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幽霊、2025年9月の仕事。

2025年9月の仕事はZAITENの連載コラム。

ZAITEN『時代観察者の逆張り思考』

2025年10月号は「高校野球という名の因習村が燃え上がる」

「ZAITEN」10月号

第96回。夏の甲子園開幕直前に暴力問題をSNS上で告発された広陵高校の大惨事から、平成初期の高校野球の話へ展開する回。
告発者は無事に逃げ切れたのだろうか。

見れば分かる通り、元々、現代ビジネスの連載で書くつもりだったネタだが、池田大作追悼(?)話と違って何ひとつとして褒めるところのない、陰惨なだけの話だったので、自発的お蔵入りにしていた。

サイゾーZAITENの二本立て興行だった頃は、サイゾーがカルチャーネタ、ZAITENが時事ネタという棲み分けでやっていたのだが、サイゾーのほうが終わってからは、カルチャーネタを書く機会は少なくなった。
というか、こういう事件が起きないと話題にしづらい。

「ZAITEN」10月号目次

附記徒然。

最近、こういう話題があって、まったく他人事ではないのだが、私の場合は整理が済んでしまっている。
昨年までは稼ぐ効率の問題も考えていたが、今年はZAITENの連載だけになっているので。
そもそも、「批評家」だった頃から、専門ジャンルで生計を立てる専業ライターではなかったが。

「批評家」という看板を下ろした上で復帰したのは、コラムとノンフィクション的な仕事をやろうか、と考えたからだが、後者は「結局、本当のことを書けないのなら、わざわざノンフィクションにする必要がない」という結論になり、サイゾーの連載が終わった後、現代ビジネスの連載を数回やったら満足してしまった。

その連載でも、温めていた「極めて個人的な来歴に基づくネタ」は、ほとんど使わなかった。
偶然、事件現場に居合わせてしまったが、誰も信じたくない不都合な真実をノンフィクションとして書いたところで、やっぱり誰も信じないだろうし、だったら最初からフィクションとして書いたほうが良かったのではないか、と思ったのだ。
当事者にダメージが通れば良いとは思うが、別に第三者に見せたいものでもない。
「ならば、フィクションとして書くのか?」と思い至ったが、それは私より上手く書ける知人友人がいくらでもいる。

歴史を恣意的に捻じ曲げて書く逸脱の面白さがノンフィクションの評価軸になっているのも引っかかる。
誰とは言わないが、近年の大宅壮一ノンフィクション賞とか講談社ノンフィクション賞とか。
そのくせ、佐野眞一とかは断罪しているんだからな。

話を戻す。
ライターで儲かっている人物は何人か知っているが、どうも立ち回りが浅ましく思えることが多く、そのエクスキューズを聞かされるのも嫌だったので、これだけで生計を立てるのはやめようと思っている。
一度辞めた頃からずっと思っている。

私はこの名前で世に出た時点……少なくとも、「批評家」という看板で仕事を取るフリーランスになった時点で、社会的には死んでいた幽霊だから、あとはタイブレークが延々と繰り返される延長戦のようなものだ。
社会的に生きていたらそもそもコラムは書いていないし、時々、道化のように顔を出しながら、いつの間にか野垂れ死ぬことしかできない。

他人の立ち回りを見るのも嫌だけども、自分自身が浅ましく立ち回るのも嫌なので、捨て鉢でも言えることは言っておこう、とは思っているが、そんな調子で人付き合いもどんどんしなくなり、数年ぶりに顔を合わせるとあからさまに嫌な顔をされるのだ。
人付き合いのある社交性の高いライターは、その場にいないライターの悪口を酒の肴にするから、何処にも属していない私は悪口を言われ放題だ。

たとえば、いつの間にか業界から消えたライターの悪行がいつの間にか、私のせいになっていたりする。
その人物は消えて名前も忘れられたから、名前だけが辛うじて残っている私が黒幕ということになる。

そうして、私の預かり知らぬところで身に覚えのない虚像が膨れ上がった挙げ句、誰からも嫌な顔をされるのだから、ライターとして生きていくということ自体が、緩やかな自殺なのだな、と思い至っている。

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