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幽霊、2025年12月の仕事。

2025年12月の仕事はZAITENの連載コラム。

ZAITEN『時代観察者の逆張り思考』

2026年1月号は「プロスポーツに憂国を見い出す国士たち」

「ZAITEN」1月号

第99回。2026年サッカー日本代表のキービジュアルが韓国の太極旗に似ていると炎上した話をマクラに、大谷翔平とかベイスターズとか。
プロスポーツとナショナリズムの話だけども、大衆の捻くれた欲望の話でもある。
巷の話題は高市政権の動向で、ZAITENの特集も表紙を見ての通り、その方向だが、個人的には肯定も否定も予測の範囲内で意外性がないので、現状ではネタにしづらいな、という感じ。

次回は連載100回。サイゾー連載が季刊化に伴い、80回ちょいで終わってしまったので、後から始まったZAITEN連載のほうが100回に到達するとは思わなかった。
オフィス・トゥー・ワン所属のモップ頭とか、何を食わせてもB層が云々としか言わない自動機械とか、バカラで100億溶かした御曹司とか、いろんなコラムニストが入れ替わり立ち替わり書いていたが、その陰で日経の新聞広告にも載らず、淡々と続いていた。
御曹司がサイゾーに引き抜かれたのは苦笑いしたが、ZAITENはサロン商売の広告に手を貸さないし、逆にサイゾーは広告代理店発の出版社なので、損得勘定を考えればそうなるだろう。
このあたり、善し悪しではなく、出自と線引きの問題だ。
彼らは原稿料は儲けにもならないと思っていて、メディア出演やサロン商売宣伝のために割り切って書いているのだから。

近年、ZAITEN以外での活動がないので、傍目にはよく分からない筆者のスタンスを(連載第一回のように)説明する回になると思う。
年末進行で〆切が早いので、時事の話題を扱いづらいというのもあるが。

「ZAITEN」1月号目次

附記徒然そのいち。

先日、逮捕された立花某は「正義」の手法を徹底的に学習して実践した秀才型の邪悪だったが、逮捕後もその手法を無自覚に遂行する左巻きがどんどん炙り出されているのは笑うに笑えない。

編集者と批評家をやっていた頃、「正義」を謳う左巻きのアクティブによく吊し上げられていたことを思い出す。
筆者も二十歳そこそこだったから、世間知らずで脇が甘かったのだが、これで学習したのは、非はないのに圧力に負けて非を認めれば、大義名分を得た「正義」は首を吊るまで追い込んでくるということだ。

辛うじて紙一重で生き残って、それがこの世の中なのだと悟ったのだが、筆者は立花某ほど真面目ではなかったから、相手の手口を学習することで復讐しようとは思わなかった。
世の中への復讐心、それ自体は抱き続けているのだが、それ以上に馬鹿馬鹿しいという気分が先に立って、復讐に対して真面目に成り切れない。

附記徒然そのに。

久しぶりに文学フリマを見てきた。
現代ビジネスの担当氏とはじめて会った。コロナ禍で直接会う機会がなかったのだ。
連載は休止中の扱いになっているらしい。

実は文学フリマ草創期、いくつかのサークルに参加していたのだが、休業(病気療養)でフェードアウトしてしまった。
当時、接点があったサークルの人々の多くはプロの物書きになったが、現在は誰も接点がない。
彼らは素人だった頃の過去を恥じているから、過去を知っている筆者を存在ごと抹消したいのだ。
その心情はよく分かるのだが、かつての好意を仇で返される格好になっているので、虚しい気持ちにはなる。

あと、コミケやコミティアほどではないが、ジャンル牢名主みたいなアジテーターとその弟子筋による党派性があって、居心地が悪いな……と思っていたのだが、いまは規模が大きくなりすぎて、別の問題が生じているようだ。
プロとアマ(素人)の対立とか、プロ同士の格差とか。

なので、「何か本を作るか」と思って参考のために行ったのだが、逆に「この状況で本を作るのは嫌だな」という結論になった。
商業媒体で書くのが好きなんだな。
というか、商業原稿で空気を読まないものを書きたい。

その商業媒体で、久々に批評界隈の記事を見かけたのでいくつか読んだのだが、何を書いているのかさっぱり分からなくて困った。
興味の範囲から外れたから分からなくなったのか、批評の体で自己啓発と身辺雑記が混ざった自動生成っぽい文章だからなのか。
でもどれも著名なんだよな。
文体の流行が変わったのだろうか?

念のため、本棚にあった、昔、読んでいた批評系の本と比べてみたのだが、やっぱり違うような気がする。
たぶん、語ることがない……個人的な偏見に基づく理想像を見失っているから、適当に流行の話題と絡めて、内輪向けに発しているのだろう。

筆者がその変化に気づかなかったのは、時事の報道以外、趣味系の記事はガジェットやパソコン関連ばかり見ていて、変化の過程を見ていなかったのが原因なのだろうが、だとしても……そんな変化がどうして起きたのか?

昔、よく「批評の皮を被った自分語り」と批判されていた。
別にアカデミシャンでもないのに成り行きで批評家を名乗っていたので、技術的に自分自身に引き寄せて語る以外の手法がなかったからだが。
「仕方ないだろ……」と思いつつも、最終的に「ならばコラムで良くないか?」と、現在のスタイルになった。

ところが、問題の自動生成っぽい文章群は、かつての自分語りとも違うナルシズムなので、どうにも困惑してしまう。
そういうのは小説でやれや、と思うのだが、小説だと私小説への忌避が浸透し過ぎて、読まれないらしい。
小説の側の問題のしわ寄せが批評に来る……というのも変な話だが。

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