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本は自由に(好きなように)読めば良いという大間違い。誤りを正す文章読本。

 本は自由に(好きなように)読めば良いのだ。そういう意見をよく見かけ、最近も某SNSで目にして、多くの賛同の印を得ていた。もっともらしく、月並みであるくらい正しそうで、無難に良いと評価しやすい意見であるようだ。
 さりながら、はたしてそうだろうか。私はあえて異をたてる。疑問でもあるわけであるし。自由に(好きなように)読んでいる、ということを詳細にみてゆけば、あまり読書することなく、読む技術を磨くでなく、散漫に放肆に目をさらしているだけなのではないか、としか思えないのだ。その感想だとかレビューを見ていると。140字しかないものであれば、気取った文句一言だとかあらすじ一言でなんとなく格好がついてしまい、誤魔化せるのだろうが。ただし、誤魔化せるのはそういうものを書くような人と、同程度の者らばかりなのだが。それらしいポーズをとった一言でも、分かる人には分かるものだ。
 「あまり読書することなく、読む技術を磨くでなく、散漫に放肆に目をさらしているだけなのではないか、としか思えない」というのは、そのレビューが皆似たり依ったりで全く個性がないからであり。決まって権威(らしきもの)を持ちだしてきもするし。専門家だとか評論家だとかが高評価したものだから、とか、名作とされている、とか、文豪といわれている、とか、ベストセラーだから、とか。選択からしてそうであり、感想、レビューもそれに沿い。はたしてそれを自由に(好きなように)読むと言えるのだろうか。
 自由、好きなように、とらわれなく、ということを取り違えているのだろうと思う。なにも考えず、思わず、気ままに、ということは、「好きなように」にはなるかもしれないが、「自由」だとか「とらわれなく」には決してならないことに気づかなければならない。
 何故であるか、それくらい自分で気付かなくてはならぬことだが、いくつかそのわけを記す。自由に(好きなように)と言いながら、前述したように評判だとか定評だとか、声の大きい連中の影響がまずある。そして選択肢もたくさんあるようでいて、限られている。デパートだとかコンビニで、好きなものを自由に買っていいと言われたとして、デパートだとかコンビニに買えるのは、その時点に棚にあるものに限られる、ということとおなじことだから。
 また、読解力というものは、学び、研鑽していかなければ養われないもの。日本語さえ読めれば、日本語で書かれたものは理解できる、という発想はあまりにお粗末であることは分かりそうなもの。そも、漢字、語彙のすべてを諒解できているのだろうか、ということ。ましてや文章、文脈を読みとることは簡単でない場合が多々あるのではないか。だからこそ、文章読本だとかそれに類するものが書かれてきたのではないのか。谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、菊池寛、伊藤整、野間宏、中村真一郎、丸谷才一、井上ひさし、吉行淳之介、向井敏、中条省平、等々。本は自由に(好きなように)読めば良いというのが正しいのであれば、彼らはまったく無駄な仕事をしたと言えるだろう。
 ある程度の量、質を読み、ある程度技術なり知見なり得て上でなら、本は自由に(好きなように)読めば良いというのは当たっているとは思う。
 もしくは、著名な誰それが絶賛したからだとか、流行っているからだとかにとらわれず、自らの目で、頭で読み判断するという意味合いであれば、本は自由に(好きなように)読めば良いというのは正しいと思う。
 自由と、放肆、放埒をとり違えてはならない。自分の目で見定め、自分の頭で判断することを、決して怠ってはならない。それは何も、読書に限らぬ話であろう。

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