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ハーマン・メルヴィル『白鯨』佐々木広治の読書随想

 「銘記せよ、大望ある若人よ、あらゆる人間の偉大さとは病にすぎぬのだ。」
 もとより邦訳で読んだのだが、ジョン・ミルトンの『失楽園』のような壮麗な、ゴシック小説というのか(ゴシック小説ではブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』位しか読んでいないわけだが)ゴシック小説的手法を使ったような物々しい語り口とも言える独特の文体。詩的とはいえない。詩、というのか、詞は出てはくるが。
 さまざまな文献、文学書、ことにシェークスピアだとか聖書、なかんずく聖書のモチーフが頻出しているし、テーマも聖書によるものが色濃く感ぜられる。登場する者らの名を見れば一目瞭然であるし。
 「ここに居る者どもの哀れな目と、握り合わせた手の散礼を受けるがよい。おれはそんなもの受けとうない。うむ、稲妻がおれの脳天を突きぬけたので、 眼球が掲んで、痛んでならぬ。疲れ果てたおれの脳は、まるで首をがねられて、どこかの動敵する地面の上を転がっているような気がする。おお、おお! こうして目隠しされていても、まだおれはおぬしに話しかけるぞ。おぬしは光ではあれど、闇のなかから躍り出る、ところがおれは光のなかから躍り出る間じゃ、おぬしのなかから躍り出るわ!」「雷の征矢は止んだ。目を開こうか。見えるのか、見えぬのか, おお、悩は燃えおるわ! おお汝、天に沖する高通の火焰よ! いまこそおれはわが系語を誇ろうぞ。 を誇ろうぞ。だがおぬしは燃ゆる火、おれの父親にすぎぬ。優しい母親をおれは知らぬ。おのれ烈しいやつ! おぬしは母を何としてのけた?」
 エイハブの台詞の一部を引用したが、シェークスピアのつよい影響が見られるわけであるし。聖書でいえば当然の如くヨナが特に濃厚なわけで、あれはあり得ると語り手であるイシュメールは力を込めて説いている。ヨブにも言及されていて、なかなかに重要だと思われる。聖書といっても、旧約の方しか出てこないようだ。語り手の名であるイシュメールといい。
 著者は、著者にとっての旧約聖書を作ろうとしたのだろうか、とふと思う。案外に外れていないのかもしれない。旧約聖書における、神にまつろわぬ人、民を描いた、として呑み込めなくもない。してみると白鯨たるモービィ・ディックとは神ということになるのか。
 一読したばかりだが、さまざまな読みが可能だと感じる。いちいち羅列してゆくと切りがなく、また、とりとめがなくなってしまいそうだが。
 本著について、鯨だとか捕鯨についてのさまざまな雑学、蘊蓄があり、煩雑だとか蛇足だと疑問を呈する意見を散見するし、ために刊行当時から著者が亡くなった後もしばらく低評価されていたのだろうが、それは読み手の読解力のなさによる誤読にすぎない、と私は思う。
 古今東西、読解力のない人びとというものは海の水、砂漠の砂のように広大で膨大なものだとしみじみ感じる。話が掴めていれば、そんな間抜けな感想はもつことはないと思うのだが。
 唯一生き残ったイシュメールが語り手であり、追憶し記述してゆくという枠組み。モービィ・ディックを狩るために犠牲になった膨大な数の死に取り巻かれ、親友クイークェグの棺(クイークェグが死にかけたときに作った)で九死に一生を得た身となれば、あれはいったい何だったのだろうか。どういう意味があったのか。そう疑問がわき、解明したくなるのは自然な人情ではないだろうか。
 疑問だとか解明だとかいうより、意義があることであって欲しいと強烈に願う、執着してしまうのではないか。自分を保つために。すがり付く、と言ってもいい。こう説明してもピンと来ない人がいそうだから言を重ねると、例えば集団で旅行にゆき、仲良しができたりするなかにあって、事故で自分だけが生き残った場合を想像していただきたい。さすれば、諒解できるのではないか。
 イシュメールは一生懸命追憶し、思い出とともにそこに纏わるものを委細漏らさず描出してゆくことに、彼の心情として自然な流れとしてなったものだろう。すなわち、クイークェグにしろエイハブにしろ、モービィ・ディックでさえも彼であるということになる。彼の経験としては、狂気にかられたエイハブの捕鯨に巻き込まれたに過ぎないが、それをおのが内の物語として消化し、血肉としたということなのだろう。ゆえに、無駄な箇所なんぞ一欠片もない。ドストエフスキーは、細部に神宿ると言った。鯨に捨てるとこなし、という。
 ちなみに、語り手であるイシュメールと親しくなるクイークェグ。クイークェグという人物自体興味を引かれるし、イシュメールとの関係がより興味深い。クイークェグとは南太平洋のとある島の、西洋人から人食い人種と呼ばれる部族出身の銛打ち。キリスト教の文明世界に憧れ捕鯨船に乗り込むもすぐに幻滅し、故郷の信仰を守りながら放浪していた。クイークェグがエイハブの船に乗ることを決めたのは、持ち歩いている神像のお告げなわけだが、お告げではイシュメールに従えとでたからなのだ。さりながら死んでしまうわけだが。そしてイシュメールとクイークェグの関係が、友愛というのかなんというのか、なかなかに想像、妄想を刺激されるものではある。
 少々取っつきにくいものかもしれないが、幅広い層が楽しめもする名作だと私は思う。

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