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『深夜ジューク堂』 B面の流儀 The Rolling Stones / Through the Lonely Nights

今夜のお通し:
Bob Dylan / Pretty Saro

一日が終わり、 人々が家路へと急ぐ頃、 俺の一日は、始まる。
営業時間は、夜12時から朝7時頃まで、
人は、『深夜ジューク堂』って言ってるよ。
店の隅にあるのは、1951年製、「Seeburg M100B」俺の昔からの相棒だ。
メニューは、この箱の中の100曲だけさ。
あとは、コインを放り込んで、好きな曲を選んでくれりゃあ、古い音をできる限り大きな音で、暖かく鳴らす。
それが、俺の営業方針さ。

客が来るかって?
それが、結構来るんだよ。

午前2時。

路地裏の湿った空気を押し分けるようにして、その女は入ってきた。
仕立てのいいスーツは心なしかくたびれていて、大きなバッグを投げ出すようにカウンターへ置くと、
開口一番、ひどく乾いた声で言った。

「マスター。何か、戦うための曲をかけて。ベートーヴェンの『運命』みたいな、激しいやつ」

「うちのジュークボックスに戦火は似合わないよ、エリちゃん」

俺はグラスを拭きながら、静かに笑った。

彼女の手元には、握りしめられた百円玉がひとつ。

「なんでもいいから。私、今日、会社を辞めてきたの。ずっと真ん中で、一番で走ってなきゃ意味がないと思って、必死に戦ってきたのに。もう、何もなくなっちゃった」

「なら、Hの10だな。」


エリは黙って、ふらふらとマシンの前へ進み、投入口の金属の隙間に百円玉を滑り込ませた。

カチ。
カラカラ。
コトン。

眠っていた古い機械の肺に電流が流れ込む。
ジーッという低周波が足元を震わせる。

セレクト・ピンが、迷わず一点で弾ける。
チン、と短く鳴って、機構全体に信号が走る。

金属製のアームが動き出す。
まず、垂直に並んだレコードの列に向かって、一度だけ小さく傾く。

角度を測るような、静かな一拍。
それから、迷いなくスライドしていく。

目当ての一枚の前で、アームが止まる。
一瞬、止まったまま。

肉厚な爪が、ゆっくりと開く。
レコードの縁に爪先が触れる。

触れた瞬間、力が入る。
強く、けれど乱暴じゃない力で、盤を挟み取る。

爪が盤を持ち上げる。
アームが、円盤を引きずり出すように後ろへ引く。
中心の軸の位置に、盤の穴が合わさる。
カチリ、と一つだけ硬い音がして、位置が決まる。

待機していたピックアップ・アームが、外周へそっと噛み合う。

シュウゥゥ。

盤面が回転を始め、針先が擦れる。

チリ、チリチリ、チリ。

一秒の静寂。

フェイザーの効いたギターが、琥珀色の空間へ滑らかに溢れ出した。
揺らめくその音の湿り気に、何かが重なる。
ネオンの浮かぶ通りを抜けて、この店の戸口をくぐった、あの数分前の感触だった。

The Rolling Stones / Through the Lonely Nights


一つのスピーカーから、全部の音が重なって出てくる。
口径38センチから出る低音は、入り口のガラス戸をかすかに震わせている。 ミックの声も、キースのギターも、同じ場所から。
分かれることのない一つの音の塊だ。

エリは何も言わず、ただジュークの方を見ていた。
ミックの声が、囁くように低く這う。
奥でキースのギターが、渦を巻くように鳴っている。

彼女の眉間に、かすかな皺が寄る。
戦うための曲を頼んだはずだった。
出てきたのは、こんな眠たい曲だった。

曲が半分を過ぎた頃だった。(01:38〜)

歌の後ろから、すっとギターが前に出てくる。
太く、甘く、長く伸びていく。
伸びきった先で、静かになった。

場所は変わらないのに、そこにいる誰かだけが変わる。
さっきまでの怪訝そうな皺が、違う形に変わる。

彼女はしばらく黙っていた。
それから、ようやく口を開いた。

「今のギターソロ、誰?」

奥でバーボンを舐めていたチョウさんが、グラスを揺らす手を止め、目だけこちらへ向けた。

「ミック・テイラーだよ」

グラスを揺らしながら、続ける。

「この曲、ジャマイカで録ったんだよ。『山羊の頭のスープ』の頃さ」

一口、飲む。

「結局、アルバムには入らなかった。後になって、シングルのB面で、ひっそり出ただけさ。」

一口飲む。

「でも、B面にいたから、今夜ここでエリちゃんに会えた。」

グラスを揺らす手を止めたまま、続ける。

「テイラーの弾き方はさ、速さも強さも見せない。でも、男の俺でもうっとりする。」

一口、飲む。

「体温より、ちょっとだけ低いんだよな、35.8℃だな、あの音は。」

また、いつものくせが始まった。

俺はコーヒーを淹れながら、カップを彼女の前へ置く。

「目立つ場所じゃない人だよ」

それだけ言って、俺はまた手元に戻った。

エリは何も言わなかった。

ただ、ジュークの方をもう一度見た。

ミック・ジャガーとミック・テイラー


店の隅で、ジュークボックスがゆっくり回っている。
クロームメッキが、琥珀色の照明を柔らかく映していた。

針が外れ、アームがゆっくり戻る。
カシャリ。
静かな沈黙が落ちた。

エリはバッグからもう一枚、百円玉を取り出した。

カウンターには置かず、そのままジュークボックスへ歩いていく。

投入口に百円玉を入れ、振り返る。

「マスター」

「ん?」

少し照れくさそうに笑う。

「もう一回。今度は、ちゃんとギターが歌うところを聴いてみたい」

俺はうなずいた。

「あいよ」

コインを受け取りながら、ふと言う。

「ジュークボックスってのはさ、そもそも半分がB面なんだよ」

それだけ言って、また機械を操作する。

コインがレールを転がる音が、夜の店に響いた。

この店では、ときどき思う。
百円玉一枚で、夜の景色が変わることがある。
だから今夜も、俺は灯りを消さない。


《B面ノート:Through the Lonely Nights》

このソロを弾いたのはミック・テイラー。
出てくるのは一瞬だ。
ミック・ジャガーの囁くようなヴォーカルの後ろから、すっと現れる。

現れた瞬間、舞台の中心がそこに移る。
歌からギターへ、静かに主役が奪われる。

ソロは長さを持たない。主張して居座ることもない。
中心を奪ったまま、また元の歌に手渡していく。

奪って、返す。声を張らずに、それだけをやってのける。

一度きりで、繰り返さない。
同じフレーズに戻ることも、リフとして定着することもない。
中心を返したあと、ソロ自身は消える。

次に現れる時は、もう名乗らない。
歌の陰から、ほんの少し、温度を足すだけだ。



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