失言と私
少しだけ憂鬱な気分で、街を歩く。
金曜日の夜の街は、どこか浮ついていた。平日からの開放か、週末への祝福か。夏を少しだけ感じさせるような春の終わりの空気は、今にも泣き出しそうな顔を覗かせている。
明日の天気は、雨。
空を見上げると雲が垂れ込めていた。誰かがふぅと息を吹きかければ、ぽつりぽつりと溜まっていた雫が落ちてしまいそうで、私は同情する。なぜなら少しだけ、私に似ている気がするから。
私は時計を一瞥した。時刻は六時。
「あ、飲み忘れてた」
「私も」
飲み会の時に欠かせないものを忘れるなんて、酒好きとしては情けない。私は、スタートまで余裕があることを確認すると、店を出た。
人々が行き交う大通りを手ぶらで歩く。街では、繁華街に繰り出す人や、帰宅する人、どこへ向かうかわからない人たちが、すれ違っては遠くへ消えていく。
私の目的地はコンビニ。どこにでも点在するコンビニの中で、一番最短距離で行ける店舗へ迷いなく入店した。一目散に小さな冷蔵庫の棚に向かう。ノールックで陳列棚の商品を手に取った。そのままレジに向かい、お会計。

私が手に取ったもの。それは飲む前に飲む飲み物の代表格である栄養ドリンク。これを飲んでおけば、悪酔いしないし二日酔いにもならない。平日だろうと土日だろうと、朝は欠かさず犬の散歩に行かなければならない私には、必須アイテムだ。
店に戻り、すぐに瓶の蓋を開けて一気に飲み干す。私はそこで胸を撫で下ろした。これで安心して、いくらでも飲める。(しかし、これが功をそうしない時もある。春はあけぼの。酔う酔う白くなりゆく顔色。となるので要注意である)
とはいえ、その日の私は、飲み会の幹事だった。交代制で回ってくる幹事を、仕方なく引き受けた。私は、普段なら絶対に幹事なんてしない感じの人間だ。酒は好きな人と飲みたい。付き合いにお金を払いたくない。わがままでドケチ。それが精神衛生上、一番いいと信じて疑わない。
しかし、引き受けたからには職務を全うする必要がある。司会や進行もしないといけないのだから、無敵になれるポーションを飲んだからといって、へべれけになるわけにはいかない。私は仕方なしに、加減をしながらお酒を楽しんだ。
ビールを数本と、スパークリングワイン。それにスミノフと、ハイボール。まだまだいけると、新しい瓶を手にしながら、私はふと過去の自分を振り返る。
自分をではない。かつての私の失言の数々を──。
口うるさいおばさんに「ロッテンマイヤーそっくり」と言ったあの日のこと。
偉そうな上司に「君、ちょっと態度が悪いね」と言われて、「今日は無礼講ですよね」と返したこと。
セクハラ親父に「マジで気持ち悪い。触るな」と言い放ったこと。
誰にも聞かれていない過去の失恋話を語ったこともあった。そういえば、若い時に付き合っていた人はトイレが長い人だった。私はいつも彼がトイレから出てくるのを待った。普通、逆だよねって思いながら。「ねえ、いっつもうんこしているの?」と聞いてしまったのは、失言に入るだろうか。
あの頃の私は、まだ若かった。
青い私に、アルコールは着火剤だった。突発的な怒りも悲しみも、恥ずかしげもなく、惜しみなく口からこぼれ落ちた。武勇伝にもなりきれない中途半端な数々の失言が、私の腕を重くする。
私は手に持っていた瓶を、そっと目の前に置いた。今日は失言はしないでおこう。飲み過ぎはよくない。そう思いながら、瓶の蓋を開ける。
グラスにビールを注いだ。綺麗な泡が黄金の液体を閉じ込める。私はグラスを手にし、唇にそっと手繰り寄せた。グラスを傾けると、口の中に刺激的な旨みが広がる。喉を駆け下りるビールの苦味が、私の苦い思い出を洗い流した。かつての中途半端な失言は、笑いのタネにもならず、花を咲かせることもなく、胃の中で黄金の海を漂った。じわじわと消化されていく失言は、私の体内を駆け巡り、再び口から飛び出してしまうのかもしれない。
その日の私は、結局のところ失言をしたのだろうか。
その日の発言を、私はあまり覚えていない。
「ババアにババアと言って、何が悪い」
「正直、その話、興味ない」
「ごめんけど、何にも聞いてなかった」
これは通常運転だ。失言とは言い難い。思い出せない失言は、全てアルコールに溶けて夜の博多川に流れていったのだろう。今頃きっと、博多湾を漂い続けている。
無事に幹事としての役目を終えた私は、ゆらゆらと夜に揺られながら、二軒ほど店をハシゴした。

三軒目を後にすると、無性にラーメンが食べたくなった。
友人と別れ、一人とぼとぼと街を歩く。ラーメン屋はどこにもない。
仕方なしにタクシーで帰ろうと手を挙げてみるが、流しのタクシーに空車のランプはついておらず、私は肩を落とす。スマホの画面を開き、アプリでタクシーを呼んだ。タップした位置が悪く、タクシーは反対車線に停まる。私は慌てて、信号を渡り、タクシーに乗り込んだ。時刻は深夜一時半。無事に帰宅。
ラーメン欲が抑えきれなかった私は、鍋に湯を沸かした。ぐつぐつと湯を沸かして、袋を開ける。乾麺を放り込んで、二分待った。その間にスープの素を丼に入れる。麺がちょうどよく煮えたところで、茹で汁を丼に注いだ。しっかりとスープを混ぜ合わせて麺を入れる。行儀悪く台所で麺を啜る。美味い。
私は、テーブルにラーメンを運ぶと、ビールのプルタブを起こした。再びビールを飲む。夜中のラーメンとビールの背徳感は、失言によりぽっかりと空いた心を満たしていく。ずるずると麺を啜り、ビールを飲みながら、今日の出来事を思い返した。
帰宅すると、不思議と反省しか出てこない。
あの発言は余計だったなとか、あまりに横柄な態度だったのではないかとか。
飲んでいる最中は気が大きくなり、失言を失言とも思わない自分が、今日も今日とて、憎い。垂れ込めた暗雲に一滴でも水を落としたら、一気に雨が落ち始めるように、アルコールは私の溜まっていた何かを、雨のように落としてしまうのかもしれない。
そんなことを考えながら、そんなはずはないと思った。
冷静になって考える。私の失言は、飲酒中に限ったことではない。昼だって夜だって、私は失言し続けるのだ。アルコールはそれをさらに活性化させるだけのこと。反省するだけ意味がない。
酒は、失言は、その人の本性を露わにする。
そんな話を思い出した。それならば私は、ずっと本性で生活しているのかもしれない。裸一貫。なんだか、失言も悪くない。そんな気がした。きっとこれは、深夜の気の迷いによる悟りの一つだと思うけど。
