長編小説『六つの席』第二部 六人の日常①
第一章 佐伯恒一
火曜日――小さな違和感
火曜日の朝、佐伯恒一は五時二十八分に目を覚ました。
目覚まし時計が鳴るには、まだ三十二分あった。
いつもなら、もう一度眠ろうとする。
けれど、その日は眠れなかった。
天井を見つめていると、遠くで車の走る音がした。
まだ街が眠っている時間だった。
恒一は布団を出た。
洗面所へ行き、顔を洗う。
鏡の中の自分を見る。
五十一歳。
白髪が少し増えた。
目の下にも、以前にはなかった線がある。
「疲れてるな」
そう呟いた。
誰かに言ったわけではない。
ただ、自分に向けた言葉だった。
⸻
台所へ行く。
電気をつける。
妻はまだ眠っている。
恒一は音を立てないようにコーヒーを淹れた。
湯を注ぐ。
コーヒーの香りが広がる。
窓を少し開ける。
朝の空気が入ってきた。
涼しい。
夏なのに、朝だけは少しだけ秋のようだった。
恒一はカップを持ったまま、ベランダへ出た。
空を見上げる。
雲が薄く広がっている。
雨は降りそうにない。
スマートフォンで天気を見る。
今日も暑くなるらしい。
恒一は画面を閉じた。
「今日もか」
何となくそう言った。
毎日、同じような天気。
同じような朝。
同じような電車。
同じような仕事。
そんな生活を何十年も続けてきた。
それなのに、
最近になって、
「このままでいいのだろうか」
と思うことが増えた。
何か大きな不満があるわけではない。
家族もいる。
仕事もある。
住む場所もある。
食べるものにも困らない。
それなのに、
胸の奥に小さな空白がある。
何なのかは分からない。
恒一は、その空白について考えるのをやめた。
⸻
七時二十分。
妻が起きてきた。
「早かったね」
「目が覚めた」
「最近、早いね」
「そうかな」
「そうよ」
妻は冷蔵庫を開けた。
「朝、何食べる?」
「何でもいいよ」
「それが一番困るのよ」
恒一は笑った。
「じゃあ、パン」
「昨日もパンだったじゃない」
「じゃあ、ご飯」
「最初からそう言えばいいのに」
そんな会話をしながら、
二人で朝食を準備する。
特別なことは何もない。
でも、
恒一はこういう時間が嫌いではなかった。
むしろ、
こういう時間こそ、
人生なのかもしれないと思う。
大きな出来事ではなく、
「パンにする?」
「ご飯にする?」
というような、
どうでもいい会話の積み重ね。
それが何十年も続いて、
気がつけば、
一緒に生きてきた時間になる。
⸻
八時。
恒一は家を出た。
「行ってきます」
「気をつけて」
「うん」
玄関のドアを閉める。
駅へ向かって歩く。
いつもの道だった。
信号。
コンビニ。
小さな公園。
交差点。
毎日見ている景色。
けれど、
その日は何となく、
いつもよりゆっくり歩いた。
公園の木を見上げる。
蝉が鳴いている。
大きな声だった。
恒一は少し笑った。
「元気だな」
誰もいない公園に、
そう言った。
⸻
駅に着く。
改札を通る。
ホームへ上がる。
電車を待つ。
恒一はスマートフォンを取り出した。
仕事のメールが何通か届いている。
一つ開く。
二つ目。
三つ目。
その中に、
少し気になるメールがあった。
仕事の担当変更についてだった。
恒一が長く担当していた仕事の一部を、
別の部署へ移すという。
大きな問題ではない。
会社ならよくあることだ。
けれど、
恒一はそのメールを二度読んだ。
なぜか、
胸の奥がざわついた。
「そういう時期か」
小さく呟いた。
自分の仕事が、
少しずつ別の人へ渡っていく。
それは当然のことだ。
会社は誰か一人のものではない。
分かっている。
分かっているのに、
少しだけ寂しかった。
電車が来た。
恒一は乗り込んだ。
⸻
車内は混んでいた。
吊り革につかまる。
窓の外を見る。
ビル。
住宅。
道路。
そして、
人。
たくさんの人が、
それぞれの場所へ向かっている。
恒一はふと思った。
この中で、
今日、
人生が変わる人はどれくらいいるのだろう。
結婚する人。
離婚する人。
仕事を辞める人。
新しい仕事を始める人。
誰かと出会う人。
誰かと別れる人。
そして、
何も変わらない人。
たぶん、
何も変わらない人のほうが多い。
でも、
人生というものは、
「何も変わらない日」が積み重なってできている。
恒一はそんなことを考えながら、
電車に揺られていた。
⸻
会社に着いた。
午前九時。
仕事が始まる。
メール。
会議。
資料。
電話。
いつもの一日。
午前十一時。
上司に呼ばれた。
「佐伯さん、昨日の件なんだけど」
「はい」
担当変更についてだった。
正式に決まったらしい。
「急で申し訳ない」
「大丈夫です」
恒一は笑った。
「引き継ぎます」
「助かります」
会議室を出る。
廊下を歩く。
自分の席へ戻る。
パソコンを開く。
仕事を続ける。
それだけだった。
けれど、
恒一の中では何かが変わっていた。
今まで、
自分が必要とされていることを、
当たり前だと思っていた。
これからは、
そうではなくなるかもしれない。
そのことを、
初めて現実として感じた。
⸻
昼休み。
恒一は一人で外へ出た。
会社近くの定食屋。
いつもの店。
いつもの席。
焼き魚定食を頼む。
料理が来るまで、
スマートフォンを見ない。
窓の外を見る。
信号が変わる。
人が歩く。
車が止まる。
また動く。
恒一は、
ぼんやり眺めていた。
「自分も、止まってるのかな」
そんなことを考えた。
仕事では、
まだ動いている。
家族の中でも、
父親であり、
夫である。
でも、
一人の人間としては、
どこへ向かっているのだろう。
その答えは、
分からなかった。
⸻
午後六時半。
仕事を終える。
会社を出る。
空は少し暗くなっていた。
駅へ向かう。
ホームには、
帰宅する人がたくさんいた。
恒一はベンチに座った。
少し疲れていた。
スマートフォンを見る。
妻から、
「気をつけて帰ってきてね」
とメッセージが来ている。
恒一は、
「今から帰る」
と返信した。
それから、
スマートフォンをポケットにしまった。
目の前を電車が通り過ぎる。
強い風が吹く。
恒一は目を細めた。
その瞬間、
頭の中に、
妙な感覚が浮かんだ。
昔の記憶。
駅。
ベンチ。
誰かの声。
笑い声。
そして、
六つの席。
恒一は眉を寄せた。
「……何だ?」
記憶は、
それだけだった。
誰がいたのか。
いつのことなのか。
何を話していたのか。
何も思い出せない。
ただ、
なぜか懐かしい。
恒一はしばらくベンチに座っていた。
やがて電車が来る。
立ち上がる。
電車に乗る。
その記憶は、
車内に入った瞬間、
消えていった。
⸻
夜八時。
家に帰る。
「おかえり」
妻の声。
「ただいま」
食卓につく。
夕食を食べながら、
恒一は今日の仕事の話をした。
「仕事、少し変わることになった」
妻は箸を止めた。
「大丈夫?」
「うん」
「嫌なの?」
恒一は少し考えた。
「嫌っていうより……」
言葉が出てこない。
「何?」
「自分の役割が、少しずつ変わっていく感じがする」
妻は黙って聞いていた。
「それは悪いことじゃないんじゃない?」
「そうかな」
「ずっと同じじゃないでしょ、人間なんだから」
恒一は笑った。
「そうだな」
その言葉を、
しばらく心の中で繰り返した。
⸻
夜十一時。
寝室。
電気を消す。
恒一は布団に入った。
今日一日のことを思い返す。
早く目が覚めた朝。
コーヒー。
仕事の変更。
妻との会話。
そして、
駅で浮かんだ、
あの記憶。
六つの席。
なぜ、
そんなものを思い出したのだろう。
恒一は考えた。
でも、
答えは出ない。
「まあ、いいか」
そう呟いた。
目を閉じる。
遠くから、
電車の音が聞こえる。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
その音を聞いているうちに、
恒一は眠りに落ちた。
まだ、
何も始まっていなかった。
ただ、
火曜日という一日が、
静かに過ぎていった。
そして恒一自身も知らないところで、
彼の人生の歯車が、
ほんの少しだけ動き始めていた。
