何故、私は書き続けるのだろう?「殺人」への永い言い訳

今、ふと思った事を書き殴っただけ(苦笑)
何を書いても箸にも棒にもかからない。
その度に凹んで落ち込むのに、また書き始める。
私の生活に「時間」と言う余裕は、あまりない。金銭的にも、ダブルワークをしても大して稼げない(笑)友人に賃金値上げなんて言う度胸はなく、ひたすら自分の創作時間を削る私に「ごめんね」と謝る彼女に「いいよ、いいよ」と微笑むだけだ。
私が書くと、その殆どの小説でヒトが死ぬ。または酷い目に合う。どうして、そんな残酷な物語しか思いつかないのか。
オチや大どんでん返しが欲しいからに他ならないが、その為に創作とはいえ、こんなに大量に殺ってしまっていいのか、と小心者の私は時に考える。
何故、穏やかな日常が書けないのか。
ほわんとした恋愛物でいいじゃないか、と人に言われた事もある。
それは、人は「自分にない物」を求めているのじゃないか、と常日頃から思っているからだ。人に求められる物を書きたい、そう思うのが普通ではないだろうか。
ところで、100%の善人も100%の悪人も存在しないと言うのが私の持論だ。
いや、ずっと私は孟子よろしく「性善説」を唱えてきた。その私の思考を少しづつ壊したのが、亡くなった主人だった。
「世の中は良い人ばかりじゃないよ」
彼は育った環境や理由がなくとも「悪人」は居ると私に言い続けた。そして、その決定打となったのが実母の言葉だった。
「貴女が意地悪をする子じゃなくて良かった」
三歳で別れ十五歳で再会した母は、それからずっと私を見てきて、ある日突然言ったのだ。
「いい?騙されちゃダメよ。お腹の中に意地悪をする因子を持っている人は、必ず居るの」
最初は何のことか、さっぱり分からなかった。
今になってみて分かるような気がする。生まれながらに、人を僻んだり妬んだりして、それを我慢出来ずに「意地悪」や「虐め」として、発散する人達が居るかもしれない事を。
そして、おそらくそういう人達こそ、優しい薄っぺらいペルソナで自分を覆っている。
あぁ、話が逸れた(苦笑)
私にとっての「小説」は、憧れへの造形である。
恋は、その気になれば殆どの人が出来るけれど「殺人」は出来ない(この場合の恋には片思いや推しをもちろん含む)
人を殺すくらいなら、自分を殺める選択を選ぶのが理性ある常人だろう。だからと言って、別に「殺人」に憧れているわけではない。不確かだろうが何だろうが、何かを伝える為に創作の中で、私は命を粗末にしている。
先日読んだ、市川沙央氏の「ハンチバック」の中に、紙の本が好きだと言う
ーー紙の匂いが好き
ーーページをめくる感触が好き
そんな事を言う健常者は紙の本を読めない障害者に対して、細やかな配慮が欠けていると言うシーンがあった。
ならば、
ーーこのお菓子のやさしい甘さが好き
ーーこのお料理の濃厚な奥深い味が、堪らない
などと言う事、書く事は、胃瘻をして口から物を食べられない障害者やコロナの後遺症で味覚を失った人などへの配慮が足りないのか?
そうではないと私は思う。
人には出来る事と出来ない事が必ずある。私に100mを10秒で走れと言ってみても、絶対に無理だ(この例えも、どうかと思うが 苦笑)
「出来ない」から出来る人に憧憬を抱く人で、私はありたいと思う。
だから私は「非日常」を、これからも書いていきたい。
ラノベが売れた時代は終わりつつある。
映像化される、殆どの作品はミステリーやサスペンスだ。東野圭吾しかり、港かなえしかり⋯
純文学が未だに相手にされないと言う時代も終わりつつあるように思う。ファッションと同じように流行は繰り返される。
じゃあ、書こう。
ありふれた人生ではなかった私が唯一出来る表現方法が書く事なのだから。
6万字書いて、何か一つでいい。伝える事が出来たら、心に残ったら、それが私が生きてきた証になると思う。
な〜んて、風邪で全く頭が回っていないから何も書けていないけど(笑)どうやら言い訳だけは出来たような?気がする(笑)

