが、尚初祖の当時と異なることがない、禅宗の宗風を確立したのは実に六祖曹渓慧能である、六祖の門下、南獄懐譲及び青原行思の二人のすぐれた門人があり、これより二流が生じた、即ち懐譲より臨済黄檗が分派し、行思より曹洞が分派した、故に日本の禅三宗はともに源を六祖として、曹渓宗もしくは六祖宗といってもいい、そうならば達磨をもって区分けをすれば、日本にない北宗も加えられるが、六祖をもって区分けをすれば南宗に限定され、臨済も曹洞も黄檗も包括できるのである、かつそれは後代の書や、妙味がないわけではないが、また随って弊が生じるあり、六祖においてはまだその弊あるを見ない、これが六祖の説法を集録した六祖法宝壇経を、本館仏教科の教科書と選定した所以である。
大聖釈迦牟尼世尊、五十年間、横説縦説の法、大小半満権実偏円等、その類八万四千と称す、しかしながら仏教の経典は月を指す指のようであるだけ、月だけでも認めれば指には要なし、文字言句は門を叩くの瓦の類のみ、門を開くも尚瓦を握るの要なし、五千余巻の一代蔵経、要する所は以心伝心のみ、文字にあるべき理なきなり、昔、阿難(アーナンダ)は三十余年世尊に常につき従いなれ親しみ、多聞聴教第一と称せられた、しかしながら彼なお実地の修行は至らなかった、結集の時、迦葉(カーシャパ)に叱責され、この悔しさに徹夜座禅して羅漢果を得、ようやく会に入ることができた、このようにいかに仏の説法を記憶するとも実地の悟りを得なければ何の所詮もなきことである。
世尊かつて霊山会上にあった時、梵天は金波羅華を供養した、世尊はこれを持ってその時に限り何事も言わず、その華をひねって衆に示されたが、大衆はその意が分からず、皆黙ったままでいた、ただ迦葉一人のみ、これを見て顔をくずして微笑した、(孔子曰吾道一以貫之、曾子曰唯と、門人其の何の謂たるを知らず、此の間の気脈の通ずるは他の得てうかがうべからざる所である)世尊曰く、われに正法眼蔵涅槃妙心実相無相微妙の法門あり、これを摩訶迦葉に付嘱すと、釈迦に八万の大衆ありとも、もしこれを伝えるものがなければ五十年間しゃべり損である、これに於いて迦葉に付嘱せり、すなわち迦葉をもって西天の第一祖とす、迦葉阿難に伝え、これより展転相承し、三に商那和修、四に優婆毱多、五に提多迦、六に弥遮迦、七に波須密、八に仏駄難提、九に伏駄密多、十に脇尊者、十一に富那夜奢、十二に馬鳴、十三に迦毘摩羅、十四に龍樹、十五に迦那提婆、十六に羅睺羅、十七に僧迦難提、十八に迦那舎多、十九に鳩摩羅多、二十に闍夜多、二十一に波修槃頭、二十二に摩拏羅、二十三に鶴勒那、二十四に獅子、二十五に婆舎斯多、二十六に不如密多、二十七に般若多羅、しかして二十八伝して菩提達磨に至る、これを天竺(インド)の付法相承とする、
菩提達磨は南天竺の香至(こうし)国王の子なり、その師般若多羅の遺訓をうけたまわって支那(中国)に来たり、時に梁の武帝大通元年なり、武帝は深く仏法に帰向し、太子亦仏典を研鑽し、宮中の信仏甚だ盛んなり、帝は心密かに誇る所あり、その称揚を得ようとして、碧眼の異国の僧を宮中に招請し、
武帝自ら問うて曰く「朕かつて寺を造り、経を写し、僧を度すること勝れて計り知れない、どんな功徳がある」と、功徳の相場を尋ねたり、
達磨曰く「無功徳」と、
帝はさらに問端を改めて「如何が是れ聖諦第一義」(仏法の一番大切のところは何じゃ)
達磨曰く「廓然無聖」(法界は朗らかにして仏などと名づくべきものは無い)
帝曰く「然らば朕に対する者は誰ぞ」
達磨曰く「不識」(知らない)と、
ここに至って帝は領悟することができず、達磨亦その機縁の契わざるを知り、去りて江(揚子江)を渡り、魏に行き、嵩山の少林寺に止まり、九年間面壁端座せり、時に自由闊達な士、神光なる者あり、儒教・道教が未だ極め尽くしていない所があるのを悟り、達磨の家風を聞いて、行って教えを請う、達磨面壁打坐し、黙してあえて教える所なし、その年十二月九日夜大いに雪がふる中、神光立って動かず、夜明けになって積雪はひざを過ぎる、
達磨これを見てあわれみ、問うて曰く「汝久しく雪中に立って何事をか求めんとする、」
神光悲涙して曰く「唯願わくは和尚慈悲甘露門を開きて広く多くの衆生を度したまえ、」
達磨曰く「諸仏無上の妙道は広劫に精勤して行じ難きを行じ、忍に非ずして忍ぶ、どうして小徳小智軽心慢心をもって真乗をこい願わんと欲するのか、いたずらに勧告に労せん」と、
神光は教えを聞きて、ひそかに鋭利な刀を取り自ら左臂を断ちてなげうつ、是に於て達磨その法器なるを見、求むるも亦可なることありといい、名を慧可と改めしむ、
神光曰く「わが心いまだ寧からず、師に乞うわがために安ぜよ。」
達磨曰く「心を持ち来れ、汝がために安んぜん。」
神光曰く「心を求むるに明らかに得べからず。」
達磨曰く「我れ汝がために心を安んじおわる」と、
ついにその衣鉢を伝える、これ支那に於ける禅宗の始まりなり、即ち達磨を以って支那の初祖とするなり。
二祖慧可(神光)、三祖僧璨(信心銘を書す、これ禅の文字に表われたる先がけなり)、四祖道信、五祖弘忍、次第に相伝し一系で分岐しないが、弘忍の下始めて二派に分かれる、即ち慧能は南宗を開き、神秀は北宗を開く、北宗は傍出にして、南宗は正統なり、六祖慧能の伝記は本文に入りてつまびらかにすべし。
禅宗の名は達磨の自ら称したるにあらず、禅とは梵語(サンスクリット語)、つぶさには禅那といい、これに静慮、又は定と訳す、禅宗というも六波羅蜜中の禅那を指すにあらず、即ちこの宗は専ら禅宗を修して心性を悟得するにあるが故に、他より名づけて禅宗と号したるなり、思うにどの宗でも禅定をさしおいて実地の修行を為すことはできない、しかしながら仏教の中で特に禅定を重んじ、所謂言語道断心行所滅の極点を以心伝心し、直下に本心を領悟するをもって、この宗の特色とする故、他より禅宗と名づけたるなり。

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