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片足に立つ一事

 参禅堂へ向かう砂利径で、ふと片足を止めて考えることがある。人はなぜ、両足で立つよりも片足で保つことのほうが、深いところを目覚めさせるのだろうか。

 腸腰筋という筋がある。背骨と骨盤と、太ももの骨とを結ぶ、身体の奥にひそむ筋だ。これを働かせるのに、両脚を同時に持ち上げる必要はない。むしろ片足だけをゆっくりと持ち上げ、もう一方を床に残しておくほうが、奥の筋は素直に応える。両足で構えれば表の力が先に出しゃばり、腰は反り、浅い呼吸のままに終わってしまう。片足という制約があってはじめて、身体は奥の道を選ばざるを得なくなるのである。

 これは坐道にも通じる話だ。安定を求めて構えを固めるほど、かえって軸は逃げていく。むしろ支えを一本に絞り、頼れるものを減らしたときに、身体の奥深くから静かな力が立ち上がってくる。制約は敵ではない。制約こそが、深層へ至る細い道をひらく鍵なのだ。

 片足を持ち上げるとき、床に残った側の足もまた黙って働いている。大殿筋が、揺れまいとして等尺の力を保つ。動いていないように見えて、実は静かに支え続けている。これを等尺性収縮という。太極拳の站樁功に立つときの感覚とよく似ている。表面は静止していながら、内側では絶えず微細な調整が続いている。「動かぬ」ことと「働かぬ」こととは、まったく別物なのだと、身体はそのつど教えてくれる。

 もう一つ、興味深いことがある。膝を伸ばし切ってはならない、という点だ。膝をピンと張れば張るほど、力は太ももの表側に逃げ、腸腰筋という本来目覚めさせたい奥の筋は眠ったままになる。ほんのわずかにゆるめる――「伸ばす」のではなく「突っ張りを解く」というほどの、ごく小さな変化。それだけで、意識は太ももの表から、お腹の奥へとするりと移っていく。

 これは弓の弦にも似ている。張りきった弦は音を出さない。ほんの少しのたわみがあってこそ、震え、響く。膝もまた同じで、完全な直立は硬直であって、安定ではない。骨盤と背骨のニュートラルな位置は、ゆるみのなかにこそ見出される。

 片足で立つというのは、つまるところ「頼るものを減らす」練習である。両足という保険を手放し、腰を反らせて誤魔化す逃げ道もふさぎ、膝を突っ張って力むという安易さも手放す。残されたのはただ、身体の奥の、腸腰筋というひとすじの道だけだ。

 老いてなお歩みが確かな人は、たいてい片足の刹那を恐れない人だという。つまずきとは、その一瞬の頼りなさに身体が応えられなかったときに生まれる。ならば日々、片足でわずかに揺れることを繰り返しておくことは、いつか訪れる不確かな一歩への、静かな備えでもあるのだろう。

 笑いながらやるのがよい、と教わったことがある。眉根を寄せて力むより、頬をゆるめて行うほうが、案外奥の筋はよく働くのだそうだ。真剣さと力みとは別物である。片足に立つ稽古もまた、力ではなく、ゆるみのなかにこそ深まっていく。

片足の
揺れに宿るは
軸ひとつ




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