【短編小説】やめたあの子①
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こちらの短編小説は、加筆・修正し、2025年6月に電子書籍化しました。
縦書きで読みたい方は、電子書籍版を推奨します。内容に大きな変更はありません。
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私はいつも、薄い氷の上を歩いている。
笑顔は標準装備。得意先の機嫌を損ねていないか、メールの行間からも顔色を窺う。エレベーターは操作盤前をキープして、会議では先輩や上司よりも喋り過ぎない程度に積極的に発言。飲み会はグラスの空きにすぐ気づき、先陣を切って注文する。後輩でそれに気づいていない子がいれば、そっと肘で小突いて教えてあげる。
この世にはあまりにも気にしなければならないことが多すぎて、毎日息を吸うのも吐くのも慎重に、薄い氷の上で神経を張り詰めらせながら生きている。でも、これらを確実にクリアしていくことで、私はこの会社の一員として存在してもいい規格が、自分に備わっていることを証明できている気がした。
ただし、これは世の中の勤め人にとっては当然の装備であり、むしろそのように振る舞わなければ、自分の居場所は確保されないということも理解していた。だから、私は平然と、それが社会のスタンダードであり=自分のスタンダードでもある、といった澄ました顔をして生きてきた。
はずだったのに。恐れていたそれは、今日訪れた。
手配したはずのイベント用のサンプル商品が、先方に届いていないらしい。この土日にショッピングモールでやるイベントに使う予定で、今日、金曜日までに先方のイベント会社に届かなければならないものだった。
電話対応に追われている課長に、まだ定時十分前なのに「今日は下がって良いよ」と言われ、私はいま、女子トイレの個室にいる。せめて思い切り怒り飛ばしてくれるならまだよかったのに、コンプライアンスをきっちり遵守するうちの課長は、感情的に怒鳴ったりなんかしない。おそらく月曜日の朝イチにでも、私を個別で呼び出して今日の反省をさせるのだろう。そんなデキる対応に、私のミスがますます際立ってしまう。
下がっていいと言われても悔しくて帰りたくなかった私は、荷物を全部持って帰る支度をして、女子トイレの個室に引きこもった。経費削減のため何年も交換されていない、音質がガビガビの旧式の音姫にすすり泣きの音を消してもらいながら、ひんやりとした便座の上に腰掛けて、涙が枯れるのをじっと待った。
ようやく嗚咽が止まった頃に、個室の外から声がした。その聞き覚えのある声に、ひゅっと息を殺して、誰もいないふりをした。
「ねえ、やばくない? 足立さんさあ……。課長、後処理大変そうだよね」
「ね、あんなミスしちゃうんだ、って感じ。フツウに三年目の人の中で一番仕事できそうなのに」
違う課の一つ下の後輩で、たまにご飯も一緒に行く二人だった。ポーチの中で化粧品を転がすポップな音ではかき消せない棘だらけの会話に、私が今まで守ってきた足元の薄氷に、びきびきとヒビが入るのを感じた。
「え、三年目で一番シゴデキなのって、水原さんじゃない?」
「あー水原さん。確かにバリキャリタイプだよねー」
水原由紀。私の同期で、隣の課で同じ営業をしている。そのためか、仕事ぶりを比較されているような雰囲気はひしひしと感じていた。背が高く帰国子女の彼女は、ネイビーストライプのパキッとしたパンツスーツが良く似合う。トレードマークのロングヘアーを靡かせ、いつも自信にあふれている振舞いをしている。同期の間でも一番の出世頭ではないかと、一目置かれている存在だった。
二人の話題は瞬く間に切り替わって、男性アイドルのネット配信の話になっていた。それなのに、彼女たちが去って行ったあとも、私は冷たい便座に腰掛けたまま、しばらく動けないでいた。
次の日の朝、私は澱んだ気持ちを引きずりながらも、かろうじて定時に出社した。朝、家を出るのに玄関で十分座り込んでしまったが。
昨日トイレで私の陰口を言っていた後輩の二人は、廊下ですれ違うと何事もなかったかのように私に挨拶をした。その挨拶を返すかどうかの二択が私に迫ったが、脳内の私は瞬時に「挨拶を返す」の札を上げた。向こうは私があの時にトイレの個室にいたことなんて知らないだろうし、挨拶を無視して「まだ昨日のこと引きずってるんじゃね」とこれ以上燃料を与えるのも癪だ。だから私は、笑顔で挨拶を返した。いつも通り、毎日繰り返している挨拶を、コピペした。通り過ぎた彼女たちは、何かを小声で喋っていたが、最後のうふふふという笑い声しか私の耳には届かなかった。
予想通り、朝礼が終わると私はこっそりと課長に呼び出された。目尻に刻まれた皺は、彼の優しさと厳格さが綯交ぜになっている。
「足立さん。ごめんね、朝から呼び出して。昨日の件だけれども」
小さな会議室の圧倒的な白さと、この呼び出しというシチュエーションで、目の奥がちかちかした。課長は、慎重に、少しだけ低い声で、言葉を選びながら話し始めた。
今回の取引先だったイベント会社は、営業所の引っ越しをしたばかりで、一か月ほど前にメールで新住所を知らせてくれていた。そのメールを、昼休みにコンビニで買ってきたサンドイッチ片手に視界の端で捉えた記憶はあったが、取引先の住所リストのエクセルを更新するのを失念していた。そして、そのまま旧送り先に荷物を手配してしまったのも私だった。最終的に、金曜日中に課長が五十キロ先の現地に、自分の車で荷物を届けに行ってくれたらしい。
荷物を送る前に、自分も住所を確認するべきだったと課長は謝罪してくれた。上司として百点満点の対応に反論する余地もなく、白旗を上げる他なかった。
「足立さんに色々任せ過ぎたよ。しっかりしてるとはいえ、まだ三年目なのにさ。俺も手伝うから、いっぱいいっぱいなときは言ってね」
課長は腕時計を見ながら、会議室を先に去って行った。扉が開いたとき、わずかに見えたのは、水原さんの漆黒のロングヘアーだった。彼女は髪を靡かせて、ついほんの一瞬前まで私に説教をしていた課長と談笑しながら、廊下の奥の会議室に消えていった。
あ、今、私、つかえないやつ認定された。
そこから転げ落ちるのは早かった。私が朝会社を出るまでの玄関でのチャージ時間は、十五分、二十分、三十分と日に日に長くなっていった。メールをチェックするために、いつもかなり時間に余裕をもって出社していたのに、どんどんとその時間は短くなっていく。やがて、朝礼と同時に自分のデスクに着くようになっていった。
その分、昼休みに仕事をした。もともとコンビニで買ってきたサンドイッチやおにぎりを食べながら、エクセルで売上を入力していたが、食欲もわかなかったので栄養ドリンクで自分を奮い立たせた。そして、キーボードを打つ自分の指が今までよりも細く骨ばっていたことに気付いたときには、私はもう、限界だった。
次の日、初めて会社を休んだ。
三十分かけて玄関を脱出した後、電車に乗ったはいいが、気分が悪くなった。途中下車して新宿で降り、ホームのベンチで腰掛けたら、そこから動けなくなった。時間は滑らかに私の頬をかすめて過ぎ去っていき、ついに始業時刻に間に合う最後の電車も見送った。泣きながら、今日は休みますと課長に電話した。お大事にね。オフィスのざわつきをBGMにしながら、課長の低い声が電話越しに鼓膜を震わせた。
出社するはずだった恰好のまま、昼から映画を観たり、雑誌に載ってた話題のカフェに行ってみたりしたが、何も感じなくなった限界の身体には、全てが素通りしていく。
最終的に新宿の神社で放心していた。金曜日の仕事終わりのカップルたちが縁結びのお参りで盛り上がる中、暗闇に染まりあがっていく空を茫洋と見上げていた。
完全に日が暮れて、境内の人影がだんだんとまばらになる中、そっと私に近づいてくる気配があった。社務所の人だろうか。
「すいません、今帰ります」
慌てて自分の横にあった荷物をまとめようとすると、目に入ったのは、コンバースのスニーカーだった。最近は神社の人も随分とカジュアルな服装で働いているんだなあと思いつつ、ぱっと顔を上げると、どこかで見覚えのある若い女性が私の顔を不思議そうに見ていた。
「あの……。足立さん、ですか?」
声も、聞き覚えがあった。
「あ、やっぱりそうだ。私です。覚えてる? 戸田美優です」
名前、声、見た目から三秒ほど脳内検索をして、1件ヒット。
同期入社した中で一番の美人で、広報に配属になったけど、メンタルを病んで入社半年で辞めた、戸田美優だ。彼女はサラサラの髪を耳にかけながら、はにかんでいる。
「あっ……、戸田さん……?」
「やっぱり足立さんだ! 仕事帰り?」
「あー……うん、そうだけど」
歯切れの悪い返事をするが、戸田さんは全く意に介さない。
私の記憶に残っている最後の彼女は、茶髪で毛先をくるくるに巻いたロングヘアーがトレードマークの、儚げな女だった。少なくとも、こんなに歯切れよくハキハキと喋る女じゃなかったし、コンバースのスニーカーなんて絶対に履かなそうだった。
「足立さん、ずっと座ってたけど、もう帰るの? だれかと待ち合わせしてた?」
「あー……ううん。別にそういうわけじゃ……。疲れたからちょっと休んでたの。そろそろ夕飯食べて帰るかなあって」
「せっかく会えたし、良かったら一緒にご飯でも行かない? 私も今から帰るだけだったの」
戸田さんと二人で食事に行ったことは、かつて一度もなかった。でも、もう別に同じ会社でもないし、気まずくなったところでどうにでもなる。それに今夜だけは、このまま一人でいるよりも、大してお互いのことを知らない知人と酒でも飲んだ方がいい気がした。そうでもしないと、この世界から自分が消えてなくなってしまいそうな気がしたから。私は二つ返事で頷いて、石段から尻をはがした。
