見出し画像

エイダン・チェンバーズ 『おれの墓で踊れ』 『二つの旅の終わりに』 佐々木広治の読書随想

 『おれの墓で踊れ』。

 「舞台はテムズ川河口の町、サウスエンド=オン=シー。十六歳のハルが十八歳のバリーと出会い愛し合う。けれど残念ながら二人は仲違いをし、その日のうちにバリーはバイク事故で亡くなってしまう。残されたハルは、バリーの生前二人で交わした約束、『どっちかが先に死んだら、残ったほうはそいつの墓の上で踊るんだ』を果たしますが逮捕され、裁判が開かれる・・・・・・。」と解説でひこ・田中がさすがに見事に要約されている。
 ただしこれだけではまだまだ概要としても不十分だろうと私は思う。されどそれはひこ・田中の落ち度ではなく、作品の魅力、見所を知った上での私の不満にすぎない。レビューというものは、腹八分目というのか、少々足りないくらいがよいものかもしれないのだし。また、他人の書いたものを丸写しにし満足することに、なんの意味があろうか。内容としてはこと足りているわけであるし。足りない(と私がみなす)のは語り口(叙述)における設定。
 ハルが事件をおこし裁判が開かれる。そのために相談員が必要とした報告書。その報告書によって事が語られてゆく、書かれてゆくという設定。語ること、書くという行為自体も重要な意味をもってくるということ。なにせハルは自意識過剰というのか感受性が豊かというのか、過敏というのか。それは思春期という多感な時期ということも預かっているのだろうし。そもハルというのは自称であり、シェイクスピアの『ヘンリー四世』におけるヘンリー五世の若き日のニックネーム、通称、であり。もっともハルと呼ぶのはフォルスタッフが主であり、そういう堕落したヘンリー五世(ハル)から軽蔑され切り棄てられる連中しか使わない通称であり、切り捨てた後にはハルなぞと呼ばれない(呼ばせない)わけだが。
 ここでふと思いついたのだが、バリーにはヘンリー五世の面影があるのではないか、ということ。同時にフォルスタッフのそれも。
 ここからだけでもハルにはなかなかに教養があることが見てとれるわけだが、ゆえに報告書によってこの作品が成り立っていることの証明にもなっている。
 ハルはカート・ヴォネガットを愛読している。T・S・エリオットによる詩、ダビデとヨタナンのエピソード、サー・ガラハッド、カフカの『審判』、シャーロック・ホームズ、山上の垂訓、ジョン・ダン、W・H・オーデンとシェイクスピアのエピソード、『ハムレット』を観劇等々きりがないくらい豊富にある。そして文章感覚、センスも独特であり、すなわち個性がある。それもとびきりの。英文学教師に気にいれられる、というのもよく分かる。
 いろいろとおもしろい部分があるが「惑星アオラの第二十六次元にいるようなもの。やる気のない役人くらい、眼が節穴の者はいない。それともネルソン提督のあれだろうか? 今夜は違うな、ハーディ」だとか。じつを言えばこの部分の惑星アオラの第二十六次元とはなにかまったく分からなかったわけだが。カート・ヴォネガットを私は好まず、『プレイヤー・ピアノ』と『タイタンの妖女』を読んだ、というか目を通したのみではあるが、文脈から彼の作品に出てくるのではないかと当たりをつけているのだが、どうだろう。
 と、あたかも表層、見てくればかり撫で回すような、些事をつつくようなことを私は述べ中身に触れていないように思われそうではあるが、前述したとおり、主人公は書くこと、語ることを意識的にさせれているわけだからそこにも、いや、そこにこそ注意を向けなければならないわけで、それは畢竟、中身を語ることにもなるのだ。また、本当の味わいは実際にふれるしかないわけであるし。
 舌を巻く、というのか、圧倒されるほど巧い。ただしそれは、一個の作品として客観的に冷静に観たときの感想であり、驚愕するほどの巧みさであるからこそ、没入させられ、翻弄させられ、ある意味打ちのめされもする。私が瀕死の状態にならずにすんだのは、面の皮のあつい初老ゆえであろうし、そのために距離をとり鑑賞者としての立場を保つことになりもしたのであろうし。
 されど私の読み方は没入型で、否応なしに没入させられ、ゆえに手痛い傷を負いはしたという次第。傷を負わせることができるのは、それだけ作中のなかの人間に生き血がかよっていて、真実があってのこと。傑作である証。傑作どころか、凄まじいまでの名作、と私は判じる。
 いわでものこと、没入型でない人も堪能できるものとなっていることだろう。



 『二つの旅の終わりに』

 おなじくエイダン・チェンバーズの作。
 英吉利の少年が、戦時下に亡き祖父を助けてくれたという和蘭の老女に会いにゆく。祖母の代理として。そして、その少年と、祖父と愛しあっていたその老女との視点が交互に描かれてゆく。
 第二次世界大戦下と現在(1995年)。英吉利と和蘭。セクシュアルアイデンティティ。安楽死。結婚という制度、そこから永遠の有無、いや、永遠なんぞない、愛は有限ではないと結論するもの。
 二つの旅の終わりにという邦題はうまくて、さまざまな二つがあり、二つにもとりどりあり。但し、考えつつ読む(言うまでもない当たり前の行為だが)と、二つだろうか?終わりだろうか?と疑問が差しもした。
 原題『POSTCARDS FROM NO MAN'S LAND』。こちらの方がしっくりとくる。さりとてNO MAN'S LANDをどう訳すかなかなか難しく、それで訳者は創作(意訳どころではなかろう)されたと推察するが。無人地帯?中間地帯?閾的な空間概念?。原題を活かし内容としてふさわしい訳には何がよいものだろうか。
 原題は祖母からの絵はがきを指していて、これはさりげないが重要な逸話であり残したいところだ。私としては。
 私が訳すとすれば、『あり、そしてなき彼へのポストカード』。内容を鑑み、意訳というのか超訳すれば、そうなるだろうか。
 複雑で、重い問題をいくつも取り扱いながらも、明るさ、軽さももたせ、爽やかな読後感をもたせる。並々ならぬ傑作。

 エイダン・チェンバーズは上記二作しか邦訳されていないとのこと。著作は比較的すくなく、ほかに十作ほどあるくらいであるらしい。なんとか他も訳してもらえないものか。
 さりながら、『俺の墓で踊れ』があるだけで充分であろうか、とも思う。『二つの旅の終わりに』もよいけれど、『俺の墓で踊れ』とは同日の論にあらず。LGBTQ+という文脈だとか、BLという色ものとして需要される恐れもなくはないが──その要素はじつは『二つの旅の終わりに』にも含まれる──、それは究極的には読み手の自由、勝手でしかなく致し方ないとして、見る目がある人であれば、そしてヤングアダルトだとかそういう一見色もの風なものに惑わされない人であれば、至福のときを経験できるであろう。それはつまり、かけがけのない傑作だということが理解できる、ということだ。

いいなと思ったら応援しよう!