満たされるということ
文字どおり満たされない日々が続いている。
冬でもないのに北風が吹いて、朝晩の通勤は肌寒い。空っぽになった満たされない心に空っ風が吹いて、空きっ腹に染みていく。暑くなっていく気温と対照的に、私の心は冬の装いを脱ぐことができない。
満たされないのは、大抵が朝から昼間で、どういうわけか夕方になると満たされる。もしかすると、痩せたいからと言って昼間の食事をスープだけに変えたからかもしれない。おかげで平日は大抵体重が減っていて、週末になると体重が元に戻っている。しかし、緩やかに下降線を辿っていなくもない気がしなくもない気もするし、そうでもない気もしなくもないし、食後に急激に眠くなることはなくなった気がするかもしれないし、しないでもないし、眠いし眠くないし。そんなこんななので、このままこの生活を続けて行こうと私は思う。
最近は野菜がべらぼうに高い印象があったが、ある日八百屋に行くと、「あらまぁ久しぶり!」と声が4オクターブぐらい上がりそうなほど懐かしい価格帯の野菜が並んでいた。私はあれもこれもとカゴに野菜を詰めた。気分はさながら詰め放題で、久しぶりに大量に野菜が食えると私は喜んだ。
ぽっかりと隙間が空いた心を、野菜が埋めてくれるような気がした。
帰りつくなり冷蔵庫を開ける。開けたのは三段のうちの真ん中の扉だ。引き出しタイプ。多分、ここは野菜を入れるところだろう。私はあまりにすっからかんになった、これまた冷蔵庫の心の隙間と思われる冷蔵庫の中心、そう、冷蔵庫のハートの部分をこじ開けた。私はそこに買ってきたばかりの野菜をぎゅうぎゅうに詰めていく。
野菜が満タンに入ると、私は満たされた気持ちになった。
そこで私は気づくのだ。満たされるというのは、文字通り満たされなければ満たされないのだ、と。しかし、満たされてばかりいるから太るのだよと誰かが言う。誰だよと思わなくもないが、きっとそれは私の中の理性というやつだろう。
久しぶりに満たされた気持ちになり、私は野菜を切った。晩ご飯をこしらえる。もちろん満たされるために。

私は皿にたっぷりの野菜をのせ、チキンカツも乗せた。レタスとサニーレタスのサラダに、カットしたトマト。キャベツとソーセージの炒め物に、ゴーヤチャンプルー。皿に料理を盛りながら、こんなに作る必要はなかったなと思ったのだが、食べたかった。満たされたかった。満たしたかった。私を。
私はあっという間に皿のものを平らげて、ぽっかりと空いた心の隙間という名の胃袋の隙間を埋めると、満たされた気持ちになった。
満たされるということは、空っぽの穴に色々なものを詰め込むような行為のような気がした。しかし、そうじゃないんだと、食べ物を消化していく胃腸をさすりながら私は思う。
満たされても満たされても、端から乾いていくような満たされない感情というものが、この世には存在する。だから、満たすことばかりを考えずに、満たされなくとも心の安寧を手に入れるためにはどうすればいいかということをしっかりと考えて行く必要があるのではないだろうか。
なんのはなしですか。
取り留めがない文章も、落ちがつなかい文章も、くだらなくて仕方がない文章も、カッコつけすぎて恥ずかしくなる文章も、すべてを受け入れてくれる魔法の言葉をnoteの路地裏から発信し続けたとある勇気ある者の、なんのはなしか分からない、とにかく胸だけが熱くなる文章が、路地裏にはあった。
創作意欲というのは、満たされた端からこぼれ落ちていく。それはきっと、創作という活動はブラックホールに物を投げ入れていくような行為であり、満たしても満たしても満足することが出来ないからなのかもしれないと感じている。私自身、一瞬満たされるものの、すぐに何かが足りないと感じてしまう気がしている。
それにしても、no+eというのは、noteではなくnoとeだったのだなと今更ながらに気づく。
eというのがネイピア数だということを初めて知り、今、私は真剣に「no」+「e」の答えを探したいと考え始めている。
ネイピア数とは数学定数の1つであり、自然対数の底(e)のことをいいます。 対数の研究で有名な数学者ジョン・ネイピアの名前をとって「ネイピア数」と呼ばれています。 つまり「ネイピア数=自然対数の底=e」となります。
たぶん、私には一生答えがわからないかもしれない。しかし、それは創作とて同じこと。答えのない答えを探し続けた先に何があるのかを私は知りたい。
諦めないこと。
私はそれを「なんのはなしですか」から学んだ気がする。
なんのはなしですか
