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「ありふれた親切」 は いちばん身近な人に


先日,ある授業で,モノリンガルとマルチリンガルの特性の違いについて話をしていたときに,ある学生から,こんな興味深い話題提供がありました。


「日本には,『自分を下げる』ことを美徳とする文化があり,それが英語を話すときに転移することがあります」



「母語で身につけた振る舞いが,外国語を話すときに転移する」現象。たとえば,日本には,「自分を下げる」謙虚さを美徳とする文化があり,それが英語を話すときに転移すると,英語のプレゼンテーションの冒頭で,わざわざ言わなくてもいいのに「英語が下手でごめんなさい (I'm sorry for my poor English.)」と言ってしまうとか。わざわざ「愚」を付け足す必要がないのに,質疑応答の場で「愚問かもしれないのですが (This may be a silly question.)」と言ってしまうとか。褒められたときに,「いえいえとんでもないです」という日本語を表現しようとして,no, no, no を繰り返してしまうとか。「私は大したことない人間ですので」と自分をへりくだろうとして,"I'm not smart."と言ってしまうとか。「自分を下げる」ことは「相手を立てる」ことにつながる。「人を先に立て,自分は出しゃばらない」ことが美徳である・・・時代とともに文化や慣習は変わっていくものですが,22歳くらいの大学生からこのような話題提供があったということは,自分を下げることを良しとする謙遜文化が,いまだに根強く残っているということなのかもしれません。



すると,別の学生から,こんな発言が続きました。
「日本には,『自分を下げる』だけじゃなくて,『身内を悪く言う』という独特の文化があると思います」「僕の父親が,母親のことを(母親がいないところで)『うちの鬼嫁が…』と表現するのを聞いたことがあります」と。鬼嫁って💦


そのあと,その学生さんはスイッチが入ったかのように,「お父さんがお母さんのことを外で紹介するときに,お母さんのことをすごく悪く言う」ことの事例をいくつか挙げてくれました。「うちの愚妻が…」という表現も使っていたとか。愚妻ってちょっとそれは💦 そのうち,話題が発展していき,とにかくお父さんはお母さんのことを立てない。お母さんの作った料理を「まずい」ということもある。お母さんは何も言い返していなくて,可哀想だと思いながら今まで生きてきたと。すると,また別の学生からも「うちも同じです」という反応があり,「僕の場合は,僕自身が『うちの愚息』と言われるのを聞いたことがある」と。同世代の他の子どもと比べて,僕がだらしない人間であることを「うちの愚息は,制服をいつも脱ぎっぱなしで」とか「いつも部屋の電気をつけっぱなしで」とか,そんなふうに描写する文脈だったとか。言語間の転移の話をしていたはずなのですが,「身内を悪く言う」という日本独特の慣習に対して,若い学生さんが長年抱いていた疑問がブワッと湧き出るように議論が白熱していきました。



発言をされた親御さんにはもちろん悪意はなく,「身内を下げて相手を立てる」という謙遜文化が,無意識のうちに刷り込まれた結果の発言だったのだろうと推測します。しかし,「鬼嫁」とか「愚妻」とか「愚息」という表現は,謙遜としては,度が過ぎているように個人的には感じてしまいますね。英語にすると,デーモン・ワイフとかスチュピッド・ワイフというふうに訳されてしまうのでしょうか。英語母語話者はきっとびっくりすることでしょう。相手が作ってくれた料理を,面と向かって「まずい」と言ってしまうというのもちょっとどうかなと。自分がその文脈にいたとしたら,それはもう黙ってないですね(やんのかコラとか笑)。これでは,もはや謙遜の領域を超えて,単に相手の尊厳を傷つけている,と受け取られても仕方がないのではと思えます。言った方は悪意はなく,その発言自体,忘却の彼方に消えていくのかもしれませんが,尊厳が傷つけられるような発言は,言われた側はずっと覚えているものです。


前置きが長くなってしまったのですが,本日の記事のタイトル「ありふれた親切」という言葉には,「自分や身内を下げる」「一歩へりくだる」という謙遜文化へのアンチテーゼとしての意味を込めて使ってみました。夫婦愛とか,家族愛とかよく言いますけれど,「相手を愛する」ことよりも「相手に親切にする」ということのほうが,実はうんと大事なことかもしれないと思うことがあります。これは,私が幼少の頃から両親の関係性を見ながら,体得した学びでもあります。私の両親は,私が幼少の頃から関係性が良い方ではありませんでした。父親も母親も,相手に対する思いやりに欠ける発言が多く,私自身は,そういう関係性を非常に近いところで目にしながら育ってきたのです。なぜわざわざそういう言葉をチョイスするのかなと思ったり。なので,上述した学生さんが,この22年くらいの間,どんな感情を抱いて育ってきたのかがなんとなく理解できたのです。授業の中ではもちろん自分の幼少時代のことには触れなかったのですが。


私が好きな本の中に『スラップスティック』という本があります。カート・ヴォネガットというアメリカの小説家が書いたものですが,この本の中に,すごく気に入っている言葉があります。

わたしは愛をいくらか経験した。すくなくとも,経験したと思っている。もっとも,わたしがいちばん好きな愛は,『ありふれた親切』ということで,あっさり説明できそうだ。短い期間でも,非常に長い期間でもいい,わたしがだれかを大切に扱い,そして相手もわたしのことを大切に扱ってくれた,というようなこと愛は必ずしもこれと関わりと持つとは限らない

(略)

愛はどこにでも見つかる。それを探しにでかけるのは愚かなことだと思うし,また,有害になることも多いと思う。世間の常識から見て,相思相愛の仲だと思われている人たちにーーあなた方がもし諍(いさか)いを起こした時は,おたがいにこういってほしい。「どうかーー愛をちょっぴり少なめに,ありふれた親切をちょっぴり多めに

(カート・ヴォネガット『スラップスティック』浅倉久志訳 早川書房
pp. 10–11)


この言葉がとても深いなあと思ったのは,ヴォネガットが,「愛すること」よりも「相手を大切に扱う」ことの方に重きを置いていることです。これはとても大事な視点だと思います。なぜなら,「ひとを大切に扱う」ということは簡単のようだけれど,実は,とても難しいことだからです。「ひとに親切にする」ことは「ひとを愛する」ことより簡単そうだけれど,たぶん,それよりうんと難しいんです。なぜなら,相手の視点で考えるとか,こう言われたら相手がどう思うかという第三者視点,想像力が,「ひとに親切にすること」には必要だからなんです。それに対して,「ひとを愛すること」は,想像力がなくてもできてしまうかもしれない。カート・ヴォネガットは,原書では,この「ありふれた親切」を,「コモン・ディーセンシー (Common Decency)」という言葉で表現しています。"Decency" は,日本語で一言で訳せない深さがあります。日本語の「親切」に加えて「想像力」や「配慮」「誠実さ」そして「知性」,そんなものも含まれるように思います。家族間でも,夫婦間でも,身近な友達同士でも,この「ありふれた親切」,「コモン・ディーセンシー」が大事ではないでしょうか。いや,近い関係性だからこそ大事なんです,きっと。学生さんとのやりとりで,カート・ヴォネガット『スラップスティック』の一節のことを思い出したので,文章を綴ってみました。







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