見出し画像

幽霊、2025年4月の仕事。

2025年4月の仕事はZAITENの連載コラム。

ZAITEN『時代観察者の逆張り思考』

2025年5月号は「森永卓郎が煽ったふたつのテロ事件」

「ZAITEN」5月号

コラムの内容はタイトルの通りなので、特に語ることはない。
高田馬場路上刺殺事件、ゼロ年代の「萌え&非モテ」ブーム、財務省解体デモからの立花孝志襲撃事件、という三題噺だ。

「ZAITEN」5月号目次

附記徒然。

コラムニストとは関係ない仕事で生じた課題をクリアするため、長らく封印していた「批評家の思考」を解放したのだが、結局、この思考に持っていく気力やトリガーが加齢と共に失われているため、あまり使っていない。
「ZAITEN」のコラムは月イチだが、これも数日かけて下調べをしてモードに入ってから一気に書き上げる、というスタイルで、いきなり書いているわけではない。
そして、批評はコラム以上に手間暇がかかる。

「批評家の思考」というのは、後先を考えない批判による対象の解析だが、普通の生活をしていれば、そんなものが必要となるケースはめったにない。
それをわざわざ展開しているのだから、批評家は常に躁状態でないと成立しない商売なのだ。
言動を反省せず、常に他責的な恥知らずでなければできない仕事なのだ。

私はときどき反省してしまうから、そういう商売には向いていない。
というか、それほど波は激しくないが、躁鬱の気質があるので、常に躁状態で攻撃性を剥き出しにできない。
批評家で長く生き残っている者は全員、それができるから生き残っているのだが、私はそのような性質が理解できない。
だとすると、私はやっぱり、批評家を仕事にしてはいけないのだ。健康のためにも。

考えてみれば、他人の批評にも関心がなくなって久しい。
かつての同業者が新作を書いたら、好悪はさておき、一応、目は通しておくのが職業的義務だと思っていたが、むしろ避けて通るようになっている。
イベントの類も、疲れるから行かなくなった。

批評自体は必要悪として必要なものだと思っているが、実際、なくても文化的生活は成り立つ。
しかも、コラムの仕事は常に社会の動向へアンテナを張ることのほうが重要で、批評界隈での人付き合いとは関係なく続けられる。
連載もついに91回目だ。懐かしい「Colorful PUREGIRL」『Natural Color Phantasm』なんて、通算で15回くらいだったはずだ。
サブカルやオタクのジャンルライターはサル山のボス猿にすり寄るとか、そういう人間関係のほうが重要だが、いま書いている界隈は関係性がクールで、そういう処世術はまったく意味を成さない。

そして、私はそういうクールな関係性のほうが気楽に書ける。困ったことに。
資質的にはジャンルライターで批評家なのだろうが、ダークな経済誌で場違いなコラムニストをやっているほうが楽なのだ。

復帰して10年、せっかく戻ったのだから、と思って、仕事を増やすことも考えたが、そろそろ終わりを考えている。
この世界の正史とやらと、私の歴史が相容れない以上、語ったところで徒労にしかならないし、私は私の歴史を否定することはない。
実際、それを前提としてコラムを書いているのだから。
否定されるのなら、私も君たちの正史を否定するだけだ。

たぶん、『時代観察者の逆張り思考』が最後まで残る連載になるだろうし、この連載の終了と共に、「更科修一郎」の仕事も終わるのだろう。
私は私の歴史を抱えて死んでいくのだ。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集