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「夏の残照」#一枚の写真から文芸賞


【夏の残照】


「そろそろ会いませんか」

 私が五歳の真夏に消えた父から、祖母を通じて唐突にメモが送られて来たのは、十五歳の初夏だった。
「今更、どういうつもりよ」
祖母の目の前で私は拗ねた素振りをして見せた。まるで、そうする事で自分の正義みたいなものを振りかざすかのように。
幼い頃に別れた父は、優しかった記憶しかないのに、突然、母と私を置いて出て行った。
大きな手の温もりや膝に乗った時のゴツゴツとした骨の感触、私の頬に触れる、ざらざらとした髭の剃り跡だけが私に与えられた父の残照だった。

 母は毎日毎日、窓の外を眺めては、ため息を繰り返す人だった。遠くに見える薄ぼんやりとした山々や、流れる白い雲にも鮮やかなオレンジ色の屋根にも何の罪もないのに、母は外の風景を敵のように見つめては、一つ二つとため息を重ねた。

「パパを待っているんだね」
それが私が出した真実と言う結論だった。

「ママ、此方を向いて。由良を見て!」
母に抱きしめられたかったのに、私は母の真実を守るために、ずっとその言葉を飲み込んでいた。
 ショートカットの髪の下から覗く母の首筋は細くなり艶をなくして、やがて窓辺から居なくなった。八歳の春だった。
それから私は父方の祖母の元で、今日まで育てられてきた。

「会ってあげてくれるかい?」
垂れて重い瞼の下の祖母の目は、いつも私を温かく見守っていた。
「会った方がいい?」
「そりゃあ、赦せないかもしれないけど、由良の本当の父親だからね」
「お祖母ちゃんが、そう言うのなら」
渋々と返事をしたのも私の正義からだった。

 父との再会の日、私は母から譲り受けた白いワンピースを身に付けた。父は覚えていないかもしれない。それでも、それが娘から罪深い父への無言の抵抗のつもりだった。
 バスを待つ私の耳に街路樹に止まった余命を知らない蝉達が騒がしく鳴く声が響いた。うわぁんうわぁんと私の脳内をかき混ぜる。被っていた麦わら帽子をぎゅ~っと深く被り直しても、その蝉達は私を嘲笑うように鳴き続けた。
バスを降りて白い石畳をコツコツと父に指定された喫茶店へ向かう私の足取りは重かった。

アンティークを感じさせる木のドアを開けるとカランコロンとドアチャイムが私の来店を告げた。
「いらっしゃいませ」
店によく合う初老の紳士がサイホンに向かいながら声を掛けた。私と目が合うと彼は視線だけで上品に父の居場所を教えてくれた。
窓際の一番奥にその人は座って居た。
恐る恐る近付いてペコリと頭を下げた。十年ぶりの親子の再会に「こんにちは」ではおかしいし、「お久しぶり」では他人行儀だ。前の晩にさんざん考えた挙げ句、選んだのが無言の会釈だった。
 俯いていたその人は顔をあげると
「よく来たね、由良。さぁ、座って」
祖母とよく似た温かな瞳を、眩しいものでも見るように私に向けた。
「大きくなったね、由良」
「お父さんも元気そう」
パパと呼ぶのは、もう照れくさかった。元気そう⋯と言ったけど、十年の歳月は、生気を削ぎ落とすように父の身体を痩せさせていた。私の思い出の中の父は、こんなに小さな人だったろうか。

「何でも注文してね」
「じゃあ、コーヒーフロートを」
父はカウンターの紳士に手を上げると
「ホットとコーヒーフロートを」
と告げた。

もっとドラマティックな展開を予想していた私は拍子抜けした。古いテレビドラマのように父が私にすがりつき許しを請うか、私の感情が昂ぶって「お父さん」と号泣するのかと思っていたのに。
 淡々と時が過ぎてアイスコーヒーの上のアイスクリームが溶け始めた頃、私は思いきって父に訊ねた。
「どうしてママと私を捨てたの?」
「うん⋯」
父は答える代わりに一枚の写真をテーブルの上に置いた。



「あ、ママ!!」
そこには私の思い出の中の母が、寸分違わぬ姿で居た。でも、どうして父が、この写真を持っているのだろう。母は帰って来ない父を来る日も来る日も待ち続けて壊れたはずなのに。

「由里子は、いや、由良のお母さんにはね、僕じゃなくて好きな人が居たんだ」
「えっ」
「うん、どんなに説得しても忘れられないって言われたよ」
「だからって、突然、私達を捨てなくても」
「お母さんは、その人と幸せになりたいって言ったんだ。僕じゃなくてね」
「じゃあ、どうして今更、私の前に現れたの?」
「十年前に患った癌が、先日やっと完治したと医者から言われてね」
「えっ、十年⋯」
「うん、長かった」
「お父さんは、お父さんは、由良を捨てたんじゃなかったのね」
「何度も一緒に暮らそうと思ったけど、自信がなかったんだよ。自分自身の身体にね」
「ひょっとして、ママとも自信がなくて?」
「うん、別れる時に『こっちを向いて、笑って由里子』って言ったけど、ママは振り向いてはくれなかったんだ」
「あ、それで、この写真⋯」

溶けたアイスクリームが氷を伝ってコーヒーの中にポトリと落ちた。
「パパーー!!」
私を抱きしめた父の手は、あの頃のように大きく温かった。







花澤薫様
はじめまして。素敵な企画をありがとうございます。参加させて頂きました。よろしくお願い致します。

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