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読・休日~『ゴプセック/毬打つ猫の店』(バルザック)

はじめに

 今回もフランスの文豪、オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)の作品です。中編二編が収められています。
 先に記した『グランド・ブルテーシュ綺譚』とはまたちがった味わいの作品です。
 これらについての読後感を、簡単に記していきます。


「ゴプセック」

ゴプセック

 タイトル・ロールになっているゴプセックなる人物はグレ通りに暮らす高利貸しでして、彼にまつわる話を代訴人のデルヴィルが語っていく形式で展開する物語なのですが、このゴプセックなる人物も代訴人のデルヴィルも、バルザックの有名な長編である『ゴリオ爺さん』に登場する人物――それも、登場人物の会話の中だけに登場する人物――なのです。
 バルザックの有名な《人物再登場》の手法なのですが、作品の発表年は「ゴプセック」が1830年、『ゴリオ爺さん』が1834-1835年(「パリ評論」に4回に分けて掲載)ですから、正確にはこの「ゴプセック」に登場した人物が――会話の中だけに登場した人物も含めて――『ゴリオ爺さん』に「再登場」した形になります。
 しかし作品世界の時系列では、『ゴリオ爺さん』が先、この「ゴプセック」が後となっているのですから、バルザックの構想力と云いますか、構成力には舌を巻く思いがします。

 物語はグランリュウ子爵夫人のサロンから始まります。
 子爵家の娘カミーユはレスト―伯爵家の長男エルネストに淡い恋心を抱いていますが、母親である子爵夫人は、エルネストの母親であるアナスタジー・ド・レスト―伯爵夫人の浪費癖と、それがもたらしたゴリオ爺さんの悲劇を知っていて、ふたりの結婚を招来するような交際に反対します。
 そこに代訴人のデルヴィルが割って入り、エルネストの将来には莫大な財産が保障されていることを請け合って、その訳であるところの、長い物語を始めます。代訴人デルヴィルの口から語られるその経緯が、この物語の内容を成します。

 その話の前半は、グレ通りに住居兼店舗を構える高利貸しゴプセックの為人と、それを形成した略歴、そしてデルヴィルがどのようにしてこの人物と知り合い、誼を結ぶようになったかが語られていきます。
 高利貸しと云いますと、担保とした胸の肉を要求した『ヴェニスの商人』のシャイロックや、病人の布団すら剝いでいく『金色夜叉』の間貫一のような、血も涙もない冷血漢を想像なされるかもしれません。
 ゴプセックも、その名が「吝嗇家」の代名詞となっていることからも察せられますように、けっして生やさしい人間ではありません。しかしそんなことよりも、興味の中心は、彼がなぜそんな人間になったか、と、云うことにあります。それとともに、彼の冷徹なまでの計算高さ、その徹底した職業意識には、若きデルヴィル同様、崇敬の念すら抱かしめるものがあります。デルヴィルとの「取引」の場面には、その面目躍如たるものがあると云えましょう デルヴィルの話の後半は、バルザックのいわゆる「私生活情景」と云うタイトルに相応しく、レスト―伯爵とその夫人(ゴリオ爺さんの長女)が繰り広げる家庭内の内紛を中心に展開されていきます。
 『ゴリオ爺さん』でも描かれたレスト―伯爵夫人の姦通(現在で云うところの「不倫」)に端を発した借財問題が、手形として支払われた愛人の負債を肩代わりするために、伯爵家重代のダイヤモンドを担保にしてゴプセックから件の手形を取り戻そうとする伯爵夫人の行動となって、デルヴィルをも巻き込んでいくことになるのです。
 ちなみにこのデルヴィルは、「ゴプセック」では言及されておりませんが、『ゴリオ爺さん』では、ゴリオ爺さんが長女アナスタジー・ド・レスト―伯爵夫人の財産を保障させるために雇った代訴人と云うことになっています(「ゴプセック」では、あくまで、ゴプセックとレスト―伯爵との取引契約に関する立会人にして執行者の役割となっていますが)。
 レスト―伯爵とアナスタジーとの間には三人の子どもがいますが、レスト―伯爵の子は長男のエルンストひとりだけで、あとのふたりは姦通の相手であるマクシム・ド・トライユ伯爵の子どもなのです。
 潔癖かつ貞節をもってなる日本人には少々理解しがたい家庭事情ですが、『グランド・ブルテーシュ綺譚』の寸感でも述べましたように、どうも彼の国の彼の時代の彼の階級では、それが当たり前のような雰囲気があります。
 とは云え、ここで展開されるレスト―伯爵夫妻の確執と闘争の凄まじさは、まさに鬼気迫るという古くからの形容を新しく輝かせる筆致に富んでサスペンスあふれる場面を醸成しています。
 レスト―伯爵はなんとしてでも、妻と恋敵(と、云うより、妻を寝取った敵手)との間に産まれた子たちには財産を渡すことなく、すべての財産を長子にして唯一の自分の子であるエルネストに譲れるように企図します。
 一方、伯爵夫人は、そんな夫の企みを阻止し、自分の産んだ二人の子ども(姦通相手であるトライユ伯爵との間に産まれた子ども)にもその財産が保障されるように暗躍します。
 ここでおもしろいのは――と、云うと、いささか不謹慎な表現かもしれませんが――伯爵夫人の行動が、果して純粋にふたりの子どものことを思ってなのか、あるいは自分の利益も含めての行動なのか、さらには(姦通相手である)トライユ伯爵の利益まで考えての行動なのか、そのへんがアイマイなところです。
 いずれにしましても、夫以外の男との間に子どもを作っておきながら、その子どもにも夫の財産が渡るように画策しようなどとは、いかに子どもには罪がないとは云いましても、いささか面の皮が厚すぎるような気がします。
 彼女の実父であるゴリオ爺さんと、彼女の夫であるレスト―伯爵、それぞれの臨終のありさまを比較してみると、レスト―伯爵夫人の凄絶極まる怖ろしさが、よりいっそう浮き彫りになってきます。

 デルヴィルがグランリュウ子爵夫人にこの話を物語っている時点では、まだレスト―伯爵夫人は存命なようですが、彼女が夫亡き後、どのような人生を歩んでいるのか、日々どのような思いを抱いて生活しているのか、トライユ伯爵との間に生まれたふたりの子どもはどう成長しているのか……なかなかに興味は尽きません。
 バルザックの〈人物再登場〉は、なるほど、世上よく云われておりますように、各作品を有機的に連結し、その全作品に重層的縦深的な奥行きをもたせるに効果的な方法であることは論を俟ちませんが、一面、任意の作品で描かれた登場人物のその後を知りたいと云う読者の欲求に応え、引き続き同一作家の別作品を読みたいと思わせるに(商業的観点からしましても)有効な手法であるわいと、今回この作品を読んでみて、感じた次第です。


「毬打つ猫の店」

毬打つ猫の店

 ひたむきな愛情によって才能が開花した若き芸術家と、堅苦しい商人の家に育った心やさしい素直な娘との結婚……そしてたがいの性格の相違から来る擦れ違いと、夫婦生活に容赦なく吹きこんでくるすきま風……
 まあよくある話と云えばよくある話なんですが、そこに到るまでの描写が秀逸で、日本人たる吾人の感性からしたらいささかオーバーに思う気味もなくはないのですが、そこは愛と情熱の国(?)おフランスのことと割り引いて読んでみますと、やはりみごとな人間観察と云えるでしょう。

 古い慣習と道徳に縛られた商人の家に育った娘――オーギュスチーヌの純粋で素直な心はしかし、華やかな刺激と瑞々しい感性の持続を必要とする画家には、当初こそ新鮮で美しく魅力にみちた輝きを与えていたものの、それは長くは続きませんでした。
 夫婦の間が疎遠になり、夫は以前のように、さかんに社交界へ出入りするようになり、やがてひとりの女性――カリリャーノ公爵夫人の邸に足繫く通うようになります。

 オーギュスチーヌの悲哀、その心の空白、夫の心取り戻したいという願いはしかし、両親にも実の姉にも、以前は実家の雇用人だった義兄にも、まるで理解してはもらえませんでした。
 同じ環境で育ちながら、彼らとオーギュスチーヌとでは、まるで違った人間であるかのようです。

 ある日、彼女はありったけの勇気を奮い起こし、意を決して、夫が足しげく通うようになった公爵夫人の邸を訪れます。
 夫を返してくれと云うのでもなく、夫と別れるよう懇願するのでもありません。その不実をなじるつもりもなく、そんなことができるような気質でもありません。
 彼女はただ、どうしたら夫の心を惹きつけることができるか、公爵夫人はどのようにして、夫の心を惹きつけたのか、その秘訣を知りたくて、それを伝授してもらいたくて、その邸を訪うたのでした。

 公爵夫人はいままでに接したことのない、オーギュスチーヌのあまりにも無垢で純粋な心根に感動して、自分たちのような女性が社交界で発揮するその手練手管を飾ることなく披露し、オーギュスチーヌを激励します。
 しかしそのような技巧、手練手管は、とてもオーギュスチーヌには、身に着けることも、使いこなすこともできないものでした。オーギュスチーヌの道徳感からすれば、とても首肯できるようなものではなかったのです。
 旧い道徳と慣習に縛られた商家にも暮らせず、華やかで煌びやかな芸術家の家庭にもなじめないオーギュスチーヌは、悲哀を抱いたまま二十七歳の若さでなくなります。

 この作品の最後は、以下のような、彼女の友人の感想でしめくくられています。

「谷間に咲いた慎ましく控えめな花は」とその友は思う。「あまりに天の近くに移され、嵐が生まれるところや太陽が照りつけるところに移植されると、おそらくは死んでしまうのだろう」

『ゴプセック/毬打つ猫の店』p.245

 この友人の思いに似た心情を、日本人は十七文字の短い句で表現しました。
 すなわち――手に取るな やはり野に置け 蓮華草


あとがき

 「ゴプセック」は独立した作品としてそれ自体でも充分面白いのですが、できれば『ゴリオ爺さん』と前後させて読まれることをオススメします。
 事件や登場人物がより重層的、より立体的に捉えられて、より興味が増すこと請け合いです。
 「毬打つ猫の店」は簡単なあらすじ紹介みたいになってしまいましたが、漱石の筆を藉りて云えば、山のものを食べながら山に住めず、海のものを食べながら海にも住めなかった娘の悲哀がよく現われています。
 なお、バルザックの〈人物再登場〉に関してひと言申し上げますが、「ゴプセック」に(登場人物の話のなかにだけ)登場するゴプセックの姪の娘、〈オランダ美人〉ことサラ・ヴァン・ゴプセック、そして、「毬打つ猫の店」に、名前だけ登場する香水商のセザール・ビロトー氏のそれぞれが、『セザール・ビロトー〔ある香水商の隆盛と凋落〕』と云う作品に登場します。興味をおもちになられたおかたは、こちらもご一読なされてはいかがでしょうか。

『セザール・ビロトー〔ある香水商の隆盛と凋落〕』の情報はこちら


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