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長編小説『六つの席』第一部 六人の一週間①

月曜日。

午前7時42分。

同じ駅。

同じホーム。

雨。

ホームには六つの空席がある。

六人は、まだ互いを知らない。

一人ずつ、そこへやって来る。

そして――

六人が初めて同じ場所に座る。



第一部 六人の一週間

第一章 佐伯一

月曜日――午前六時十二分

目覚まし時計が鳴る三分前に、佐伯恒一は目を覚ました。

暗い部屋の中で、天井を見た。

時計の数字は、まだ六時十二分だった。

あと三分。

それなのに、もう眠れなかった。

布団の中で目を閉じると、昨日の夜に見たメールのことが浮かんできた。

「本件について、明朝までに方向性をご提示ください」

たったそれだけの文章だった。

誰が書いたのか。

どんな意図だったのか。

そんなことは、もう何年も会社員をやっていれば分かる。

「明日の朝までに何とかしろ」

という意味だ。

恒一は、ゆっくり息を吐いた。

六時十五分。

目覚まし時計が鳴った。

止めた。

起き上がった。

それだけだった。

特別な朝ではない。

毎日と同じ朝だった。

キッチンへ行くと、妻がいた。

「おはよう」

妻はスマートフォンを見たまま言った。

「おはよう」

恒一も答えた。

それ以上、会話はなかった。

冷蔵庫を開ける。

水を出す。

コップに注ぐ。

飲む。

いつからだろう。

朝というものが、こんなに静かになったのは。

昔は違った。

子どもたちが小さかった頃は、朝から騒がしかった。

「お父さん、靴下どこ?」

「お父さん、今日学校で使うんだけど」

「お父さん、早くして」

そんな声が、家の中を飛び交っていた。

恒一は、それをうるさいと思っていた。

もっと静かに朝を迎えたいと思っていた。

今、その願いは叶っている。

家の中は静かだった。

静かすぎるくらいに。

妻がコーヒーを飲んだ。

「今日、帰り遅い?」

「たぶん」

「そう」

それだけだった。

恒一はネクタイを締めた。

鏡を見る。

五十一歳。

自分では、もう少し若く見えると思っていた。

けれど最近、写真を撮ると驚く。

知らない男が写っている。

目の下に薄い影があり、髪には白いものが増えている。

会社では誰も言わない。

言えるはずがない。

「佐伯さん、最近老けましたね」

そんなことを言える人間はいない。

恒一自身も言わない。

ただ、鏡だけは嘘をつかなかった。

家を出た。

午前七時三分。

駅まで歩く。

いつもの道。

いつものコンビニ。

いつもの交差点。

そして、いつもの駅。

人は多かった。

スーツ姿の人。

制服姿の学生。

イヤホンをした若者。

スマートフォンを見ながら歩く人。

誰もが、どこかへ向かっていた。

恒一も、その一人だった。

改札を抜ける。

ホームへ向かう。

電車を待つ。

それだけのことだった。

けれど、その朝だけは少し違った。

ホームの端に、一人の老人が立っていた。

七十代後半くらいだろうか。

背筋が伸びていた。

手には古い革の鞄。

電車を待っているようにも見えたし、ただホームに立っているだけにも見えた。

恒一は、その老人を一度見ただけだった。

そして視線をスマートフォンに戻した。

会社から新しいメールが来ていた。

件名は、

「昨日の件について」

だった。

恒一は開かなかった。

今は見たくなかった。

あと数十分で会社に着けば、どうせ見ることになる。

だから、それまでは見ない。

そんな小さな抵抗だった。

電車が入ってきた。

風が起こった。

人が動いた。

恒一も動いた。

電車に乗った。

いつもの場所に立った。

ドアの横。

そこも、いつもの場所だった。

電車が走り出した。

窓の外の景色が流れていく。

恒一は思った。

最近、自分の人生もこんな感じだな、と。

止まっているわけではない。

毎日、ちゃんと前に進んでいる。

会社へ行く。

仕事をする。

家へ帰る。

眠る。

また起きる。

それを繰り返している。

だから、人生は進んでいる。

でも。

どこへ向かっているのかは分からない。

そんなことを考えていたら、電車が次の駅に着いた。

人が降りる。

人が乗る。

ドアが閉まる。

また走り出す。

恒一はスマートフォンを見た。

メールはまだ開いていない。

代わりにニュースを見た。

政治。

株価。

スポーツ。

芸能。

どれも自分には関係がない。

指を動かしているだけだった。

そのときだった。

ポケットの中でスマートフォンが震えた。

妻からだった。

「今日、少し話したいことがあります」

それだけ。

恒一は画面を見つめた。

「何?」

と返そうとして、やめた。

今聞く必要はない。

帰ってから聞けばいい。

そう思ってスマートフォンをポケットに戻した。

会社に着いた。

午前八時三十七分。

エレベーターの前で部下に会った。

「おはようございます」

「おはよう」

「昨日の件なんですが……」

恒一は一瞬だけ目を閉じた。

やっぱり来た。

「うん。あとで会議室で話そう」

「はい」

エレベーターが来た。

人が乗り込む。

恒一も乗った。

鏡張りの壁に、自分の顔が映っていた。

その顔を見て、恒一はふと思った。

――このままでいいのか。

理由は分からなかった。

突然、そんな考えが浮かんだ。

このまま五十五歳になって。

六十歳になって。

定年になって。

そのとき、自分は何を思うのだろう。

「よく頑張った」

と思うのだろうか。

それとも、

「もっと別のことをすればよかった」

と思うのだろうか。

エレベーターが止まった。

扉が開く。

恒一は考えるのをやめた。

仕事が始まった。

午前九時。

会議。

十時。

電話。

十一時。

メール。

十二時。

昼食。

午後一時。

会議。

午後三時。

トラブル。

午後五時。

また会議。

午後七時。

まだ仕事。

午後八時四十五分。

ようやく会社を出た。

外は雨だった。

傘を持っていなかった。

駅まで走るほどの雨ではなかった。

だから、濡れながら歩いた。

駅に着いた。

ホームへ上がる。

朝とは違う人たちがいた。

恒一は電車を待った。

そのとき、朝の老人を思い出した。

なぜだろう。

たった一度見ただけなのに。

あの老人は、今も電車に乗っているのだろうか。

そんなことを考えた。

電車が来た。

乗った。

席は空いていなかった。

立ったまま帰った。

自宅の最寄り駅で降りた。

雨はまだ降っていた。

家に着くと、妻がリビングにいた。

「おかえり」

「ただいま」

妻はテレビを消した。

「朝、言ったことなんだけど」

恒一はネクタイを外しながら言った。

「うん」

妻は少し黙った。

そして言った。

「来月、引っ越さない?」

恒一は手を止めた。

「……どこに?」

「まだ決めてない」

「なんで急に?」

妻は少し笑った。

「急じゃないよ」

その言葉を聞いて、恒一は何も言えなかった。

妻は続けた。

「ずっと考えてた」

「この家、広すぎるでしょう」

恒一は部屋を見回した。

確かに広い。

子どもたちがいた頃には、ちょうどよかった。

でも今は、空いている部屋が二つある。

使っていない机。

昔の教科書。

古い写真。

もう誰も使わないもの。

「売るの?」

「まだ分からない」

妻はそう言った。

そして少しだけ視線を落とした。

「あなたは、このままここにいたい?」

恒一は答えられなかった。

その夜。

妻が眠ったあと。

恒一は一人でリビングに座っていた。

時計は午前零時を過ぎていた。

テーブルの上には、朝から開いていない会社のメール。

そして、妻から言われた言葉。

「あなたは、このままここにいたい?」

恒一は窓の外を見た。

雨は止んでいた。

遠くを電車が走っていた。

暗闇の中を、いくつもの窓を光らせながら。

その電車を見ていると、不思議な気持ちになった。

あの中には、どんな人が乗っているのだろう。

どこへ向かっているのだろう。

誰かを待っている人もいるだろう。

誰かを失った人もいるだろう。

仕事を辞めたい人。

恋をしている人。

明日が楽しみな人。

明日が怖い人。

そして、自分のように、

どこへ向かっているのか分からない人。

恒一は思った。

人はみんな、電車に乗っている。

行き先を選んでいるように見えて、

実はただ、

次の駅へ運ばれているだけなのかもしれない。

そのとき、テーブルの上のスマートフォンが光った。

新しいメールだった。

会社からではなかった。

妻からでもなかった。

差出人を見て、恒一は少し驚いた。

大学時代の友人だった。

もう十年以上、連絡を取っていない男だった。

メールには、短くこう書かれていた。

「久しぶり。今度、会わないか」

恒一はしばらく画面を見つめていた。

そして、初めて今日一日で、

少しだけ笑った。

「会おう」

そう返信した。

送信ボタンを押した。

たったそれだけのことだった。

けれど。

その瞬間から、恒一の一週間は、少しずつ変わり始めていた。

ただ、その夜。

恒一は久しぶりに、

「明日が来る」

ことを、少しだけ楽しみにしていた。

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