“代弁”された側として思うこと──有料記事の宣伝文を読んで感じた違和感
現地で発信を続けていると、ときどき“誰かの言葉”が心に引っかかる瞬間があります。
それは批判ではなく、伝える立場としての小さな気づき。
今日はそんなお話です。
今日、オアハカやメキシコの情報を発信している方の過去noteが、私のおすすめ欄に上がってきました。
その方は「2025年オアハカの死者の日ガイド」といった有料記事(2,200円)を販売されていて、その姿勢自体は本当に素晴らしいと思います。
「人に楽しんでほしい」「現地の魅力を伝えたい」という想いは、私もまったく同じです。
ただ、記事の中で少し気になる表現がありました。
オアハカの死者の日のパレード情報についての部分です。
「正直、そのあたりの情報は知ってる人からしたら
あまり多くの人に知ってほしくないと思います」
「その情報ってほぼブログとかで公開されてません。人が多くなりすぎても見にくくなるし」
こうした部分に、「現地で情報を発信している人」や「情報を持っている人たち」は、「パレードに押し寄せる観光客を不快に感じているため、あえて情報を開示しないのだ」と、読者にネガティブな意図を暗に示しているような印象を受けました。読んだ私は少なくともそう感じました。
つまり、自分以外の誰かの気持ちを、想像であまり良くない方向に“代弁”し印象操作しているようにも見えたのです。
結果的に、他者との比較で自分の記事の価値を高めようとしているようにも感じてしまいました。
もちろん、これは私の思いすごしかもしれません。
けれどその文章を読んだとき、ふと「もしかして私のことかな?」と感じ、
現地で発信を続ける者として、少し寂しい気持ちになりました。
私が今回、パレード情報を詳しくnoteにまとめなかったのには、それなりの理由があります。
オアハカではパレードの正式発表が直前になることが多く、
さらに死者の日の時期は仕事が非常に多忙を極め、
noteを更新する余裕がないという現実もあります。
また、私は有料noteとは別に、現地アテンダントの仕事もしています。
より詳しいパレード情報や滞在サポートが必要な方には、有料サービスとして個別にご案内しています。
そのため、どうしてもそちらを優先せざるを得ないこともあるのです。
発信者それぞれに、事情や投稿ペースがあります。
だからこそ、どんな立場であっても「他の誰かの気持ちを代弁する」ような表現には、少し慎重であってほしいなと思いました。
「こう思っているはず」ではなく、「自分はこう感じた」と伝えること。
それだけで、読み手の受け取り方はずいぶん変わる気がします。
何かを強くアピールしたい、注目を集めたい──そう思うほど、
周りが見えなくなることもあるのかもしれません。
今回のことを通して、私自身も改めて「どう伝えるか」について考えさせられました。
実は、この件については直接ご本人にご連絡を差し上げることも考えました。知っている方で、以前には弊社の仕事に興味を持って事務所へ訪問してくださったり、
著書をお買い上げいただき、その中で紹介していた職人さんを訪ねてくださったりもした方です。
ただ、記事が全世界に公開されている以上、
それを読んで印象操作されて、事実と違う間違った方向で共感される方もいるかもしれない──そう思いました。
だからこそ、私の考えも一人でも多くの方に届くよう、
noteで書かせていただくことにしました。
最後まで、私の個人的なお気持ち表明を読んでくださり、
本当にありがとうございました。
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