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重度心身障がい育児当事者家族が『ハンチバック』を読んだ。

……とんでもないものを読んでしまった。と思った。

この本には、当事者でしか書けない、書いてはいけないとすら思わせる言葉達が刻まれている。
重度心身障害児となってしまった我が子が語れない言葉が、彼の代わりに綴られている。ようやく少しずつ言葉にでき始めたから、少しずつ書いていく。

『ハンチバック』で描かれる主人公、そして作者自身が人工呼吸器当事者だ。そして私は、我が子が人工呼吸器当事者。

我が子は言葉が発達する前に障害児になってしまったし、現在は知的障害もあるという診断だから今何をどう思っているのか、正確にはわからない。歯軋りと首振りで、嫌な時に教えてくれるくらい。あとは、最近たまに笑ってくれるようになったくらい。

だから日常的に必要なケアである「痰の吸引」一つとっても、それがどれほど苦しくて、ケアを通じてどれだけ楽になるのかも、よくわからない。

だから精緻な医療的ケアの描写で、彼女が痰の詰まりに苦しむ姿と、吸引によって脳に酸素が行き届き、すっきりとする姿は、私に解像度の上がった救いと新たな苦しみをもたらした。


…….それだけではない。
彼女の鋭いペン先は、私の中からですら、いまだに消えてくれない「健常者優位主義」にブスリと突き刺さる。

『私は紙の本を憎んでいた』

『ハンチバック』 市川沙央

という一文がある。

我が子が障害当事者となり、私自身がメンタルダウンし、ジリジリと回復する中で、最後の趣味は読書だった。

障害当事者にとっては、その読むことすら奪われる。読めたとしても、たとえば彼女の例ではページを捲るたびに背骨が軋み、読書姿勢を保つことすら容易ではない。考えてみれば当たり前の話だ。

この我々が普段気がついていない「健常者優位主義」に彼女は「マチズモ」というルビを振った。

これは私自身馴染みがなかったが、フェミニズムの文脈で使れる言葉で今までは「男性優位主義」に対してのルビとして使われていた。
つまり、フェミニズムに造詣のある人(純文学を好んで読む教養人には特に多いのかも入れない)にとってはこれまで女性の活躍を阻害している環境、構造、思想への批判として使っていた言葉が、急に自分に降りかかってきたのだ。さぞドキッとしただろう。

彼女は私たち健常者のあたりまえを揺さぶるためにこの本を書いたのだろう。そして、それは「読む」というあたりまえすぎて意識にも及んでいなかった行為にも及んだ。
「私はこれ以上取り立てを受けないといけないのか」と絶望的な気持ちになるとともに、確かに私は未だ強者であるとも思った。

我々には我が子を助けてくれる友人や、家族がいる。

精神的に追い込まれた母親が、人工呼吸器の我が子の呼吸器を外してしまったニュースは、一生私の中に刻まれている。それに比べれば、どう足掻いても、恵まれているとしか言いようがない。

我が子本人の苦しさはあまりにも主観が入りすぎてまともに語れない。
が、より重度な症状の中戦っている障害当事者も、いるだろう。いるのかもしれない。


彼女は障害者を異物と見做して排除する社会に異議を唱えるために本書を書いたという。その切先は、当事者の親である自分にすら突き刺さった。当事者の親だからこそ、自分の見たくない部分を直視させられたのかもしれない。

しかし、巻末での対談にて彼女はいう。

ある一面では弱者であっても、別の一面では強者であるーこのようにして強者と弱者の相対性を自覚することは、誰であろうとも必ず持つべき観点であり、現代の社会に広がる意識の分断にのまれないためにも効果的な処方箋だと思っています。何よりも大事なこととして、こうした思考法を自己正当化のために用いるのではなく、相互理解ということを忘れないでほしい、絶対に諦めないでほしいと私は思います。

『ハンチバック』 市川沙央

この言葉を引用しながら、自分が世界一の不幸と思っていた心臓がズキリと痛む。今日は比較的メンタルの調子がいいこともあってか、浅ましさが身に染みる。

優しさの輪郭を滲ませる、そんな読書体験だった。

当事者である彼女が命を削りながら書いた言葉で「絶対に諦めないでほしいと私は思います」なんて言われたら、なんだよもう、生涯この人を追いかけるしかないじゃないか。

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