見出し画像

ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』佐々木広治の読書随想

 本著に対して、私は如何ほど語れるものだろうか。心もとなく、覚束ないながらも、読みおえた本著について私の感想を認めてゆこうと思う。
 主人公である語り手は、オスカル。ダンツィヒの精神病院に入院中の三十歳の男性。ダンツィヒとは、第一次世界大戦以後、ドイツから分離され、国際連盟の管轄下にあった国際都市で、ロシア人、ドイツ人、ポーランド人、そしてさまざまな少数民族の混在する自由都市なのだそうな。第二次世界大戦後にポーランド領となってからはグダンスクと呼ばれている、とのこと。
 著者自身がここの出身であるため、そういう歴史的背景、社会的背景が分かっていないと理解しにくい作品なのではないか、と推察する。
 こう述べるのを目にすると、あたかも私は熟知しているように聞きなせそうではあるけれど、それはまったくの誤解であり、まったく知らないところ、ことだ。
 有名なドイツ文学であるから、舞台はドイツのひとつなのだろう、くらいの認識でしかなかったくらいであり。故に、ということもあろう、赤心で打ち明けると、読解だとか呑みこめた、とは言えない。ただただ、ひたすら文字に目を走らせた、駆け抜けた、ということしかできなかったように思う。ために、はたして私に感想がかけるものだろうかと、心もとなくなったわけで。
 で、早速誤りを犯してしまったわけだが、主人公はオスカルと述べたが、本文中にはこうある。「ぼくは確認しておきたい、ぼくたち(ぼく、つまりオスカルとぼくの看護人ブルーノー)二人が主人公であることを。覗き窓のあちら側にいる彼と、覗き窓のこちら側にいるぼく、まったく異なった主人公なのだ。」
 ブルーノーはともかくとして、語り手がふたつに別れていることは気になるところではある。看護人、また、「処女の紙」相手に来し方を語るというスタイルなわけだが、自身のことを「ぼく」としたり「オスカル」としたり、それは使いわけではなく、微妙に別人格のように語られているのだ。
 「ちょうどぼくは、今書いたばかりの文章にもう一度眼を通したところだ。たとえそれはぼくに満足できぬものであっても、それだけなおさらオスカルの筆になったものなのだろう。 オスカルの筆は、ときには意識して短くまとめた論文と同じ意味で、嘘はつかないまでも、短くまとめて誇張することに成功しているからだ。」
 と、実はまだオスカルの説明がまだ済んでいないのだが、オスカルは三つの誕生日に地下室の階段から落ちた、 ところが、ほかはどこも悪くないのに、ただもういっこうに大きくならなくなってしまう障碍を被る。そして常にブリキの太鼓をもちあるき、取りあげられそうになると、ガラスを割り砕く叫び声を発する。ゲーテとラスプーチンを私淑している。彼が語るのは第二次世界大戦あたりのこと。そして語りのありようをオスカル自身が「物語を中途から始めて、思い切り前に進んだり後に退ったりして混乱をひき起こしたっていいのだ。現代ふうに振舞い、 あらゆる時代や距離を抹消し、あとになって空間時間の問題は最後には解決されたのだと宣言するなり宣言させるなりすることもできる。のっけに、今日では小説を書くことは不可能であると主張しておいて、しかる後、いわゆる自分自身の背後で、自分でも知らぬうちにやすやすと強烈なヒット作をものし、とどのつまりは脈のある最後の小説家として存在することだってできるのだ。ぼくはまた、もはや小説の主人公はいないのだ」というふうに語っている。
 精神疾患患者という設定が味噌で、どこまで事実であるのか、妄想であるのか分からないし、分からせようと著者はしない。そこを安易に明快にすれば、底の浅いエンターテイメントに堕してしまったことだろう。猥雑で、セクシュアルなモチーフがふんだんにありはすることだし。
 そぞろにアルベール・カミュの『異邦人』が想起される。有名な冒頭「 きょう、ママンが死んだ。もしかすると昨日かもしれないが、私にはわからない。Aujourd'hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas.」本著に通じるのではないか、と私は思う。母親を失った喪失感。
 されどムルソーとオスカルの場合とはむろん異なり、オスカルの母は、息子である彼のせいで亡くなってしまうわけであり、よけい喪失感、傷は深いのではと思われなくもない。そして祖国、母国が変わってしまうこと、失われること、それによって引きおこされるものもあるような気がされる。母なる大地、という。
 歴史的な背景から、そういう部分を読みとってゆかなければならないのだろうか、というようなことを感じる。と、終始自信なさげに語ることしか私にはできないのは、それだけの知識だとか知性に欠けるからであり、そのせいも少なからずあるのだろうか、まったく、といって良いほど入りこめなかったから、感情としても高揚して縷々語ることができないのだ。相性がよくない、ということに尽きるのかもしれない。優れた小説であることは、それでも理解はできはするが。
 あくまでも私の感覚でしかないが、アンソニー・バージェス(『時計じかけのオレンジ』のみ読了)だとかカート・ヴォネガット(『プレイヤー・ピアノ』『タイタンの妖女』のみ読了)に通じるものがあるように思われる。いずれも私にとっては苦手な名作たち。ジョン・アービング(『ガープの世界』のみ読了)も挙げられるかと思われるが、ジョン・アービングは私にとっては好ましい。




いいなと思ったら応援しよう!